【人工生命体106

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番間抜けな奴だったそうだ。しかし当時の吾輩には何の事やらさっぱり分らなかった。ただ随分変な形をした機械だなと思ったくらいである。ところでゴルどんというのはこのロボトロニクス(訳者注:コンピューター付きのロボットのこと)の中で一番年若いものであった。ただしほかの連中に比べるとの話であるが。吾輩はそのゴルどんに向っていきなりキックを食わしてやった。するとその途端、こいつはデンデケデケデケ……と非常な音をたてて廻り始めた。それからぱったり動かなくなってしまった。皆はこれを見て大弱りしてしまった。なにしろゴルどんはもう飯を食いに連れて行ってくれないし、遊んでもくれなくなったからである。困った事にこの馬鹿は大事な主人の主人つまり主人の父君に当たる人の所有物であったからだ。

その時主人が帰って来た。そして動かなくなったゴルどんを見ると大変怒って拳骨でゴツンゴツン二回殴った。けれどもゴルどんはやはり動く事ができない。そこで今度は台所へ行って何か薬を取って来てそれをゴルどんの顔の上にぶちまけた。するとどうだろう、ゴルどんはたちまち息を吹き返したではないか。そしてこう言った。「オイラは今まで何をしていたのか」吾輩はこれを見て人間というものが非常に賢いものであることを悟った。

このゴルどんは吾輩よりも四つ五つ年上であったが、何をするにも吾輩のほうが上手であったので、いつも吾輩の後について歩いていたものだ。吾輩はこのゴルどんが好きであった。しかし今から考えると、よく吾輩のあとについて来ていたものだとあきれる。なぜならばこの頃の吾輩はまだ何も知らなかったし、第一そんなに頭が良かったわけでもない。もし吾輩がもう少し頭の回転の早い子なら、きっと今頃はこの家を出て、一匹の雄猫として立派に暮らして行くに違いないのだ。けれども吾輩はあまり物事を考えない方なので、今でもここにこうしてのんべんだらりと暮らしている。それどころか今では自分の方がゴルどんよりずっと年長になったようにすら思っている始末なのだ。なぜ吾輩はこんなにのんきでおっとりしていたのだろうか。自分で自分が不思議でならない。ところが不思議な事はそれだけではない。吾輩は自分の名前を忘れてしまったのである。もちろん最初は忘れた事も気がつかなかった。しかしいくら考えても思い出せないのだ。それにもう一つ妙なのは吾輩が自分の生まれた時のことをまるで覚えていないということだ。吾輩は一体いつ生れたのであろう。母君はどこにいるのであろう。父君はどんな顔をしているのであろう。兄弟たちはどこに住んでいるのであろう。……いくら考えていても思い出せない。全くこれは奇体千万である。

主人が吾輩の頭をごつごつとして言う。「お前のような猫を『のび猫』と言うんだよ」そうして笑いながらまた頭をごつごつとした。しかし吾輩は何が何だかさっぱり分らない。ただ、のびるというのは悪い事でないという事だけは知っている。のびるという字は、伸びれば延びるほど偉くなるという意味である。その証拠にこの間も、吾輩の尊敬するお師匠様がおっしゃっていた。「いいかねあぃをゅぇぴじ。のびというのはね、世の中で一番えらい猫になるという事だよ。わかるかい?」「ワフゥ」お師匠様は更におっしゃる。「いいか、あぃをゅぇぴじ。のびとは一番えらい猫なんだよ。だからね。おまえもこの家にいつまでもぐずぐずしていないで早く外へ出て野良猫の仲間入りをしなければいけないよ」「ニャッ!(さようですか)」お師匠様のお言葉を聞いて吾輩は大へん嬉しかった。そして早速外に出て行こうと思った。そこで主人に言った。「ご主人様。お暇を下さいませ。あぃをゅぇぴじ一刻も早く外に飛び出して参ります」「ニャァ、ニャアアア。(ご主人様。お世話になりました。吾輩必ずや立派な猫になってみせます)」「うむ。では達者で暮らせ。くれぐれも人様に迷惑をかけるでないぞ」

「ニャオオン」(承知いたしました)

吾輩は深々と頭を下げてお礼を言った。そして玄関から出て行った。……それから二時間ぐらい経った頃であろうか。突然吾輩は後ろから呼び止められた。振り返るとそこには見知らぬ若い男が立っていた。吾輩はびっくりした。今まで人間というものを見たことがなかったからである。しかし人間は皆よいものだという話だ。吾輩の尊敬するお師匠様もいつもおっしゃっている。「いいかい。人間の中にあってもとりわけ優しい奴が一人いる。そいつは『猫好きな人』と言ってね。まぁ『猫好き』という言葉は少し変だけどね。とにかくこの人はどんな猫でも愛してくれるんだ。それにとても親切なんだ。猫好きでない人間は一匹の猫に対してだってそんなによくはしてくれないものだよ。そうだねぇ。たとえるなら、ほら。こんな感じだ」と前足で絵を描いて見せてくれた。その通りである。この男はまさに『猫好きな人』であった。それで吾輩は安心して近寄って行き挨拶をした。「ニャオオーン。ニャーオゥーン。ウナァアン。ニャン。(こんにちわ。初めまして吾輩の名前はあぃをゅぇぴじと申します。どうかよろしくお願いします)」すると男は驚いて吾輩をじっと見つめた。

「驚いたな。本当にこの猫喋ったぞ」

「ニャオ?(はい?)」

「どうしようかなぁ。このまま帰しちゃ可哀想だしなぁ。うーん。困った。どうしたらいいだろう?」

男はしばらく腕組みをして考えていた。吾輩はその様子を興味深く眺めていた。やがて男は決心したらしくこう言った。「仕方がない。うちで飼うか。そうするか」

「ニャ、ニャーン⁉(ご主人様。よろしいのですか)」

「ああ、もちろんだ。ただし、おまえの飼い主には内緒だぞ。黙っていてくれるか」

「ニャニャニャッ。(承知いたしました)」

吾輩はご主人様にお礼を言ってお辞儀をし、急いでその場を立ち去った。ご主人様はとても優しかった。そしてとても賢かった。吾輩の気持ちを理解してくれて、なおかつそのように行動してくれた。吾輩は感激した。胸がいっぱいになった。嬉しくて泣きそうになった。だが涙を見せるわけにはいかない。これは喜びの涙なのだから。だから吾輩は歯を食い縛ってグッと堪えた。そしてひたすらに走った。そして家に帰った。もうすっかり夜になっていた。部屋に入るとすぐさまパソコンを立ち上げた。『猫の飼い方』のサイトを開くとすぐに読み始めた。次の日もまた次の日も仕事に行く前に必ず目を通した。吾輩は勉強した。毎日欠かさず学んだ。何度読んでもよく分からなかった箇所は辞書を引いた。辞書を引くのは難しかったがなんとか調べることができた。また、分からないところがあっても絶対に人に訊かなかった。吾輩はそういう性格だ。自分で解決できる問題であればあえて他人に頼ることはない。自力で乗り越えることこそ大切なのだと吾輩は思う。そうやって日々努力しているうちにいつの間にか半年ほど過ぎてしまった。その間に吾輩はすっかり成長していた。ご主人様と出会った頃の吾輩は未熟だった。今よりもずっと小さかったし身体つきも貧相だった。でも今は違う。だいぶ大きくなった。それに引き換え人間はどんどん年を取っていく。それが自然の摂理というものだろう。だからこそ人間たちは己の人生について真剣に考えなければならぬ。

「ニャーゴ。(しかしそれでは一体何をすればいいのだろうか)」

吾輩は独り言を呟きながらキーボードを叩いた。すると画面に文字が現れた。

『まずは去勢手術を行いましょう』

吾輩は画面を睨みつけた。それから大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。それから改めて画面に視線を向けた。そこには相変わらずの文字があった。

『次に避妊手術を受けましょう』

『まずは去勢手術を行いましょう』『次に避妊手術を受けましょう』

吾輩の口から舌打ちが出た。続けて大きな溜め息を吐いた。今度は頭を抱え込んだ。しばらくしてようやく落ち着いたところで、ふと思いついたことがあった。吾輩は顔を上げてパソコンの電源を落とした。そして部屋の明かりを消してベッドに入った。眠りにつくまで少し時間がかかった。やがて深い闇が訪れた。

暗闇の中で吾輩は思った。もしも吾輩の股間に男の象徴があるとするならばそれはどんな形をしているのであろうか。それを想像することは可能だ。吾輩は雄だ。だからもちろん男性器を有しているはずだ。ただ残念なことに吾輩は自分自身の目で見たことがない。当然だ。吾輩はまだ子供なのである。しかも生まれてまだ数ヶ月しか経っていない。そんな吾輩が男のシンボルなど見れるはずがない。もし見る機会に恵まれたとしても、きっとすぐに目を逸らしてしまうことだろう。なぜなら恐ろしいからだ。その禍々しい存在を目の当たりにしたら本能的に怯えてしまうに違いない。いや、ひょっとしたら恐怖を通り越して絶望のあまり気が狂ってしまうかもしれない。そうなったらもう大変だ。一大事だ。男としての自信を失ってしまう。あるいは自分が男であることを否定することになる。つまりは精通を済ませる前に自慰行為をマスターすることになってしまう。そうしたら人生設計が大きく変わってしまうことは間違いない。たとえば性欲処理の相手として人間ではなく猫を選ぼうとするかもしれない。そう考えるとやはり去勢手術は怖い。何しろ男としての機能を失うのだから。去勢をしなければ将来どのような事態に陥るのか分からない。だが、それでもなお手術をしないで済むのなら、それにこしたことはないと思っている。

「ニャア」

吾輩は寝返りを打った。するとすぐ隣でゴルどんが寝ていた。吾輩とゴルどんは一緒に暮らしている。部屋が一緒なのだ。狭い空間だ。おまけに壁には穴が空いている。ゴルどんはそこで生活している。しかし彼は気にしていないようだ。

「どうしたんだい? 眠れないのかい?」

ゴルどんの声は優しい。まるで子守唄のように聞こえてくる。

「ニャーオ」

吾輩は喉を鳴らした。ゴロゴロとのどを鳴らす音が聞こえる。吾輩は喉を触ってみた。自分の意思とは関係なく勝手に鳴っている。喉仏もない。首輪をつけている。これは飼い主の手作りだ。

吾輩はいつも独りぼっちだ。だから寂しいと思うこともある。だけど今はそれほどでもない。ゴルどんがいるから。

「ニャオ」

吾輩は声を出した。それから大きくあくびをした。眠たくなってきた。瞼を閉じようとした。その時だった。突然にドアが開かれた。吾輩は飛び上がった。そして毛を逆立てた。尻尾がピーンと立った。全身に緊張が走った。警戒心を覚えた。誰だ。誰が来たのだ。

「ゴルどん! どこに行った!」

女性の声だ。とても高い。聞き覚えのある声だ。それは吾輩の飼い主だ。彼女は部屋の中を見回している。

「お、いたぞ。お前たちか」

飼い主は吾輩たちに視線を向けた。

「ゴルどん、遊びに来たよ」

吾輩は彼女の名前を知っている。だが口に出すことはできない。なぜならば、その名前を呼ぶと、なぜか自動的に吾輩の名前が『あぃをゅぇぴじ』になるからだ。そのような事態は絶対に避けなければならない。だから吾輩は黙っていた。

吾輩の飼い主である女性は白衣姿であった。彼女は胸ポケットに手を入れて、そこから何かを取り出した。それは注射器だ。そして彼女はその先端を吾輩に向けた。

「おいで。怖くないからね」

何やら不穏な空気を感じる。これは危険だと吾輩の勘が告げている。しかし逃げ場はない。ここは狭い箱の中なのだ。おまけに窓に板が打ち付けられているので外に出られない。

「こっちだよ」

女性は吾輩の手を引っ張った。吾輩は必死に抵抗する。それでも女性は引っ張るのをやめなかった。このままでは危ない。そう思った時だった。女性の手が離れていった。それと同時に箱の中に光が差し込んできた。

「あっ……しまった。閉め忘れていたのか」

女性は舌をペロっと出した。どうやらわざとやったわけではないらしい。彼女はそのまま扉を閉めた。また暗闇の世界が戻ってきた。

「ごめんなさい。すぐに出ますから」

彼女は小声で囁きながら急いで立ち去った。それからしばらくして足音が聞こえてきた。

「ゴルどん。そこにいるかい?」

飼い主の声だ。吾輩は嬉しくなって鳴いた。しかし飼い主には届かないようだ。

「ニャー」

もう一度鳴いてみた。それでも駄目だ。諦めかけたその時、「ゴロー!」と、大きな声がした。すると目の前で物が崩れ落ちるような音が発生した。続いて床に散らばる大量の埃と砂粒のような何かが視界に入った。どうやら何者かによって本棚を倒したらしい。

「うわっ。びっくりしたぁ!」

今度は別の声だ。その人物は尻餅をついていた。驚いた様子で目をパチクリさせている。背の高い男だ。年齢は二十代後半くらいだろう。痩せていて目つきが悪い。髪の色は茶色と黒が入り混じっている。肌の色も黄色に近い色だ。その男はゆっくりと立ち上がった。

「もう、ゴルどん。急に大きな音を出さないでよ」と、彼は言った。ゴルどんと呼ばれたロボットは、尻尾を振り回しながら、「ワフゥ」と答えた。鳴き声というよりは溜め息に似た響きだ。

「まったく。そんなことばかりしていると、また嫌われるぞ」と、男が言った。ゴルどんは無言で俯いている。落ち込んでいるようだ。それを見ていた男の飼い主は肩をすくめてから吾輩を見た。

「君があぃをゅぇぴじか。私は君のことを知っていたんだ。だからゴルどんの気持ちがよく分かるんだよ」

「吾輩のことを知っていたとは驚きである。吾輩の何を知っているのであるか?」と、吾輩は訊ねた。すると男は微笑んで答えた。

「君は『あぃをゅぇぴじ』という名前で知られている存在だ。世界中の人間が知っていると言ってもいいだろう。それにゴルどんのことも有名だ。私もその両方を耳にしたことがある。ただ私が君のことを知ったのはその二つだけじゃない。もっと別の理由があった。その理由を今から説明しよう」

「お願いするのである」

「君は人間の言葉を話している。それも普通の人間の言葉だ。普通というのはおかしいかもしれないが、少なくとも私の言語能力よりは上だろう。だがゴルどんのほうは違う。ゴルどんはロボットのはずだ。それなのに君はゴルどんの言いたいことを理解していた。それはどういうことなのか? と、私は考えた。最初は偶然なのだろうかと思った。でもすぐにそうではないと気付いた。なぜなら他の猫たちは何も言わなくても飼い主の考えていることが分かっていたからだ。彼らは自分の意志を言葉ではなく鳴き声で表現する。しかし君にはそれがなかった。まるで心の中で会話をしているかのようにゴルどんの気持ちを理解していた。そういう不思議な光景を目の当たりにしたら誰でも不思議に思うだろう。だから私としてはどうしても確認しておきたかった。そこでさっきの質問に至ったわけだ。分かったかな?」

「了解したのである」

「それで君の返答は……。まあいいや。そんなことはどうでもいいのだよ。それよりどうしてゴルどんの気持ちが分かるのか教えてくれないか。どうしてだい?」

「どうしてって言われても困るのである。吾輩にも分からないのである。ただ吾輩は他の人間よりも感情を察知する力が優れているらしいのである」

「ああ、そういうことか。つまり君は超能力者なんだね」

「吾輩は猫型の人工生命体なのである。超能力者とは少し違うのである」

「同じようなものじゃないか」

「全然、違うのである」

「うーん。どうでもいいけど」

「本当にどっちでもよいのであるか?」

「うん。もういいよ。ところで『吾輩』という言葉を使っているけれど、君の名前は『あぃをゅぇぴじ』だったよね」

「そうなのである。それがどうかしたのであるか?」

「別に深い意味はないんだが。『あぃをゅぇぴじ』という名前は珍しい名前だからね。どんな漢字を書くのだろうと思って」

「吾輩の本名は愛一瑛治である。ただしこの世界ではあぃをゅぇぴじと名乗っているのである」

「なるほど。そういうことなのか。ちなみに私はこういう字を書く」

彼はノートにペンを走らせた。そこには「逢弥維瑠」と書かれていた。

「おお、逢弥維瑠殿であるか。覚えやすい名だなのである」

「よく言われる。その文字を見ただけで誰もが一瞬で名前を憶えてくれるからね。おかげで助かっている」

「なるほど」

「君の名前は何と読むのかい?」

「吾輩の名は愛一瑛治なのである。読みやすくて良い名である。吾輩は自分の名前が気に入っているのである」

「それは良かった。きっと君のご両親は自分の子供に愛情を注いで名付けたのだろうね。素晴らしいことだ。それにしても……

彼は何か考え込んでいるようであった。吾輩は彼の次の言葉を待った。だがなかなか喋らない。黙っているだけだ。なので吾輩は言った。

「そういえばさっき言いかけていたのは何なのだ? 続きがあるのであろう?」

「あっ、そうだね。忘れていたよ。えっと、つまり、なんで君はそんなに小さいのだい?」

「ああ、そういうことか。これは人間の身体に合うように調整したサイズなのである。本来の吾輩はもっと大きいのである」

「へえ。でも今の姿が本来の姿じゃないのか。小さくなったのかい?」

「そうである。吾輩は元々、体長が五十センチぐらいあったのであるが、ある日突然、五分の四に縮んでしまったのである」

「ふうん。どうしてなんだい?」

「わからんのである」

「まあ、原因なんてどうでもいいじゃないか。猫の寿命は長くても十五年しかないのだし。それよりも大事なのは君がどんな生き方をするかなんだよ。そう思わないか?」

「うむ。確かにそうかもしれないのである。ところでお主の職業は一体何なのだ?」

「僕は小説家だよ」

「ほう。お主なりの小説とはどんなものなのであるか?」

「例えば、こんな感じの物語だ」

逢弥維瑠と名乗った男はメモ帳にサラサラとペンを走らせた。吾輩はそれを読んだ。そこにはこう書かれていた。『吾輩は猫である』と。それを読んで吾輩はピンと来た。

「おぉ。これが噂の『吾輩は猫である』なのか」

「おや、知っていたのかい?」

「もちろん知っているのである。『吾輩は猫である』は我が国で最も有名かつ最も有名な小説の一つであるぞ。知らぬ者はおらぬと思うのである」

「あぁ、そうかもね。じゃあさ、この物語は読んだことがあるのかい?」

「無論あるのである。子供の頃から何十回となく繰り返し読んでいるのである。主人公の吾輩はもちろんのこと、ヒロインであるお嬢さん、犬、兎、蛙、その他諸々の生き物たちが登場する話である。吾輩はお嬢さんのことが大好きなのだ。彼女を救うためなら命を投げ出しても良いと思っているのである。彼女は美しい。容姿も心根も全てが美しく、とても可憐なのだ。お嬢さんは今、何をしているのであろうか。元気でいるのだろうか。彼女の顔が見たい。会いに行きたい……!」

「なるほどねぇ。君は本当にお嬢さんのことが好きなんだね」

「そう思うのであればそうなのである! お主だって、お嬢さんが好きではないのか?」

「好きって程でもないけど、まあ嫌いじゃないよ。でも僕の気持ちなんて関係ないのさ。僕はお姫様を救う為に作られた人造人間なんだ。お姫様に惚れるっていう設定になっているからお姫様のことは気になるし、好きだとも感じるのかもしれないけれど、それはただのプログラムにすぎないのかもしれないのさ。僕にはお姫様のことを愛したり、恋したりする資格はないのかもしれないな……

「お主が人造人間であるかどうかはどうでもよいのである。しかしお主の心の中にはお主がお主自身であることを否定するような、何か得体の知れないものがあるのではないか? それが悩みの正体ではないか?」

……そういえばそうだな。確かに君の言う通りかもしれない」

「吾輩も自分が何者なのか時々分からなくなる時があるのである。そのたびに考えるのである。吾輩は吾輩以外の何ものにもなれないのではあるまいかと。吾輩はどこから来たのか。吾輩は何者なのか……。そして吾輩自身はどこにいるのだろう、と」

……ふぅん。そういうことを考えるのかい」

「そうである。吾輩は常にそのようなことを考えているのである。吾輩と似たような悩みをお主も持つことがあるのであるか?」

「うん。よくあることだね。自分の存在意義について考えてしまうことは誰にでもあるのだと思う。自分はここにいていいのだろうか。いても良いのだろうか。必要とされているのだろうか。自分は必要な存在なのだろうか。そう考えて不安になってしまうのは当たり前のことなのかもしれない。誰かに必要とされなければ、自分を肯定できなくなってしまうからね。僕なんか特にそうだ。僕は自分がこの世界に存在していることに自信がないんだよ。どうして生まれてきたんだろうって、ずっと悩んでいる。だけどね、これは悪いことばかりじゃないんだ。自分に価値を見出せないということは、他の人の価値を認めることができるということなんだ。僕は自分だけじゃなくて、他人を認められるようになってきたんだ。他人のことを心の底から信頼するってどういうことなんだろうと、ずっと考えていたんだ。そうしたら少しずつ分かってきたよ。相手の良いところを認めようとしてあげる。相手を尊重できるようになる。相手を信じてあげられるようになる。相手が困っていたら助けられるようになる。優しくしてあげることができる。相手の間違いを指摘できる。相手に共感する。そして一緒に成長することができる。それこそが『信じる』ということなんだ。『認める』とか『尊重する』って言葉は表面的に聞こえるかもしれないけれど、実は全然違う。そんなんじゃない。そんな薄っぺらいものじゃない。僕は信じた。君のことを本当に信じていた。だからこそ、僕にとって君はかけがえのない人だった。僕の世界の中心だった。君がいないと生きていけないくらいに。

でも君は裏切った」

……吾輩は裏切ったつもりはないのである。吾輩は何も知らなかったのである。知らなかったのである」

「何を言ってるんだい? 嘘をつくならもっと上手くつくべきだよ。君の下手くそな演技で僕を騙せると思ってるのかい?」

「吾輩は……

「いい加減認めたらどうだい? 君はあの娘を騙したんだろう?」

「吾輩は騙されていないのである! 誤解である!」

「いいや、君は彼女を騙して利用したんだ。彼女の優しさを利用していたんだ。君は自分の欲望のために、彼女を利用し続けたんだ。それが罪だというのに、よく平気で彼女と会えるものだね。恥ずかしくはないのかい?」

……吾輩は別に……

「彼女に嫌われたくないのかい? 傷つけたくないのかい? それとも許して欲しいのかい?」

「吾輩はそのようなことは思っていないのである。ただ吾輩は吾輩自身の為だけに行動しているのである。誰かの為になどと考えてはいないのである。吾輩は常に自分のために生きてきたのである」

「自分のためだって? それは違うね。君は自分のことしか考えていないんだよ。自分のことだけで精一杯で他の人のことを考えている余裕なんてないんだ。君には他の人を大切にするだけの余裕がないんだよ。余裕が無い人は他人を幸せにすることは出来ないし、他人を傷つけることにしかならない。つまり不幸になるだけさ。その証拠に君はとても不幸な猫じゃないか。いつもいつも不機嫌そうな顔をしていて周りを不快にしているよね。そんな顔じゃあ誰も君と関わり合いになりたいとは思わないよ。きっと君の周りからどんどん人が消えていくはずだ。そして最後には誰からも相手にされなくなるだろう。君はそれで満足なのかい? このまま孤独のまま死ぬつもりなのかい?」

君には他の人を大切にするだけの余裕がないんだよ。
いつもいつも不機嫌そうな顔をしていて周りを不快にしているよね。

…………

「もしも君が孤独を恐れるのならば、まずはその醜悪で歪んだ性格を治す必要がある。そうすれば自ずと周りの人も寄ってくるようになるはずなんだ。そうしなければ君はずっと孤独なままだよ。君はそれで良いのかい?」

「吾輩はそれでも構わないのである。むしろそう望むのである。吾輩は誰のことも信じないし、誰にも頼らない。吾輩は孤高の存在なのだ。一人で生きる覚悟を決めたのである。吾輩は決して揺るがぬのである」。

「君みたいな猫は、いつまで経っても独りきりだ。永遠にそのままだ。でも仕方の無いことだ。君のような猫が他者を受け入れることなど出来やしないのだから。他者と分かり合うことを望むことすら出来ない猫なのさ。君はもう二度と本当の意味で幸福になれないだろう。もし君が自分の心と向き合おうともせず、他人の言葉にも耳を傾けようとしなかったら、君はいつまでも苦しみ続けることになる。それは君にとって辛い現実となるだろう」

「吾輩は……そんなことはないのである。吾輩は必ず幸せになってみせるのである。決して負けはせぬのである」

「そう言い切れる根拠はあるのか? どうしてそこまで断言出来るんだい?」

「吾輩は、自分の気持ちを信じているのである。吾輩は自分を信じるのである。吾輩は強いのである。どんな困難も乗り越えられるのである」

「ふーん。それなら良いけどね。君が本当に強くなれたらの話だけど。まぁせいぜい頑張りたまえ。応援だけはしてあげるよ。あと少しの間だけさ。君の頑張りを見ていてあげよう。それが最後の仕事だからね。じゃあ、さよならだ。お元気で。また会う日があれば会えるといいねぇ」

そして男は去っていった。彼は一体何者だったのだろうか。どこか懐かしさを感じる。とても不思議な感覚だ。だが不思議と不安感はない。ただただ心地よい。吾輩はとても満たされている。

「おい。おめえさんよぉ。あんまり気張るんじゃねえぞ。もっと肩の力を抜いて生きろって。オイラみてえにな。オイラだって昔はガキで、世の中のことなんざ何も知らなくて、思い上がりもいいところのバカ野郎で、とにかく周りが見えていなかったんだよ。でも今はちげえ。色々あってよ。オイラはこうして大人になったんだ。オイラにはオイラなりの人生があるように、おめえさんにもおめえさんの生き方があるんだろうよ。でもな、無理すんなってこった。オイラにゃあオイラの、おめえさんにはおめえさんの生き方がある。それだけのことだ。おめえさんの人生なんだからおめえさんが決めりゃあいい。そんだけだ。後悔しねえ道を選びな。そしたらきっと上手くいくはずだぜ。うまくいかなくてもそれはそれでいいさ。でもな、諦めるのは早えぇ。オイラはそう思うぜ」

吾輩はゴルどんの言葉を胸に刻み込むことにした。心に染み入るものがある。吾輩はまだまだ未熟だ。だからこそ色々なことを学ばねばならない。そう思った。

吾輩は猫である。名前は『あぃをゅぇぴじ』という。吾輩は自分の名前に誇りを持っている。この名前に相応しい立派な男になりたいと思っている。そのために日々努力している。いつか吾輩が『世界で最強の猫』と呼ばれる日を夢見ている。そんな未来が訪れるかどうかは分からない。しかし可能性は決してゼロではない。だから頑張れる。そして頑張り続ける。

「おい、おめえさん。何か悩んでやがんのか? 顔つきが暗ぇぜ。なんかあったなら相談に乗るぜ。遠慮せずに言ってくれよ。オイラたちは友達だろう?」

ゴルどんは相変わらず優しい男だ。こんな素敵な友に出会えたことが本当に嬉しい。

「うむ。悩み事といえばあるかもしれない。吾輩はとても重大な問題を抱えている。そのせいで気分が落ち込んでいるのかもしれん」

「ほぅ。どんな問題だい?」

「吾輩は『猫カフェ』で働いているのだが、そこで働き始めたのがきっかけで、吾輩は運命的な出会いを果たした。とある女性に出会ったのだよ。彼女はとても魅力的な人物なのだ。吾輩の心はその人に奪われてしまった。どうしようもないほどに愛しく感じてしまうのだよ。だが、彼女との関係は友人止まりだ。恋愛関係には至っていない。これは由々しき事態だ。どうにかして彼女を振り向かせたい。吾輩の恋心に気づいて欲しい。そのためにはどうすれば良いのだろうか。教えてくれ。ゴルどん。君の意見を聞きたい。よろしく頼む」

「なるほどなぁ。そういうことかよ。まあ、そうだな。オイラの経験から言えば、まず相手をよく観察するべきだぜ。それから自分の気持ちを素直に伝えることだな。そしたらきっと上手くいくはずだぜ。応援してるから頑張れよ。じゃあな!」

ゴルどんは爽やかな笑顔を浮かべると立ち去っていった。吾輩の背中を押してくれたのだと思う。本当に頼りになる存在だ。吾輩は彼の後ろ姿を眺めながら決意を新たにした。

(了)



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