【人工生命体108

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番怖しい奴であったそうだ。

吾輩はここへ来てからというもの毎日とても愉快に暮らしている。ここには野良やら、捨て子やらが沢山いて吾輩はとても飢える事を知らない。その上みんなが吾輩の来る前は「馬鹿」とか「阿呆」とか言って苛めたものである。それが今では吾輩の顔を見るたびにニコニコして近づいてくる。なぜだろう。不思議だなあ。……ああ、そうか。わかったぞ。この間吾輩の顔を見ていたある人間が、「こいつぁ化物だ。顔に傷があるぜ。きっとその昔よほど恐ろしい目にあったんだろう。気の毒に。可愛そうな事をしちゃったぜ」と言ったからだ。それから吾輩を見ると人間はみんな同情してくれて、お菓子だとかオモチャなんかをくれるようになったのだ。これはすべてゴルどんのお蔭なのだ。ありがたい、ありがたい。

ところで話は変わるが、先日ゴルどんが「お前もだいぶ大きくなったことだし、そろそろ独り立ちをしなければなるまい」と言って来た。それを聞いて吾輩は少し淋しかった。何しろもう三年も一緒に暮らして来た仲ではないか。人間ならば親友と言ってもいいくらいだ。しかしこれも仕方がない。ゴルどんにはゴルどんの都合というものがあっての事だ。それによく考えてみれば吾輩はまだ幼い。この世界について何も知らない。これから一生懸命勉強しなければならないのだ。だから吾輩は泣く泣くゴルどんの言う事にしたがって東京へ行くことにした。

ゴルどんに伴われてまずやって来た所は犬小屋だった。ここはゴルどんの親友の家らしい。そこには『チワワちゃん』『ビーグルくん』『柴犬くん』『シェパードさん』『コリーちゃん』『プードルちゃん』『ポメラニアンちゃん』『マルチーズちゃん』などの可愛い動物達がいた。彼等はいずれもゴルどんの友だちらしく、吾輩を見ると寄ってたかって撫でたり抱いたりしてくれた。中には「おいらにもこれぐらいの子がいるんだけど、全然懐いてくれなくてね」などと言う人もいた。その時吾輩は嬉しくなって、彼の掌に尻尾を絡ませたりしたものである。

次に連れられたところはお花畑であった。そこここにいろんな種類の草木が咲いていた。色とりどりの花々の香気があたり一面に立ちこめていた。

ここでゴルどんは別れを告げた。吾輩は一人で山を越えなければならないのだ。ゴルどんと離れるのは淋しいけれど我慢しよう。吾輩は大きく息を吸い込んで胸を膨らませると元気良く歩き出した。

しばらく歩くうちに道ばたで小鳥を見つけた。吾輩は彼に近づいて行って頭を摺り寄せてみた。すると小鳥のほうでも吾輩の匂いを嗅ぎつけて「こんにちわ」と挨拶をした。それで吾輩も「ニャア」と鳴いて応えたのである。すると彼は「あなた、いい声しているねえ」と言った。吾輩も「ニャッフ」と鳴いて応じたものである。その後、吾輩達は二言三言言葉を交してから別れた。吾輩はまた一路山を目指して歩を進めた。

吾輩は森の中で迷ってしまった。困った。どうすれば良いのだろう。とりあえずその場に留まって考える事にした。しばらくしてからもう一度試してみようと思った。しかし、いくら待っても考えは浮かばなかった。やがて日が暮れて来た。お腹が空いてきた。仕方がない。吾輩は腹をくくって夜を過ごす事にした。幸い近くに大きな木の洞があるのを発見したので、そこに潜り込むことにした。寝るのには最適の場所だった。

さて、明日になった。やはり考えは浮かんでこない。このままではいけない。何とかしなければと焦りばかりが募ってくる。その時である。どこからともなく何かの気配を感じた。何だろうか。これは気になる。そう言えば昨晩もこんな事があったような気がするぞ。吾輩は辺りを見回した。けれども周りは深い森に覆われていて何も見えない。ただ、その向こうの方でかすかに何かの音が聞こえてくるのに気付いた。何の音なのであろう。吾輩はその音に誘われるように足を踏み出してみた。

すると、どうしたことだろう。目の前の茂みが大きく揺れるとそこから一人の人間が現れたのである。人間は吾輩の姿を見ると驚いたように目を丸く見開いた。しかし、すぐに笑顔を見せて言った。

「やあ、君。迷子かい?」

吾輩は首を横に振った。吾輩は『あぃをゅぇぴじ』である。迷子ではないのだ。それを人間が説明しようとした時、再びあの妙なる調べが響いた。

それは美しい音色であった。思わず耳を傾けたくなるほど心地の良い響きなのだ。吾輩と人間は顔を見合わせた。二人は同時に駆け出した。音の聞こえる方に向かって。


その音色に導かれて森の中を走り続けた。どのくらいの時間が流れたのだろう。ようやくにして辿りついた先は、木漏れ日の射しこむ静かな池のほとりだった。そこには一匹の黒猫がいた。尻尾をピンと立ててピアノを弾いている。彼が奏でる音色に吾輩達は魅せられた。彼の演奏はいつ果てるとも知れず続く。いつまでも聞いていたいと思わせる旋律だ。人間の女がつぶやく声が聞こえてきた。

辿りついた先は、木漏れ日の射しこむ静かな池のほとりだった。そこには一匹の黒猫がいた。

「素晴らしいわ。これこそ本物の音楽よ」

しかし、その言葉を耳にしても黒猫の表情に変化はなかった。彼は黙々と鍵盤に指を走らせている。吾輩は考えた。

⸺本物の音楽とは一体どういうものなのだろうか。

そして、その答えを確かめたくてここまでやって来たのではなかったか。

吾輩は黒猫に尋ねた。

「そなたが弾いているのは本当の音楽なのか?」

だが、黒猫は返事の代わりに別の曲を弾き始めた。今度はどこか悲しげで物悲しい調べだ。吾輩は再び問うた。

「その曲は本当の曲なのか? それとも偽の曲なのか?」

すると、黒猫が言った。

「君、これは本当の曲だぜ。だけども、これは僕の好きな曲じゃないんだ。僕が作ったわけでもない。誰かが適当に作った曲だぜ。それがこの曲だぜ。君はどう思う?」

吾輩はしばらく考えてから言った。

「吾輩には分からない。しかし、少なくとも吾輩はその曲の素晴らしさを感じることはできるぞ。それだけでも素晴らしいことではないか。それに……

吾輩はゴルどんをチラリと見た。ゴルどんの尻尾がピーンと立っている。それはゴルどんにとって嬉しい知らせだということだ。

「たとえ誰に作られたとしても、素晴らしい曲であることに変わりはないと思う。それは確かだと思うのだ」

そう言うと吾輩は尻尾の先っぽで鼻の下を軽く掻いた。尻尾を揺らすのは喜びの印だ。すると、ゴルどんが口を開いた。

「うん、確かにそうだぜ。オイラはあの曲が好きだぜ。何だか気持ちが落ち着くんだよなぁ。心の中に溜まっていた疲れや苦しみが流れ出していくような感じだぜ。まぁ、そんなの錯覚かもしれないけどよぉ。でも、良い気分になれるのは間違いないぜ。ニャハハ」

ゴルどんは嬉しそうな顔で笑った。それを見ていると吾輩まで幸せな気分になるのだ。

吾輩とゴルどんは二人で並んで座っていた。目の前ではあぃをゅぇぴじがピアノを弾いている。彼は吾輩達の仲間であり友達でもある。猫カフェの店員をしているのだが、客が来ると猫の鳴き声で対応したりもする。つまり、接客係なのだ。そして、彼と一緒に暮らしているのがこのゴルどんである。あぃをゅぇぴじの演奏が終わると、吾輩達は拍手をした。

「いやぁ、やっぱり上手いなぁ。感動したぜ。なっ、ニャゴロー」

ゴルどんが吾輩の方を振り向いたので、吾輩は尻尾をピクリと動かした。それからこう答えた。

「うむ。見事であった。やはり天才である。吾輩は感服するばかりだ」

すると、あぃをゅぇぴじが照れ臭そうに笑って頭を掻いた。それから言った。

「ありがとう。でも、まだまだ練習不足なんだ。もっと上手くなりたいと思っているんだけどね」

「ニャハハ、そうなのか。まぁ、焦らずゆっくりやるといいぜ。時間はたっぷりあるんだからよぉ」

あぃをゅぇぴじの言葉を聞いてゴルどんが笑いながらそう言った。それを聞いた吾輩もまた思わず笑みを浮かべてしまった。

「ニャフフフフ」

しかし、その時だった。突如として、店の外から何か音が聞こえてきた。ドカッドカッと大きな音を立てている。何事かと思って外を見てみると、そこには一匹のロボットがいた。しかも全身緑色だ。その大きさはかなり大きい。

「あれは何であるか?」

吾輩が首を傾げつつ尋ねると、あぃをゅぇぴじがすぐに説明してくれた。

「ロボットだ。二足歩行で歩いているな。ほら、頭の後ろに車輪があるだろう? それで移動しているんだよ」

なるほど。言われてみると、確かに頭の後ろで車輪を回して動いているようだ。しかし、何のためにこのような真似をするのであろうか。謎だ。疑問だ。解せない。吾輩には不思議で仕方がない。あぃをゅぇぴじは吾輩に向かって言った。

「君って好奇心旺盛だよな。僕がちょっと外出しようとしただけで、ついて来るなんてさ。本当に困った奴だ」

「にゃーん(そんなことはないぞ)」

吾輩はすぐに反論したのだが、何故か通じなかった。おかしい。何故だ。ちゃんと喋っているつもりなのに、どうして吾輩の思いが伝わらないのだろうか。少し悲しい気分になった。だが、ここでめげるわけにはいかない。

「にゃん……(吾輩はただ散歩がしたいだけなのだが……)」

すると、ゴルどんがこんなことを言い出した。

「まぁ、いいじゃねぇか。ニャゴローもたまには外に出たいんだろ。ここはお供させてやろうぜ」

どうやらゴルどんには吾輩の気持ちが伝わっているらしい。それにしても、お供とはどういうことなのだろうか。まったく理解できない。吾輩はお供が必要な身分ではないはずだ。一人で自由に生きていくべき存在だ。しかし、今はゴルどんの好意に甘えることにしよう。

「ニャーン(よろしく頼む)」

「おうよ」

ゴルどんが笑顔で返事をした。それから彼は吾輩に向かってこう言った。

「んじゃ、行くとするぜ。まずはニャゴローのご主人様に挨拶をしなくちゃな」

「ニャフフフ」

吾輩は彼の言葉を聞いて嬉しくなった。なぜならば、これから向かう先は、あぃをゅぇぴじの住む家だからだ。あぃをゅぇぴじは吾輩にとって友人であり、恩人でもある。そのおかげで今の吾輩があるといっても過言ではないだろう。だから、あぃをゅぇぴじのことは大好きだし、尊敬もしている。彼に会うと元気が出る。そんな気がする。

吾輩とゴルどんは、一緒にあぃをゅぇぴじの家に向かった。彼の家は、とある高層マンションの最上階にある部屋だ。そこに向かうためには、エレベーターに乗って行かなければならない。

エレベーターの扉が開いたとき、吾輩は少し驚いた。何故ならば、そこに大勢の人が乗っていたからだ。まるで満員電車のような有様であった。これほどまでに多くの人々が同じ空間で同時に同じ時間を過ごすとは、不思議なものである。しかも、彼らは全員が吾輩たちと同じ目的で動いているようだ。つまり、目的地は同じということだろう。何と素晴らしい光景であることか。これこそまさに人類が生み出した文化の一つであろう。

だが、そんな感動に浸っている暇はなかった。何故なら、エレベーターが目的の階に止まったからである。途端に、吾輩たちは大勢の人たちによって押し出されたのだった。

「うおっ」

吾輩とゴルどんは人の波に流されてしまった。危うく踏まれてしまうところだったが、何とか難を逃れた。いや、実際には逃れられなかった。何しろゴルどんの体は大きいので、上手く動けなかったのである。

結局、吾輩とゴルどんは、床に仰向けで倒れ込むことになった。ゴルどんの背中が壁に激突して、とても痛そうだ。

「おい、大丈夫か?」

吾輩は心配になって彼に声を掛けた。すると、ゴルどんはこちらを振り返って笑った。

「ワハハハ、平気だぜ。こんなのへっちゃらさ。お安い御用だぜ」

「そうなのか? でも、吾輩のせいで、すまないと思っているぞ」

「まぁ、気にするなって。こういうこともあるさ」

彼は笑顔で答えた。どうやら、本当に怪我などはないらしい。吾輩は安心した。

「よし。それじゃあ、早速始めるとするぜ」

彼は再び吾輩の体を掴んで持ち上げると、窓辺に近付けた。カーテンが閉まっているため外の様子がよく見えない。だが、微かに聞こえる車の走行音などから、今いる部屋の高さと道路までの距離を推測することはできた。

なるほど。なかなか良い高さではないか。ここならば、吾輩の運動能力を最大限に発揮できるはずだ。さすがは吾輩の飼い主である。よく分かっている。

「よーし、行くぜ!」

彼が声高々に宣言すると同時に、吾輩は彼の腕の中から勢い良く飛び出した。その瞬間、吾輩の視界に広がったのは空であった。吾輩は何とも言えない解放感に包まれていた。このままどこまでも飛んでいけそうな気がする。自由とは実に素晴らしいものだ。

しかし、現実には空を飛ぶことなど不可能だ。吾輩はすぐに地上へと落下し始めた。それでもまだ希望を捨てるわけにはいかない。少しでも上昇しようと必死にもがいた。その結果、吾輩の爪先が窓枠に引っ掛かった。これは幸先が良い。あと少し頑張れば、どうにかして地上まで辿り着けそうである。

ところが、そのとき吾輩の体が不意にガクンと揺れた。何事かと思って確認すると、ゴルどんが尻尾で吾輩の体を支えてくれていることが分かった。彼は吾輩のことをしっかりと支えてくれるつもりなのだ。頼もしい限りである。吾輩は彼に礼を言うことにした。

「ありがとうだぞ、ゴルどん」

「お安い御用だぜ、兄弟」

吾輩とゴルどんは互いに笑い合った。それから吾輩は前足を目一杯伸ばして、窓の外の世界に手を伸ばしてみた。しかし、何も掴むことはできなかった。やはり、空中では思うように動けないようだ。ここは一端諦めるべきだろう。

そこで吾輩とゴルどんは再び顔を見合わせた。

「さてと、これからどうする?」

「うーん。とりあえず、このまま下に降りるか」

「えっ? 吾輩、このままだと地面に激突してしまうのだが……

吾輩の言葉を聞いて、ゴルどんの動きが止まった。

「大丈夫だ。オイラに任せろ」

そう言うと、彼は吾輩の背中を下にして尻尾を回転させ始めた。尻尾が高速で回転することによって空気の流れが生まれ、それが吾輩の体に作用しているようである。やがて吾輩の体はゆっくりと下降していった。どうやら彼のお陰で助かったらしい。吾輩は感謝の意を示すために、尻尾でペシペシと彼の顔を叩いた。

「おっ! 照れるなぁ!」

そんなことを言いながら、彼は尻尾を振ってみせた。尻尾の毛が吾輩の顔に当たってくすぐったい。思わず身震いしそうになったものの、何とか我慢した。尻尾をプルプルさせながら、吾輩は地上へと降り立った。

地上に足をつけた途端、一気に疲れが出てきたような気がする。吾輩はその場にしゃがみ込んでしまった。すると、すぐさまゴルどんが心配そうな表情で駆け寄ってきた。

「大丈夫か、兄弟?」

「ああ、問題無いぞ。少し疲れただけだ」

「それなら良いんだが……。あっ、そうだ。これを飲むといい」

ゴルどんは鞄の中から瓶を取り出した。その中身は何とも美味しそうな茶色い液体だった。匂いを嗅いでみると、甘くて香ばしい香りが漂ってくる。きっとこれは『ミルク』に違いないだろう。吾輩はその予想を裏付けるように尋ねた。

「それは何だ?」

「これは『ホット・チョコレート』だぜ」

「ほう、これが噂の……

吾輩は以前ゴルどんから聞いた話を思い出していた。彼が住んでいる国には『バレンタインデー』なる行事があるらしい。女性が男性に対して愛を囁く日なのだとか。ゴルどんによると、その日にチョコレートを渡すのが一般的らしい。

「ほれ、熱いうちに飲めよ」

「分かった」

吾輩はゴルどんに勧められるまま、瓶の中に入っている黒い液体を口に含んでみた。甘い味が口の中に広がっていくのを感じる。舌の上で転がして楽しんでいると、次第に体温が上昇していくのを感じた。どうやら、この飲み物はとても体を温めてくれるようだ。

ふと吾輩はあることに気付いた。

「そういえば、お前の主人はまだ帰ってこないのか?」

「おう、まだみたいだぜ」

そう言って、ゴルどんは髭を動かした。彼もまた主人の帰りを心配しているようであった。主人の名は『淡灰色』というのだが、吾輩よりも後に生まれてきたこともあって、どこか親近感を覚える存在だ。それに彼は下僕仲間であり、吾輩のことをよく気遣ってくれる。だからこそ、吾輩は彼のことがとても好きなのである。

そんな彼の主人である淡灰色のご帰宅を、吾輩とゴルどんは心待ちにしているのだった。

吾輩は今、ゴルどんと共に都内にある一軒家に住んでいる。吾輩たちが生まれた国は地球という名の惑星の上にあるらしく、ここ数十年の間にすっかり様変わりしてしまったらしい。文明が発達した結果、人間たちは自動車と呼ばれる鉄の塊に乗って移動するようになった。その結果、人間の数は爆発的に増えていったのだとか。今では街を歩くだけでも人間と遭遇することがある。

しかし、吾輩たちが暮らしている家は違う。ここは昔ながらの造りの家で、庭に植えられた木々の葉っぱが秋風に揺れて心地よい音を奏でていた。その音を聞きながら、吾輩とゴルどんは日向ぼっこをするのが好きだった。窓辺で日向ぼっこをしていると、吾輩たちのご主人が帰ってくる気配がする。玄関の扉が開かれると、そこには吾輩の愛する淡灰色の姿があった。

「ニャーン!」

吾輩は嬉しくなって思わず飛びついた。ところが、どういうわけかいつもと様子が違っていた。

……ん? あれっ?」

吾輩は違和感を覚えた。いつもと匂いが違う気がしたのである。しかも体が重いような感じがする。おまけに目線の高さが低い。吾輩の体はこんなにも小さかっただろうか。不思議に思って見てみると、手足の先が白くなっていた。しかも二本足ではなく四本足のようである。さらに毛並みも灰色というよりは銀色に近くなっている。まるで全身が金属でできているかのように。

「えっと……どうしたんだ?」

吾輩の目の前にいるのは人間の少年である。名前は『淡灰色』というらしい。彼は吾輩の首輪を手に取って確認していた。首輪には金色のプレートがついている。これは主人の所有物であることを示すものだそうだ。それを見ると、何だか胸が熱くなるのを感じた。

「うーん……。やっぱりタグが壊れてるみたいだなぁ……

そう言って、淡灰色の少年はため息を吐いた。彼は吾輩の飼い主なのだとか。そんなことを話している間に、いつの間にやら吾輩の体を撫でているではないか。まったく油断のならない人間だ。だが、今は彼にされるがままになっていることにしよう。吾輩は大人なので我慢できるのである。

ところで、先ほどからゴルどんの姿が見えないようであるが、一体どこに行ってしまったのだろう。吾輩の背後を歩いているのかと思いきや、その姿はない。どこかに隠れてしまったのかもしれない。仕方がない奴だ。吾輩が呼んできてやろう。

「おい、ゴルどん」

吾輩は彼の名前を呼んだ。しかし、返事はなかった。そこで吾輩は部屋から出てみることにした。すると、廊下の向こう側から足音が聞こえてきた。ゴルどんに違いない。きっとこちらに向かっているのであろう。吾輩が待ち構えていると、彼の姿が見えた。同時に吾輩の名前を呼ぶ声が聞こえる。やはりゴルどんであった。吾輩は彼の元へと駆け寄った。

「ニャア、ニャァーン」

「おう、どうした? オイラに会いに来たのか?」

吾輩はコクリとうなずいてみせた。彼は吾輩の頭を優しく撫でてくれた。とても気持ちがいい。ゴロゴロと喉を鳴らした。それから尻尾をピーンと立てる。嬉しい時に見せる仕草だ。吾輩は彼を見上げた。

「オイラと遊びたいってことか?」

「ニャーウ」

吾輩は再びうなずく。そして尻尾を左右に振りながら、前足をペロリと舐めた。

「よし。じゃあ庭に行こうぜ」

淡灰色の少年は立ち上がった。吾輩も一緒に立ち上がって彼についていくことにした。ゴルどんもその後ろに続いているようだ。ちなみに彼は吾輩の飼い主である淡灰色よりも背が高い。そのせいか、吾輩の視界からは後ろ姿しか見えなかった。

淡灰色に連れられて家の外に出ると、ゴルどんが吾輩の目の前でしゃがみ込んだ。何だろうかと思って見ていると、いきなりお腹の下あたりを掴まれた。そのまま持ち上げられてしまったのである。まるで子猫のような扱いである。吾輩は抗議のために尻尾を振り回してみた。だが、それがいけなかったらしい。尻尾の先端がゴルどんの鼻に直撃してしまったのである。

「ぶほっ!」

ゴルどんが奇妙な悲鳴を上げて飛び上がった。慌てて鼻を押さえている。

「ゴルどん! 何をやってるんだい⁉」

驚いたような声で淡灰色が叫んだ。ゴルどんはバツが悪いといった様子で鼻血を流し続けている。

「鼻から何か飛び出したぜ……

ゴルどんは涙目になっていた。吾輩の尻尾攻撃の威力はそれほどまでに凄まじかったらしい。それこそ必殺技だと言えるだろう。吾輩の鼻先には爪痕が残っている。その傷口が開いてしまっているようだ。鼻をすすると血液が垂れてくる。

「大丈夫かい? ゴルどん」

淡灰色が心配そうに声をかけている。ゴルどんは鼻を指でつまみながら、どうにかこうにか平気だと伝えた。ゴルどんはロボットなので鼻血を出したりしないはずだ。おそらく鼻の内部が故障でもしたのであろう。吾輩の必殺技によって損傷してしまったのかもしれない。申し訳ないことをしたと思った。吾輩のせいなのだから謝らなければならない。吾輩はゴメンなさいの意味を込めて、ゴルどんの足元まで歩み寄った。そして彼の足の甲をペロリと舐めてやった。これで許してくれるといいのだが。

「くすぐってえよ。あぃをゅぇぴじ」

ゴルどんは優しい。吾輩の頭をポンと叩いてくれた。おかげで鼻の奥に残っていた血が鼻水となって出てしまう。その鼻水を垂らすわけにはいかない。吾輩は尻尾で顔を拭いた。しかしすぐに毛に付いてしまうのであまり意味がない。

「ゴルどん。君が鼻血を出すなんて珍しいね」

淡灰色が言う。確かにそうである。吾輩の記憶にある限り、ゴルどんが鼻血を出している場面など見たことがない。その記憶さえも曖昧であるのだが。

「ちょっと興奮しちまったんだよな。ほれ、これを見てくれよ。オイラはロボットなんだぜ。鼻血なんか出ないはずなのに、おかしいと思わないか?」

ゴルどんは鼻の穴を指で広げるようにして淡灰色に見せていた。彼は先ほどからずっと鼻血を流し続けているので大変そうだ。

「本当だ……。これはおかしい。どう考えても異常な事態だよ。まさかとは思うけど……君は人間じゃないのか?」

淡灰色が真面目な顔つきになって尋ねている。それは吾輩も同じ考えだった。どうしてゴルどんは鼻血を止めないのだろうか。止まらないということはあり得ないはずだ。普通なら自動的に止まるはずである。それが機能していないということなのか。

「ああ、実はそうなんだ。オイラはロボットで人間じゃねえ。オイラを作ったやつはとんでもない変態野郎でさぁ。鼻血が出るように設定してたみたいだぜ」

ゴルどんの身体を隅々まで調べさせてもらったところ、本当に鼻血が出なくなる機能は搭載されていなかったようだ。つまり最初から鼻血を出せるよう造られていたということだ。なんとも不思議なことである。人間のことをよく知らない吾輩だが、そのようなことを考える者はいないはずだと推測できる。そんな人間は普通ではない。少なくとも吾輩の常識ではありえない。だからこそ、ゴルどんが異常だということがよくわかる。

「まあいいや。鼻血を止めるのは後回しにして、オイラの話を聞いてくれよ。まず最初に謝らせてくれないか。今まで黙っていて悪かったと思ってるんだ。ごめんなさい。どうか許してくれ。オイラだって本当は言いたかったんだけどよぉ、なかなか切り出せなくて困ってたんだ。あんまりにも居心地が良くて、ここを離れたくない気持ちでいっぱいになっちまってな」

ゴルどんは自分の胸に手を当てながら俯いていた。そうしてしばらくの間、沈黙していたのだが、やがてポツリポツリと語り始めた。その内容は衝撃的なものであった。吾輩が想像していなかったような内容だ。彼の話は長い時間を要するものだったので、以下に簡単にまとめることにしよう。

◆ ゴルどんは元々この国で生まれた猫だったらしい。彼は三兄弟の次男坊で、名前は『ゴンタ』と言ったそうだ。ゴンタという名前がどのような意味なのかはわからない。そもそも猫には名前をつける習慣がないからだ。ちなみにゴルどんの名前は自分でつけたものらしい。なぜこの名前にしたのかと質問したら、彼は恥ずかしげもなく答えてくれた。

「オイラが生まれた時はちょうどお盆の時期でよぉ、ご先祖様があの世から帰ってくる時期だったのさ。そんでな、その日に生まれたオイラのことをみんなでお祝いしてくれたんだぜ。だからオイラはゴルどんになったわけだ。それに、なんか強そうだろ? お墓とかで見かける墓石の名前みてえだしさ」

どうやらゴルどんにとって『ゴル』という言葉は特別な意味合いを持つようである。

お盆の時期にゴンタが生まれてきたことから考えて、彼の母親は妊娠六か月ほどの間に亡くなったのだろう。それならばゴンタという名前は縁起が悪い。しかし、父親はそんなことはまったく気にせず、嬉しそうに名づけたのかもしれない。吾輩はそのように推測した。なぜならゴンタという響きが気に入っているからなのだ。良い名前だと思う。もちろん、吾輩が考えたわけではないけれど。

吾輩がゴルどんと出会ったのは、彼がまだ五歳の時だった。彼は公園でひとり遊んでいた。ひとりで砂場を掘っていた。そこで偶然出会ったのが吾輩だ。その時の吾輩は今よりももっと太っていて、毛並みもつやつやとしていた。

「おい、そこのチビすけ。オイラの友達になれよ」

ゴルどんが声をかけてきたのを覚えている。確かそんな感じの言葉を言ってきたはずだ。

当時、吾輩はまだゴルどんのことをよく知らなかったのだが、ゴルどんのほうは吾輩のことをよく知っていた。ゴルどんは猫好きらしく、吾輩が散歩している時に何度か出くわしていたようだ。しかし、当時はお互いに名乗り合うほどの仲ではなかった。ただ顔見知りだっただけだ。

だが、ゴルどんが五歳になってしばらく経った頃、運命が大きく変わった。彼は吾輩の家にやってきたのである。

ゴルどんは家出してきたらしい。家族と喧嘩をしたとのことだ。彼は両親に殴られ蹴られながら、家を飛び出してきたのだとか。そんなことを言っているうちに涙が出てきたようで、ゴルどんは鼻水をすすり上げた。ゴルどんの鼻水が吾輩の顔に付着してしまったので、吾輩は彼の鼻水をペロリと舐めてやった。

「うわっ! 汚ねえ!」

吾輩の舌を見てゴルどんは飛び上がった。それから彼は吾輩から離れ、尻餅をついたまま後ずさりした。そのせいでゴルどんの尻尾がクルリと回転し、吾輩の顔面を直撃した。尻尾による攻撃を受けたのは初めてのことだったので、吾輩の心臓は大きく跳ねた。その後、何となく尻尾の匂いを嗅いでみた。それは人間の汗の臭いに似ていて、嫌な気分になった。

とにかく、そんな風にして吾輩の家にゴルどんがやってきたのである。彼はしばらくの間、吾輩の家で居候することにしたようだ。彼の家はここではないらしい。

ゴルどんは公園で独りぼっちで遊んでいることが多かった。公園のベンチに座ってぼんやりしたり、砂場で穴を掘ったり、滑り台の上で寝転んだりして過ごしていた。そんな彼に吾輩はよく話しかけていた。ゴルどんが泣いていると、背中をさすってやって慰めたりした。

吾輩とゴルどんはとても仲良くなった。いつも一緒にいたし、毎日のように遊んでいた。

ある日のこと、ゴルどんは急に元気がなくなった。ずっと落ち込んでいるようだった。何か悩み事があるのだろう。

吾輩には分かった。ゴルどんは誰かから苛められているのだと。いじめっ子たちが彼の目の前に現れる度に、吾輩は尻尾で追い払った。吾輩の尻尾は強靭なのだ。ゴルどんを苛める奴らは、尻尾の一撃で病院送りになるのだった。

それでもゴルどんの心から悲しみを取り除くことはできなかった。そんなある日のことである。吾輩の住処に人間がやって来た。人間たちは吾輩たちを捕獲しようとした。ゴルどんは人間たちから逃げようとした。

その時である。吾輩の前を走っていたゴルどんが突然倒れた。怪我をしているようだ。どうやらゴルどんは足を挫いてしまったらしい。ゴルどんを助け起こそうとしたのだが、人間たちの手の方が早かった。彼らはゴルどんの尻尾を掴んだ。ゴルどんは痛がっていた。人間は尻尾を引っ張った。ゴルどんは悲鳴を上げた。

吾輩の怒りが爆発した。全身の毛が逆立った。爪が鋭く伸びた。ゴルどんを掴んでいる人間たちに襲いかかり、喉笛を切り裂いてやった。それから吾輩は暴れまくった。尻尾で叩いたり、引っ掻いたり、噛み付いたりしたのである。気が付けば、周りに人間がたくさん倒れていた。ゴルどんを捕まえようとしていたはずの人間たちなのに、なぜか皆、血を流しているのであった。

吾輩の怒りが爆発した。全身の毛が逆立った。爪が鋭く伸びた。

ゴルどんは吾輩を見て言った。「あぃをゅぇぴじ、助けてくれてありがとう」と。

吾輩は尻尾を振りながらこう答えた。「お安い御用だぜ」と。吾輩は尻尾をピンと立てながら歩き出した。すると、後ろから「待ってくれ、あぃをゅぇぴじ」という声が聞こえてきた。振り返ると、ゴルどんが足を引き摺りながらも追いかけてきていた。ゴルどんは吾輩に向かって叫んだ。

「オイラを拾ってほしいんだぜ!」と。

吾輩はゴルどんを家に連れて帰った。ゴルどんをソファの上に座らせた後、吾輩は救急箱を持ってきて手当をしてあげた。ゴルどんの右足首は紫色になっていた。ゴルどんは俯き加減になって呟いた。

「どうして、オイラなんかを助けたりしたんだぜ?」と。

吾輩は答えた。「困っている人を助けるのは当然のことなのだ」と。ゴルどんは目を丸くして驚いている様子だった。しばらくしてから、ゴルどんは顔を上げて言った。

「ありがとうなんだぜ。あぃをゅぇぴじは優しい雄猫だぜ。まるでオイラのお父さんみたいだぜ」と。

ゴルどんのお父さんは交通事故で亡くなったらしい。それ以来、ゴルどんにはお母さんしかいなかった。そのお母さんが病気で入院してしまい、ゴルどんはお金が必要になったのだという。そこで彼はアルバイトを始めた。しかし、ゴルどんの仕事ぶりはあまり良くなかったらしい。そのため、給料は少なかったそうだ。そんなわけで、ゴルどんの生活は苦しかった。毎日のようにパチンコや競馬に行っているらしい。

「パチンコとギャンブルで借金を作ってしまったんだぜ。それで、ついに家賃まで滞納するようになってしまったんだぜ。このままだとオイラの家を追い出されてしまうかもしれないぜ。そうなったら、またあの公園で野宿することになるんだぜ。それが嫌なら、オイラの代わりに働いてくれる人を見つけるしかないぜ。そう思って、チラシを配ったり、求人広告を出したり、色々なところに声をかけたりしたんだけど、誰もオイラの話を真面目に聞いてくれないんだぜ。世の中は不景気だし、仕事なんてないっていうし……」とゴルどんは言うのであった。

吾輩の脳裏にある考えが浮かび上がった。それを実行するため、吾輩はまずお店の電話を借りることにした。それから自分の部屋に戻り、パソコンの電源を入れた。インターネットに接続した後、『求人サイト』と入力して検索ボタンを押した。すると、『アルバイト』とか『正社員』などのキーワードを含んだ求人情報がズラリと表示された。吾輩はその中から『住み込み可』『未経験者歓迎』という二つの条件を条件として絞込み、検索結果の上位に出てきたお店の中から一番良さそうなものをクリックした。

次の瞬間、画面上に地図が表示された。どうやら面接先の住所が載っているようだ。その地図を見ながら、吾輩は自分の体にムチを打つように駆け出した。目的地に着く頃には息切れしていた。ハァハァと荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回していると、大きな看板を見つけることができた。そこには『ペットカフェ』の文字があった。どうやら、このお店が面接会場になっているようである。吾輩はその扉を押し開けると、店内に入った。すると、すぐそばにいた若い女性が声をかけてきた。

「あら? あなた、どこから来たの?」と。吾輩はそれに答えるようにして、「吾輩は猫型人工生命体である」と答えた。すると、彼女はクスッと笑みを浮かべてから、こう言った。

「ふーん。でも、ここはあなたのお家じゃないわよ」

吾輩はそれを聞いて驚いた。それは吾輩の予想をはるかに上回る発言だったからだ。もしや、自分が勘違いをしているのではないかと思い、女性に尋ねてみた。すると、やはり吾輩の考えが正しかったことがわかった。彼女はこう答えたのである。

「ここがどういうお店なのかわかっているのかしら?」と。

つまり、ここが人間の働く職場であるということだ。

吾輩は『ペットショップ』と呼ばれる場所にいるらしい。その事実を知り、驚きを隠せなかった。

まさか吾輩のような存在が人間社会に溶け込んでいるとは夢にも思わなかったからである。

だが、考えてみれば何も不思議なことではない。

なぜなら、ここには様々な種類の動物たちが暮らしているのだから。

彼らにとって、人間は敵でもなく味方でもない存在なのだろう。

だからこそ、吾輩がここにいても違和感はないのかもしれない。

ただ、吾輩には一つの疑問があった。

なぜ、この建物には動物の姿が一つもないのだろうか。

これだけの大きさの建物なのだから、一匹くらい猫がいそうなものである。

そのことについてゴルどんに尋ねた。すると、彼は「きっとどこかにいるんだぜ。隠れんぼが得意なんだぜ。オイラは昔、あの角でオイラと遊んでいた黒ネコを追いかけていたら、角の向こう側に迷い込んでしまったことがあるんだぜ。そのとき、角を曲がった先には大きな木があって、オイラはそこから出ることができなかったんだぜ。そこにいた白ネコに助けてもらったんだけど、それからは一度も会っていないんだぜ。だけど、あの角でまた会いたいと思っているんだぜ」と語った。

なるほど。そういう事情があるならば仕方がない。猫がいないことを不思議に思うのはやめることにしよう。吾輩たちは建物の中を歩いていくことにした。そうしてしばらく歩いていると、大きな部屋に出た。その部屋の真ん中では巨大なスクリーンが稼働しており、そこには吾輩たちの姿があった。これは一体何事であろうか。吾輩が困惑していると、部屋の外から誰かの声が聞こえてきた。

「いやぁ、凄かったね。ゴルどんが空を飛ぶところなんて初めて見たよ。もう僕、感動しちゃって……。ところで、あれは何の映画なんだい?」

どうやら映画が上映されていたようだ。

吾輩は映画の内容が気になったのでスクリーンに近づいていった。すると、そこに映っていたのは吾輩の飼い主であった。

「ああ、この映画かい? この映画は『大脱走』だよ。まあ、有名だから知ってるよね。知らないの?」

「えっと……実はよくわからないんです。すみません……

「謝ることないさ。いい機会だし、教えてあげるよ。僕は学生時代に映画館で『大脱走』を見たんだ。『大脱走』っていうのはアメリカで作られた映画で、刑務所から囚人たちが逃げ出そうとする話なんだ。これに登場する主人公、ジョー・ガードナーのカッコ良さに痺れたものだ。彼こそ僕の目指す男だった。ちなみに、『大脱走』には三種類のバージョンがあって、そのうちの一つが『史上最大の作戦』と呼ばれているものなんだ。これは第二次大戦中にドイツ軍の捕虜収容所からドイツ軍兵士を脱出させる話だ。もう一つは『アフリカ大作戦』。こちらは第二次世界大戦の末期、アフリカの戦場からアメリカ軍兵士が逃げ出す話だ。最後の一つは『アメリカ物語』と呼ばれる作品で、第二次世界大戦中のナチスドイツの強制収容所から脱出するアメリカ人の話なんだ。これも名作だね。とにかく、これらの作品はどれも面白くて……

スクリーンには映像が流れ続けている。

「そういえば、この作品は映画化されているんだよ。確か題名は『史上最大の作戦』と『アフリカ大作戦』の二つを組み合わせていて、題は『大脱走』になっていたはずだ。内容は……

スクリーンに映っているのは、どうやら戦時中の映画であるらしい。おそらく映画だろう。そして、この人物は映画監督なのかもしれない。しかし、彼の口から出てくる言葉はとても興味深いものだった。まるで知識の泉のようであり、彼が話す度に新たな事実が次々と明かされていくのである。この人物の知識量は半端ではない。吾輩は彼に話しかけた。

「ニャー」

「うわっ! びっくりした。いきなり何をするんだ。驚くじゃないか」

彼は驚いた様子で言った。吾輩としてはただ「ニャー」と言っただけなのだが、何か悪いことをしてしまっただろうか。そう思っていると、彼は次のように語った。

「君たちは、もしかすると喋れるのか?」

「ニャッ!」

「ああ、やっぱり喋れるんだ。すごいね。でも、どうやって喋るんだろう。口の動きと発声のタイミングが全然合っていないような気がするんだけど」

そう言って彼は吾輩の喉元に触れた。

「ここを触ると声が出るのかな?」

吾輩の喉元を撫でながら彼は質問をした。

「じゃあ、こっちだとどうかな?……ニャウ」

違う。それは吾輩の声ではない。ゴルどんの鳴き声だ。ゴルどんとは淡灰色の毛並みのロボット犬のことである。彼の名前は『ゴルどん』だ。『ゴル』というのは吾輩たちの名前に含まれている単語の一つであって、発音は同じである。このゴルどんとあぃをゅぇぴじという人間の女性が作ったロボットだ。もちろん、この二人は夫婦関係になっているので、この二匹のロボワンということになる。そして、このゴルどんの飼い主というのが彼、すなわち映画監督の彼であった。

「あれ? 違ったか。おかしいなぁ」

彼はそう言いながらもまだ吾輩の喉を撫でている。なかなか上手いものだ。吾輩はゴロゴロと喉を鳴らした。その音を聞いて彼はさらに興奮しているようだ。まるで幼い子供のように喜んでいる。この男は少し変わっている。こんなにも喜ぶ人間は珍しい。だが、彼は吾輩のことを本当に可愛がってくれる。それが嬉しいのだ。彼は吾輩を抱きしめようとした。しかし、それを吾輩は嫌った。そんなことは許さないのである。彼は残念そうな顔をして手を引っ込めた。

吾輩は彼と離れることにした。そして、他の人間がいる所へと向かった。そこにはあぃをゅぇぴじがいた。彼女はいつも吾輩に優しい言葉をくれる。しかし、今の彼女の表情はあまり優しそうには見えなかった。何か悩み事があるのだろうか。それとも何か困っていることがあるのだろうか。それならば助けてあげたいと思った。吾輩は彼女の元へ駆け寄ってみた。しかし、彼女は吾輩の姿を見ると、どこかへ行ってしまった。どうやら嫌われてしまったらしい。

どうしてだろう、と考えてみる。きっと吾輩が悪いのだと思う。吾輩の見た目は悪いかもしれないが、決して性格の悪い猫ではないはずだ。少なくとも自分のことを悪人だとは思っていない。それに吾輩は強い。とても強い。喧嘩では負けたことがない。これは自慢だ。誰にも負けない自信がある。吾輩は他の猫と遊んでみたいのだが、なぜか皆が怖がってしまう。だから、吾輩とまともに相手をしてくれるのは彼だけだ。彼の傍にいる時が一番幸せだ。

その時だった。遠くの方から声が聞こえてきた。人間の男の声だ。それは何と言っているのかよくわからないものだった。言葉なのかも分からない。でも、とにかく楽しげなものだということだけは分かる。それからしばらくの間、吾輩はその男の笑い声を聞くことになった。最初はあまり興味がなかった。それよりも彼女のことを考えていたからだ。

ところが、その男の笑い声は次第に大きくなっていった。次第にうるさく感じるようになった。このまま放っておいたら近所迷惑になってしまうのではないかと心配になった。そこで吾輩は立ち上がった。まずは彼がどこにいるかを確認しようと思った。すると驚いたことに、すぐに発見することができた。どうやら彼はこの男の近くに住んでいるようだ。吾輩は早速そこへ行ってみることにした。そして、その家の庭へと入っていった。するとそこにいた人間は驚いて、大声で叫んだ。しかし、吾輩は逃げ出さなかった。むしろその男に近付いていった。そして、頭をそっとこすりつけてやったのだ。彼はまた大きな悲鳴を上げた。なぜそこまで驚くのだろうと不思議でならなかった。それでも吾輩は構わず、頭を押しつけた。

「お前は何者だ」と彼は言った。吾輩は返事をしてやろうと思った。だが、ニャアとしか鳴けなかった。吾輩はまだ猫語を完全にマスターできていないのである。仕方ないので、ニャーオと鳴いてみた。これなら伝わると思った。しかし、彼は首を傾げるばかりだった。今度は少し長い鳴き声を出してみた。それでもダメだった。それで吾輩は彼に襲い掛かってやることにした。噛みついてやろうとしたのである。

「うわっ、来るなよ!」と彼は言いながら逃げ出した。やはり猫語は伝わらなかったらしい。もう面倒臭くなったので体当たりしてやることに決めた。それしかないと判断した。幸いなことに、こちらの方が早い。そう思った。だから思いっきり突進した。しかし、彼は軽々とそれをかわしてしまった。吾輩はムキになって何度もぶつかった。

「何だよ! 何なんだよ⁉」と彼は困惑している様子だった。だが、吾輩は諦めない。そのうちに、吾輩の身体は宙を舞っていた。投げ飛ばされたのだと気付いた時には遅かった。地面に着地し、すぐに体勢を整えようとしたができなかった。首根っこを掴まれてしまったのである。それは恐るべき力であった。吾輩はジタバタと暴れたが無駄だった。まったく歯が立たなかったのである。結局は吾輩は家の中に連れて行かれることになった。

「これは……何だろう?」と男は言って、吾輩を床に置いた。それから吾輩の全身をまじまじと見つめてきた。その顔には驚きの色があった。何かおかしな点でもあるのかと思って吾輩は自分の姿を見下ろしてみた。そこで気が付いた。いつの間にか吾輩は裸になっていたのである。人間にとっては当たり前のことかもしれない。しかし、猫にとってはまったくの未知なる体験だった。恥ずかしさのあまり吾輩は小さくなって身を縮めていた。しかし、すぐに元に戻った。こんなところで羞恥心を感じている場合ではないからである。

「うーん……」と彼は腕組みしながら難しい顔をしていた。それから吾輩をジロジロと眺め回してきた。まるで値踏みされているような気分になった。やがて結論が出たらしく、「やっぱり猫だよね。でも普通の猫じゃない。新種かな? どう思う?」と彼は訊ねた。吾輩は答えずに毛繕いをした。すると彼が吾輩を抱き上げようとした。反射的に身構えたが無駄だった。吾輩はあっという間に彼の手中に収められていた。そのまま彼はソファまで移動していった。そこに腰掛けると膝の上に吾輩を置いた。そして撫で始めた。気持ちよかったので、されるがままになっていることにした。

「それにしても珍しい毛色だなぁ。この柄ってなんていうんだろ。ペルシャとかシャムみたいな感じでもないけど……。まあいいか。とりあえず飼おう。可愛いし」と彼は言った。吾輩は首を傾げた。一体何を言っているのだろうかと思ったのである。

吾輩は彼によって抱き上げられていた。目の前にあるのは彼の横顔だった。それを見て吾輩はギョッとした。何とそこには傷跡があったのである。それもただの切り傷ではなかった。引き裂かれた痕だった。明らかに人為的な痕跡だった。その凄惨さに吾輩は震え上がった。まさかと思いながら視線を下に向けてみる。すると、吾輩が抱かれている位置からは見えなかった部分にも似たようなものがあった。吾輩は慌てて視線を外した。それでも血生臭い匂いは漂ってきた。

……どうかしたかい?」と男が尋ねてきた。優しい声色だったので少し安心したが、吾輩は何も言わないことにした。黙ったままでいると彼は吾輩に話しかけてくることを止めた。しばらくすると彼はテレビをつけてニュースを見始めた。吾輩はそれを見守っていたが、やがて眠くなってきたので目を閉じた。しかし眠りにつくことはできなかった。吾輩の鼻は血の匂いをかぎつけてしまっていたのである。それはあまりにも強烈すぎた。吾輩はそのことに絶望を感じていた。こんなことならば気絶していた方がましだったとすら思った。

気が付くと朝になっていた。窓の外では雀たちがチュンチュン鳴いていた。吾輩はそれを聞いて驚いた。まだ一日しか経っていないということに衝撃を受けたからである。そんな馬鹿なと思って自分の身体を調べてみると、確かにあれだけあったはずの傷口がすべて塞がれていることが分かった。吾輩は安堵の息を吐いた。昨晩の出来事はすべて夢であったのかとも思ったのだが、違うようだった。吾輩は彼に抱えられて移動させられていた。どこに行くのだろうと思っていると、吾輩はある場所に辿り着いた。そこは洗面所とバスルームだった。そこで吾輩は初めて鏡に映る自分を見た。

「やあおはよう。もうすぐ朝ごはんできるからね」と彼が言った。吾輩はニャアと鳴いて返事をした。それから彼と一緒に朝食をとった。食べ終わると彼はすぐに仕事へ出かけていった。その間、吾輩はリビングのソファの上でのんびりと過ごしていた。しばらくして彼が帰ってくると、吾輩は彼の腕に抱えられ、また別の部屋へと連れていかれた。そこは書斎のような場所だった。

「ここなら誰にも邪魔されないでゆっくりできるよ」と彼は言った。そして吾輩を床の上に下ろした。吾輩はその場に座り込んで前足で顔を洗い始めた。そうした後に毛づくろいをして綺麗にした。そうしているとだんだん気持ちが落ちついてきて、ようやく普段の冷静さを取り戻すことができた。吾輩は改めて彼の顔を見ることにした。

「何か用かな?」と彼は首を傾げながら尋ねた。吾輩は言葉を発しようとして喉の調子を確かめてからこう言った。

「貴様は何者だ? 一体どうして吾輩を助けたりしたのだ?」

彼はそれを聞くと微笑みを浮かべ、それから吾輩に向かってこんなことを言い出した。

「実は僕は未来から来たんだ。君を助けるためにこの時代にやってきたんだよ」

吾輩は一瞬耳を疑った。そんな馬鹿なことがあるわけがないと思ったからだ。しかし考えてみれば未来にはタイムマシンなるものが存在しているらしいし、実際にそれを乗りこなすことができる人間がいるという話だ。彼はその類の人間なのかもしれない。それにしてはかなり若すぎるような気がするが。

「吾輩を助けに……だと?」

「そうだよ。君はここで死んでしまうことになるんだ。それで僕が代わりにこの時代に来たってことだよ」

「何故だ?」

「分からないけど、それが運命だって言われたんだ。仕方ないよね」

彼はどこか他人事のようにそう語った。どうやら彼自身もそのことに対してあまり納得していないようだ。まぁそれも当然だろう。何しろ死ぬはずだった人物が代わりをするのだから。

「じゃあこれからお前さんはどうするつもりなんだい?」とゴルどんが聞いた。

「えっと、特に予定はないんだけど……」と彼は困り果てたように言った。

「ニャア」と吾輩は言った。それは吾輩に任せろという意味である。彼は少しの間考え込んでいたが、やがて決意したらしく、「それじゃあ頼んでもいいかな?」と言った。吾輩はそれを了承することにした。

「まずは何をすればいいのだろうか?」と吾輩は尋ねた。すると彼は答えた。

「そうだね。とりあえず君の身体を調べさせてくれないか?」

「ニャァア」と吾輩は言った。断る理由などあるはずもない。早速調べてもらうことにした。

彼は吾輩をそっと抱き上げると、そのまま部屋を出て廊下を歩き始めた。そして玄関から外へ出ると、そこにあった車の中に吾輩を連れて行った。吾輩はそこで彼に抱えられたまま様々な検査を受けた。

一通り済ませると今度は大きな病院の中へ連れて行かれた。吾輩はそのまま奥へと連れていかれた。そして一つの診察室に入ると、そこには一人の女医がいた。彼女は吾輩を見るとニッコリと微笑み、それから椅子に座っていた彼の方を振り返った。彼は彼女に軽く会釈をしてからこう言った。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

「はい。あなたのおかげで」と女医は穏やかな口調でそう言った。

「そうですか。良かったですね」と彼は優しい笑みを浮かべながら言った。

「はい。ところで……そちらの方を紹介していただけませんでしょうか?」と彼女は興味深そうな表情で吾輩のことを見つめた。その瞳はキラキラと輝いていた。

「ああ、紹介が遅れました。こちら僕の知り合いのあぃをゅぇぴじ君です」と彼は言った。すると彼女は目を丸くして驚いた。そして「ニャーと鳴くのが上手なんですね」と感心しながら呟いた。

「あ、いや……これはそういう訳ではなく……」と彼は慌てて説明しようとした。しかしうまく言葉に出来なかったらしい。口をパクパクさせていた。すると吾輩は彼の方を向いてニャッと鳴いてやった。

「まぁ」と彼女は口元に手を当てて小さく声を上げた。

「ニャオ」と吾輩は言ってからもう一度彼に向かって鳴いた。彼はようやく理解してくれたらしく、笑顔で何度も首を縦に振っていた。

「それでは私はこれで失礼します」と彼女は立ち上がった。

「お忙しいところすみませんでした」と彼は頭を下げた。

「いえ。久しぶりにあなたの顔が見られて嬉しかったですよ。それにこんな可愛らしい猫ちゃんにも会うことが出来ましたし」と彼女は言いながら吾輩の頭を撫でてくれた。

「ありがとうございます」と彼は感謝の言葉を述べた。それから彼は彼女にこう尋ねた。

「もしよろしければこの後一緒に食事でもどうでしょう? お時間はありますか?」

「ええ。大丈夫ですけど」と彼女は答えた。

「それは良かった。実は僕たちの家に新しい家族が増えましてね。それでご招待したいと思いまして」

「あら、それはおめでとうございます。私で良ければ喜んで行かせてもらいますわ」

「ありがとうございます。じゃあ早速行きましょうか。それとあぃをゅぇぴじ君はどこかな?」

「ゴルどん」と彼は部屋中を見回した。そして「あ、いた」と言ってから部屋の隅にいたゴルどんを抱き上げた。彼はそのままゴルどんを肩に乗せると、彼女を案内するために玄関へと向かった。

吾輩はその後について行った。彼女はそんな吾輩たちを見送りながら「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた。そして二人と一匹の姿が見えなくなるまでそこに立っていた。その姿を振り返って見ると、とても美しい女性だった。しかしそれと同時に少し悲しげな雰囲気を漂わせているように思えた。彼女の顔にはどこか諦めに似たような表情が浮かんでいた。

二人は吾輩たちが住むマンションの一室を出て廊下に出た。そしてエレベーターのある方へ歩いていった。エレベーターに乗り込むと彼は七階のボタンを押した。そしてドアが閉まると彼の背中越しに外の風景を眺めた。そこにはいつもと同じ光景が広がっていた。青空の下に広がる住宅街の街並み。所々に見える大きなビル。それらが太陽の光を浴びて輝いていた。まるで吾輩たち猫の瞳のように。

しばらくして七階に着いた。そして外へ出た。彼はすぐ目の前にある扉の前で立ち止まった。表札を見ると彼の名前が書かれているのが分かった。彼が鍵を開けて中に入ろうとしたその時、背後から「ニャー」と鳴き声が聞こえてきた。振り向くと一匹の三毛猫がいた。その猫はゆっくりとこちらに近づいてきた。彼はその猫を優しく抱き上げると、「さぁ入ってください」と言った。吾輩とゴルどんはそのあとに続いて部屋に上がった。するとそこのリビングテーブルの上には一冊の本が置かれていた。タイトルは『吾輩は猫である』となっている。吾輩はそれを見てハッとした。それを見た瞬間に何とも言えない気持ちになった。胸の奥の方が締め付けられるような感覚を覚えた。どうしてだろうか? それが分からなかった。「どうぞ座ってください」と彼は言った。吾輩たちは彼に言われるままに椅子に腰掛けた。

「おや、ゴルどん。もう来たのかい?」と三毛猫の彼が吾輩の足元にいるゴルどんに向かってそう声をかけた。すると吾輩の隣に座っている彼女が驚いた様子でこう口を開いた。「まぁ、あなた。あの子の言葉が分かるのですか?」「えぇ分かりますよ」「それは凄いわね。あの娘は言葉を覚えることが苦手でなかなか他の人とは意思疎通ができないのですよ」と彼女は吾輩の頭の上に乗っているゴルどんを見ながらそう話した。

「ゴルどんは僕たちと一緒ですから。でもこの子は普通の人と一緒に暮らしていますから……」と彼は吾輩とゴルどんを交互に見ながらそう言った。吾輩は彼の言っている意味がよく理解できなかった。一体どういうことなのだろう? 吾輩が首を傾げていると、今度は彼女が話しかけてきた。「ところであなたは何者なのですか?」「吾輩はあぃをゅぇぴじと言います」「あらそうなのですね。あぃをゅぇぴじさん。よろしくお願いします」「はい。こちらこそ。よろしくお願いいたします」その後しばらく彼と彼女とで会話が続いた。そして話の区切りがついた時に彼は立ち上がり台所の方へと向かった。そしてグラスに麦茶を注ぐとそれを吾輩たちの前に置いた。それから再び元の席に戻ると彼も一緒にお茶を飲み始めた。

「あぃをゅぇぴじさん。お名前はどのような漢字を書くのでしょうか?」と彼女から質問された。吾輩はその問いに少し困った。何故なら名前が漢字で書けないからだ。なぜなら吾輩にはそもそも字がないからである。

「申し訳ありません。吾輩は自分の名前を自分の手で書くことができないのです」「そうなんですか……もしかして生まれつきそういう体だったりするのですか?」と彼女は言った。その通りだ。吾輩は生後すぐに捨てられたので、自分が誰から生まれたのか分からない。ただ人間に拾われて育てられたということだけは確かである。そして名前だけが分かった。だから『あぃをゅぇぴじ』という名前が付けられたらしい。この名前をつけた人間は吾輩のことを『あぃをゅぇぴじ』と呼び捨てにした。どうせそんな名前で呼ばれるくらいならば『あぃをゅぇぴじ』ではなく、『あいぃをゅぇぴじ』とちゃんと呼んでほしかった。吾輩は猫だ。猫にだって感情はある。だからそう呼ばれて喜ぶはずもない。吾輩は決してその名前で呼ばないでほしいと訴えた。その結果『あぃをゅぇぴじ』と呼ばれることになった。

ちなみに彼女の方はというと『あいーん』と呼ばれているようだ。どうしてなのかと吾輩が尋ねると、彼女は自分の苗字が『あい』で名前の後ろに『ん』がつくからだと教えてくれた。なるほど。確かにそれでは『あいん』だ。でもなんで『あい』なんだ?

『愛』とは一体何なのだろうか? 彼女に尋ねてみると彼女は優しく微笑みながらこう答えた。『あい』とは英語で『愛する』という意味です。私は『あいーん』と呼ばれています。この名前の由来について説明したいと思います。私の両親が離婚して名字が変わったからです。つまり結婚しました。結婚したということは愛する人と夫婦になったということになります。だから私は両親に名前をつけてもらいました。私の名前は相川絵里奈といいます。だから私は両親に愛されているのでしょう。それに絵は絵画の絵。美は美しい。美しく成長してほしいという思いを込めて名づけられました。絵に描いたような人になるようにと願いをこめて名づけられたようです。まぁ親は子供のことなんて何も考えていない場合が多いけどね。と彼女は苦笑しながら語っていた。

その後吾輩たちはお互いの名前を教えあった。吾輩は彼女に向かって「お主の名はあいいんか。なかなか良い響きの名じゃのう」と言ったら彼女は頬を赤らめながら照れていた。きっと名前を褒められたことが嬉しかったのだろう。吾輩は彼女に続けて、「ところでお主は何のためにこの部屋を訪れたのじゃ?」と尋ねた。すると彼女は顔を強張らせながら真剣な眼差しでこちらを見つめてきた。まるで何か重大なことを告げようとしているみたいだ。だから吾輩はゴクリと唾を飲み込んだ。そして彼女は言った。『あいを』と。『あいを』とは何かと訊くと『愛』と答えられた。だから吾輩は彼女が言いたいことは分かる。だが理解できない。意味不明だ。何故なら彼女は吾輩のことをじっと見つめている。これはどういうことだ。もしかしてそういうことなのか。彼女は吾輩を愛しているというのか。いや違う。そんなはずはない。彼女はきっと吾輩に愛の言葉を囁いて、そして吾輩とニャンニャンしようと企んでいるに違いない。そう考えると少しドキドキしてきた。だって相手は人間の女の子なのだ。人間には興味がある。人間は吾輩よりも弱いが吾輩と同じ生き物なのだ。しかも彼女はとても可愛いし、胸が大きい。でも吾輩はまだニャンニャンする気はなかった。何故ならば吾輩はもっと強くなってから彼女をニャンニャンすることに決めたからだ。吾輩が彼女とニャンニャンするためにはまずはこの世界に存在するであろう敵を倒して強さを手に入れなければならない。そのためにもまずはこの世界を探検しよう。この部屋の扉を開けて外に出てみよう。そして探索開始だ。ワクワクするぜ。

吾輩は勢いよくベッドから飛び出した。

こうして吾輩の冒険が始まったのであった。

⸺完



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