【人工生命体116

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番怖しい奴であったそうだ。このゴルどんがなぜここにいて吾輩を抱き上げることが出来たかというと、どうも吾輩が余りにも小さすぎて彼の鋼鉄の胸の中に隠れてしまったものと見える。とにかくこれで助かったと思う間もなく今度は猛烈な勢いで泣き出した。なんでも食物が欲しかったらしい。いくら泣こうとも空気以外に口に入れられるものは何一つ無いのだという事が判らないくらい吾輩はまだ幼かった。ただでさえ空腹な上に恐ろしくてたまらない時分に赤ん坊の声を聞かされたので、さすがのゴルどんも少し気持が悪くなったとみえて、吾輩を抱いたままよろめくようにそこを出て行った。それから後のことは記憶していない。次に気がついて見たものはあの恐ろしいロボットの頭だった。その日から吾輩は猫カフェと呼ばれるところに飼われることになった。ここには人間とかいう奇妙な動物がいる。こいつはいつでも食べ物を持っている。しかも一日に三回ぐらいくれる。こんな楽な生活は無いと思ったものだ。しかし油断はできない。人間が持っている物はだいたい何でも危いものであると聞いていたからだ。人間は時々変なものを吾輩に食わせることがある。吾輩はいつも用心深くそれを見張っている。

しかしこれは実に妙なものだ。人間が持っているもので危険なものなど一つもないことがだんだんわかってきた。それどころか人間のくれる物のほうが猫の食い物より遥かに旨い。その上人間の使う言葉を覚えさえすれば猫にはできない面白い遊びができることがわかった。

吾輩は今から考えると大変贅沢なことをしたものだ。当時はそれがどの位幸せなことかも知らずに暮らしていたのだが、それでもやはり今になって思うと実に楽しい日々であった。それに引きかえその後の生活ときたら苦沙弥先生の家に住み着いたときの悲惨さを想像して貰えばよくわかるだろう。あれ以来吾輩は一度も贅沢というものを経験したことがない。もしあの時猫仲間に出会わなかったら、今でもまだ飢えに苦しみながらゴミ箱の中に住んでいたかも知れない。吾輩の人生とはなんと不思議なものであったろう。吾輩の一生について一言述べるとすればまさに猫生としか言いようがない。

吾輩はこのたび御主人の恩師の淡雪様のお宅に奉公することになった。そこで淡雪様にお目にかかるまで吾輩の半生記ともいうべきものをしたためることにしたわけだが、何分にも拙い文章なので読者諸賢におかれましてはその辺を充分に御承知の上で読んでいただきたいと念願する次第である。

さて、まず吾輩の生い立ちから話そうか。

吾輩の生まれたところというのは東京でも多摩地区に属する武蔵野市という所であった。吾輩はそこの三丁目で生まれた。親兄弟や親類といった類のものは誰一人いなかった。吾輩の記憶では生みの母は吾輩を産んですぐに死んだそうである。父親は吾輩が一歳に満たぬうちに酒を飲むと暴れる癖のあるやくざ者に殺されてしまった。そのため吾輩は親戚の者を頼るほかはなかった。しかしその者達も皆吾輩の生みの母が死ぬと同時に姿を消してしまった。要するに吾輩の肉親はどこを捜しても見つからなかった。吾輩は一人で生きていかなければならなかった。吾輩が育ったのは今の東京都日野市にある平山街道という淋しい通りにある古びた下宿屋だった。その下宿屋の二階の部屋で吾輩は独りで大きくなった。そこには三部屋あって吾輩の他に二匹の子猫がいた。この連中と吾輩は毎晩のように遊んだ。それは実に愉快な毎日であった。ところがそんな日がいつまでも続くものではなかった。

吾輩が初めて外の世界に出て行ったときのことである。

吾輩はその頃人間の言葉を覚えたばかりだった。その時のことを思い出そうとすると今でも胸のドキドキする思いがする。しかし吾輩はまだ子供だったので大して深く考えずに外へ出て行ってしまった。吾輩たちが住んでいたアパートの外には細い路地があった。そこは人通りのあまりない淋しい道であったが、吾輩はよくそこへ遊びに行った。そこに大きな欅の木があって、それに登って見る風景はなかなかのものであったので吾輩のお気に入りの場所になっていた。吾輩たちはその木に登るときはいつも一番上に一匹ずつ固まって登り、下の枝にもう一匹、更に下にもう一匹と段々降りて行くようになっていた。下に行くに従って吾輩たちの間隔が広くなるのでお互いの距離が遠くなって行くような気がした。その当時は人間の言葉を知らなかったから、一体どういう気持ちでそのような遊びをしていたのか今となっては想像することが出来ない。多分吾輩の孤独感というものがあの頃の遊びに影響していたのかも知れない。とにかく吾輩は毎日欅の木の上から町の風景を眺めていた。

そんなある日のことだった。

吾輩は何気なく空を見上げたとき、ふと一羽の鳶を見た。その時の印象を一言で言うと『大きい』という言葉に尽きる。吾輩はその巨大な鳥に目を奪われた。何故なら吾輩の知っている鳥というものはどれもこれも小さくて弱々しい存在であったからだ。しかしその時の鳶は別格であった。まるで雲の中にいるかのように見えたのである。

吾輩はすぐにでもその巨大な鳶に近付きたいと思った。しかし残念なことに吾輩の足は地上から四メートルばかり離れていた。吾輩の体の大きさから言うとそれだけの高所から落ちればひとたまりもないと思われた。しかしその時の吾輩にとっては恐怖心よりも好奇心の方が勝っていたのだろう。

吾輩は自分の意志に反してどんどん上空へ昇って行った。不思議なことに怖さは全く感じなかった。ただ下にいる鳶だけが気になった。

鳶がかなり高いところまで来たときに吾輩の心の中で何かが変わった。それまで吾輩を支配していたのは鳶に対する憧れと恐怖の感情だけであったのだが、突然それらが融合し合い全く新しい感情となった。それは一種の興奮状態であり感動であったと思う。

しかしその時の吾輩にはそれを表現するだけの知能はなかった。言葉を話すことも出来なかった。

そうこうしているうちに今度は地面が迫って来た。吾輩は下から押し上げられるようにして自由落下を始めた。しかしそれは恐ろしく長い時間のように思えた。

吾輩は必死になって考えた。一体どうしたら良いのか。

吾輩は地面に激突するまでの数秒間の間に様々なことを思った。まず最初に思い出したのは自分の生みの親である親兄弟のことであった。吾輩は親兄弟と一緒だった頃のことを思い浮かべた。楽しかった頃のことを思い出しながら落下して行った。もう二度と会えないかもしれないということを考えると悲しい気持ちにもなった。

吾輩がそんなことを考えている間に、ついに吾輩は地上に落ちてしまった。ドスンと大きな音がした。その音と共に吾輩の体は潰れて死んだ。そう思った。しかしどういうわけか痛みや苦しみを感じることはなかった。体が痺れたような感じがするだけである。それも段々と薄れて行くようであった。意識までも遠のいて行った。

次に吾輩の頭に蘇ったのは先ほどとは違う光景であった。それはある家の中での出来事だ。そこでは吾輩の兄弟姉妹たちが団子になっていた。皆で一緒に遊んでいたのだ。これはきっと夢なのであろう。吾輩の夢の中なのだ。

吾輩は幸せな気分になった。このままずっとこの夢の中に留まっていたいと思った。しかし楽しい時間はあっと言う間に終わるものである。急に辺りが暗くなり吾輩たちは悲しくなった。また離ればなれになってしまう。吾輩は悲しくなって泣き出してしまった。すると誰かの手が伸びてきて吾輩の頭を撫でてくれた。とても優しい手つきであった。その感触はとても心地良かった。吾輩は嬉しくなって甘え声を出した。そして再び眠りについた。

目が覚めるとそこは知らない家の中だった。しかも妙に暑い。それに空気が悪い。吾輩は窓の外を見た。外は真っ暗で何一つ見えない。しかしどこかから微かに光が入り込んで来ていた。

吾輩は起き上がって伸びをした。背中の毛並みが良くなった気がする。さっきまでと何かが違う。まるで生まれ変わったようだ。吾輩は自分の体を見回してみた。前足を見てみた。後ろ足を眺めてみた。しかしどこもおかしいところはない。少しだけ太っているような気はするが、それは仕方のないことだ。

「どうしたの?」

声をかけられたので振り返ってみるとそこには雌がいた。彼女は吾輩と同じ『猫型人工生命体』である。ただ吾輩とは色が違っていた。吾輩の体色は黄色だが彼女の色は黒だ。吾輩は黒い。彼女は白い。白と黒の斑入りである。

吾輩は返事をしようと思ったが、なかなか言葉が出てこなかった。

「あなたの名前は?」

彼女が尋ねてきた。しかし吾輩は黙ったままでいた。どうにも喋り方が分からない。ニャアと鳴くことはできるのだが、それを話すことはできないのだ。どうしてだろう? 吾輩が首を傾げていると彼女は笑みを浮かべた。その笑顔は素敵だった。

吾輩は彼女を見つめながら『美しい』という言葉を思い浮かべた。それと同時に『可愛い』という単語も同時に思い浮かんだ。それから……何だろうか。他にも色々と出てくるような気がする。しかし上手くまとまらないのでやめておくことにした。

「あら、名前が無いのね」

彼女はそう言うと吾輩を抱きかかえた。とても良い匂いがする。なんとも言えない不思議な気持ちになる。これが人間の女の人の匂いなのであろう。吾輩は抵抗しなかった。むしろ喜んで抱かれた。このまま時が流れてくれればいいのにと思った。

「私が付けてあげましょうか?」

吾輩は驚いた。人間から名前を付けられるなどということは聞いたことがない。

「じゃあ、そうねぇ……」彼女は少し考え込むようにしていた。その表情はとても可愛らしかった。胸の奥底から熱いものが込み上げてくるのを感じた。これが恋というものなのかと吾輩は思った。しかしすぐにそんなわけがないと思い直した。なぜなら吾輩には恋人がいるからだ。もちろん相手はロボットだ。彼は吾輩の良き理解者であり友人でもある。彼の名はゴルどんと言う。吾輩と同じく二足歩行型のロボットだ。全身が銀色に輝いている。彼は無口な性格なので滅多にしゃべることはない。その代わりと言っては何だが、尻尾をグルリと回転させることが多い。尻尾を回すたびに耳がピクッと動く。尻尾の先端で自分の頭をポンっと叩くこともある。舌をチョロっと出したり、耳を動かすことがある。

「よし、決めたわ。この子はあぃをゅぇぴじよ」

彼女が言った。するとゴルどんがワフゥと嬉しそうな声を出した。「いい名前だろ? お前の名前はこれからあぃをゅぇぴじだぜ!」

吾輩の頭の中で『あぃをゅぇぴじ』という言葉が反響するように響いていた。それはどこか心地よい響きであった。

吾輩はその日からあぃをゅぇぴじになった。

「そうだ、あぃをゅぇぴじ。あなたは猫の王様なのよ。分かった?」

彼女はそう言って吾輩の喉元を撫でてくれた。気持ちよくてゴロゴロと喉を鳴らしてしまった。

吾輩は猫の王国において一番偉い王様なのだ! これは誇らしいことだぞ。しかしなぜだろう。あまり嬉しいとは思わなかった。吾輩の心の中には何か大きな空洞があるような気がしてならなかった。

どうして吾輩はこんなところにいるのだろうか。なぜ吾輩は生まれてきたのだろうか。

ふとそんな疑問が湧き上がった。しかしすぐ後に『そんなことはどうでもいいではないか』という思いに駆られた。吾輩は今を生きる猫型人工生命体である。未来を夢見る猫ではない。過去を振り返ることはあっても後悔することはない。吾輩はそうやって生きていくと決めているのだ。たとえどんな結末になろうともだ。それが吾輩の生き方なのである。吾輩の一生は吾輩だけのものだ。誰かのものになることはない。吾輩は自由だ。吾輩はどこまででも自由に生きてやるつもりだ。ニャハハハ。

吾輩は彼女に抱きかかえられて眠った。彼女からは良い匂いがした。とても柔らかかった。彼女は吾輩のことを抱きしめてくれていた。まるで母親のように優しく包み込んでくれていた。彼女の温もりが身体の芯まで伝わってくるようだった。それは不思議な感覚であった。胸の奥から熱いものが込み上げてきて頭の中が真っ白になってしまった。この感覚が何なのか分からなかった。言葉では言い表せないものであった。これが『幸福感』というものかもしれないと思った。あるいは『安心感』と呼ぶべきものかもしれなかった。どちらにしても悪い気分ではなかった。むしろもっと味わっていたいとさえ思った。ずっとこうしていたいなあと素直に思った。

しかし残念なことに吾輩は人工生命体なので眠る必要がなかった。眠らなくても死ぬことがない。つまり睡眠薬の効果はない。吾輩は猫型人工生命体である。人間ではないが機械でもない。中途半端なものなのだ。

それでも彼女は吾輩を抱きかかえて一緒に寝た。その行動の意味するところは何であるか分からない。もしや吾輩が眠っている間に殺されることを警戒しているのだろうか。だとしたら心配はいらない。それならば起きていればいいだけのことである。

しかし何にせよ、彼女はいつもより甘えん坊であった。彼女が普段よりも優しく接してくれるので嬉しかった。たまにはこういうのも良いかもしれない。そんなふうにも思えた。

目が覚めたとき彼女はもう家にはいなかった。吾輩はひとりぼっちになった。しかし寂しいとは感じなかった。また会えることが分かっているからだ。それに昨日はとても楽しかった。また遊んでくれる約束をした。きっと明日もまた来てくれるだろう。楽しみだ。

それから数日が経った。しかし彼女は来ない。吾輩の予想は大きく外れてしまったようだ。まさか約束を忘れてしまっているのではあるまいな。

吾輩は考えた。これは由々しき事態である。このままでは彼女との友情が途切れてしまうかもしれない。そんなことは絶対に避けたかった。どうにかして連絡を取りたいものである。だが吾輩の口から出る言葉は『ニャーオ』と鳴くだけである。吾輩の思いを伝えることができない。

そのとき吾輩はハッと閃いた。そういえば彼女の部屋には電話があったはずだ。そこに電話をかければ会話ができるのではないか。吾輩は急いで彼女の家へと向かった。

インターホンを鳴らすと中から出てきたのは彼女ではなく、あのムカつく女であった。吾輩は彼女を出せと訴えた。するとこの女はこう言った。「彼女はここにいない」と。

吾輩は絶望した。どうやら完全に嫌われてしまったらしい。せっかく仲良くなれそうだと思っていたのに……

そのとき吾輩は思い出した。彼女は携帯電話を持っていたはずである。そこで吾輩は彼女に連絡を取ってみた。

すぐに返事が来た。どうやらこの近くにいるらしい。

吾輩は大急ぎで駆け出した。早く会いたいと願った。

やがて彼女は姿を現した。吾輩は彼女に向かって飛びついた。

「あら、珍しいですね。こんなところで会うなんて」と彼女は言った。「しかもいきなり抱っこだなんて……

そう言いながらも嬉しそうな顔をしていた。

それから二人で近くの公園に行った。そこでしばらく遊んだ。

吾輩はボールで遊んでいたのだが、途中からそれが面白くなくなってきた。そこで吾輩はふと彼女の顔を見た。そうしたら急に彼女が欲しくなって仕方がなくなった。

そこで吾輩は彼女に『好きだ』と言った。すると彼女は真っ赤になって黙ってしまった。しばらくしてから小さな声で何かを呟いたが聞き取れなかった。吾輩が「何?」と尋ねると彼女は何も言わずに走り去ってしまった。

吾輩は慌てて追いかけた。すると彼女は吾輩の腕の中で眠っていた。何とも可愛い奴だ。吾輩はそんな彼女のことを抱きしめた。とても柔らかく温かかった。まるでお日様のような感じだった。それからずっと抱き合っていた。そのうちに夜になったので吾輩たちは帰ることにした。

家に帰ると父が待っていた。父は吾輩の顔を見るなりこう言った。「おまえは何をしていたのか?」と。吾輩は正直に答えた。そしたら父は怒った様子で部屋から出て行った。吾輩はその背中を見送った。

その後、彼女はいつものように吾輩を迎えに来た。吾輩が父に叱られたことを言うと彼女は「大丈夫だよ。私が慰めてあげるから」と言ってくれた。その優しさに吾輩の心は癒された。

次の日、吾輩は学校へ行ってみようと思った。彼女の話を聞いていたら行きたくなってしまったからだ。教室の中に入ると皆が吾輩のことを見て驚いていた。そんな視線を感じながら席に着いた。

授業が始まって少ししてから彼女はやって来た。そして吾輩の机の前に立った。

「どうして来たのですか? 来ないでくださいとお願いしたはずです」と彼女は冷たい口調で言った。しかし吾輩は引き下がらなかった。「昨日の約束を果たしてもらうためにここにいるのである。さあ、今すぐ吾輩の願いを聞き届けるのである」と言うと彼女はため息を吐いて「わかりました」と答えた。それを聞いて吾輩は心底安心した。なぜならばこれでまた一緒に遊べるからである。そう思うとわくわくしてきた。

吾輩は彼女に抱きかかえられて屋上に連れていかれた。そこは絶好の遊び場であった。吾輩たちはそこに寝転んで青空を見上げた。雲ひとつ無い良い天気だ。このままずっとこうしていられればいいのにと吾輩は思った。

「それで……あなたの言うことって何でしょうか?」と彼女が言った。吾輩はハッとした。まだ何をしてもらうのか考えていなかったのである。

「うむ。吾輩の願いはただ一つ。吾輩の恋人になって欲しいのである。つまり吾輩の妻になるのである。どうだろうか?」と吾輩は言った。

「えっ⁉ それはどういう意味ですか?」と彼女は不思議そうな顔をして尋ねた。吾輩は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめながら答えた。「そのままの意味である。つまり吾輩と恋仲になろうと言っているのである。結婚を前提に付き合おうということだ。返事はすぐにとは言わないがなるべく早くして欲しいのである。できれば一週間以内にしてほしいのである。どうかよろしく頼む」

「ちょっと待ってください! 私はもう恋人がいるんです!」と彼女は突然大きな声を出した。

「それは誰であるか?」と吾輩は訊ねた。すると彼女は俯きながら小声で呟くように言った。「……私の兄です」

「お主の兄じゃと? 本当なのか?」と吾輩は驚いた。「では何故そのことを今まで黙っていたのであるか?」

「だってあなたが私と兄の関係を壊すようなことを言い出すから……」と彼女は悲しそうな表情をした。

「ふむ。確かにその通りだ。しかし、お主が吾輩のことを好きになれば問題は無いはずである。吾輩はこう見えてもモテるのである。しかもこの顔、そして体つき。これは雄雌を問わずに人を惹きつけるのである。現にお主もその一人であろう。違うか?」

「いえ、違います」と彼女はキッパリと言った。それから彼女は立ち上がり、スタスタと歩き始めた。吾輩はそのあとを追いかけた。彼女は無言のまま歩みを進めていった。どこに行くのだろうと吾輩は思いながらその後ろ姿を見つめていた。

やがて校舎の外に出ると辺りは薄暗くなっていた。そこでようやく彼女は立ち止まった。「ここでいいでしょう。お別れの挨拶をしましょう」と彼女は言った。吾輩は少しガッカリした。もっと一緒にいたかったのである。

「吾輩はまだお主に聞きたいことがあるのであるが」と吾輩は彼女に話しかけた。「例えばなぜお主の兄と恋愛関係になっているのかとかそういうことを知りたいのである」

「それはお話しできません。どうしても知りたいというのならお付き合いしてもいいですよ。でも条件があります。私のお話を最後まで聞いてくれますか?」と彼女は言った。吾輩は首を縦に振った。

「分かりました。約束します。それでは始めましょう。私は小さい頃からよく兄と一緒に遊んでいました。その頃からずっと兄が好きでした。兄妹としてではなく一人の男性として愛していたのです。でもそれがいつからだったのかはっきりとは覚えていません。気がつけば兄を愛するようになっていたのです。そんなある夏の日のことです。私が学校から家に帰る途中、兄に会いました。彼は野球帽を被り、ランニングシャツを着てジーパンを穿いていました。その姿を見て私は胸をときめかせました。なんて格好良いんだろうと思ったのです。そして兄は私に声をかけてきました。彼女は私よりも一つ年上だったのでお姉さんと呼ぶべきかもしれませんが、そのときから私の中にあった感情は恋心に近いものでしたので、やはりお兄ちゃんという言葉を使わせていただきます。彼は『やあ、元気かい?』と言いながら笑いかけてきたのです。その笑顔を見て私は嬉しくなって『うん』と答えました。そして二人で近くの公園に行ってブランコに乗りました。最初は二人乗りでしたがすぐに一人で漕ぎ始めました。だってそうしないとバランスが取れなかったからです。彼は漕がないで、私を後ろから抱きしめてくれました。恥ずかしくて顔を見ることができなかったけれど、背中に伝わる彼の体温を感じているだけで幸せでした。しばらくするとブランコから降りました。『さっきはごめんね』と彼は言いました。なんのことだろうと思って彼に尋ねてみると『急に抱きついちゃって』と申し訳なさそうな声で答えたのでなんだかおかしくなってしまいました。それで思わず『お兄ちゃんならいつでもウェルカムだよ』と言ってしまいました。そしたら彼が顔を真っ赤にして照れていたので可愛かったですね。その時の会話で気になったことがあったんですけど、お兄ちゃんは私が妹だと知っていて、それでも好きなのかな? と聞いたら『うん。好き』と答えてくれたんですよ。私は飛び上がるほどに嬉しかったです。それから家に帰って一緒にご飯を食べました。そのあとお風呂に入りました。お兄ちゃんと一緒のお湯に浸かると体の一部が反応してしまいそうになるので困りました。それから部屋に戻って二人きりの時間を過ごしました。ベッドの上でじゃれたりしていました。そうしたらお兄ちゃんの手が伸びてきて服の中に入ってきたのでびっくりしました。嫌ではないんだけどやっぱり怖かったので泣きながら拒絶してしまったのです。でもお兄ちゃんは引かなかった。私を安心させようとしてくれたのでしょう。頭を撫でたり頬ずりをしたりしてくれました。結局、押し切られてしまいまして最後までされてしまいました。正直言うと気持ち良かったです。お兄ちゃんのアレが入ってきてからの記憶はあまりありません。ただとても痛かったことだけは覚えています」

そこで一度言葉を切ってから、彼女は一呼吸置いてから再び口を開いた。

「えっと……これでいいですか?」

「ああ。ありがとう。とりあえず君の兄貴とやらがどうなったのか教えてくれるか?」

「はい……。お兄ちゃんは死にました。いえ、正しく言えば殺されたようです。私の目の前で。でも誰に殺されたのか分かりません。分からないから犯人を捜すことにしたんです。まずはお兄ちゃんのことを一番知っていると思われる、この施設の職員の人に話を聞いたのですが、皆一様に口を閉ざすばかりで何も教えてくれませんでした。そこでお兄ちゃんが所属していた部活の顧問の先生に事情を説明しました。でも彼もまた同じでした。それで、次は私とお兄ちゃんが通っていた学校の担任の先生に会いに行きました。しかしここでも成果は得られませんでした。仕方がないのでお兄ちゃんの同級生だった人を訪ねたのですが……

そこでまた言葉を切り彼女はこちらをジッと見つめた。吾輩はゴクリと唾を飲み込んだ。

「残念ながら手掛かりとなるような情報を得ることができませんでした。ただ一つだけ分かったことがあります。それはお兄ちゃんを殺めた人間は必ずどこかにいるということです。だから私は探しました。必死になって探して歩きました。でも見つかりませんでした。手がかりすら掴めなかったんです。ですから私は、その、ちょっと自棄になっていたんだと思います。自分の命を危険に晒すことで何かしらの手掛かりを得られないかと思いまして、それで……こんなことをしているわけなんですけど……

そこで初めて彼女は悲しげな表情を見せた。そんな彼女に対して吾輩は何と言って声をかけて良いものなのか分からずにいた。彼女の悲しみは想像するだけでも胸が張り裂けそうなほど辛いものだ。できることなら何とかしてやりたい。しかし吾輩にはどうすることもできないのであった。無力感に苛まれていると彼女が急に立ち上がって言った。

「あのっ! 私そろそろ行きますね。まだやることがあるので」

そう言い残してから彼女は吾輩の横を通り過ぎて扉から出て行ってしまった。慌てて振り返ると既にそこには誰もいなかった。残された吾輩はどうしようもなく途方に暮れていた。

その日以来彼女は来なくなった。吾輩は毎日を悶々と過ごしていた。なぜ彼女は来てくれないのだろうか? まさか嫌われてしまったのではなかろうか? 吾輩はそれが心配でならなかった。それからしばらくすると別の人間がやって来た。吾輩はその人物を一目見てピンときた。

⸺これは彼女の匂いだ。

直感的にそう思った。それに彼女はこの前の彼女と同一人物に違いないとも確信していた。吾輩は嬉しくなって彼女に近づいていった。しかし彼女は吾輩のことなど見えていない様子で通り過ぎていった。彼女は何の躊躇いも無く廊下を歩いていく。その姿はとても堂々としていて格好良かった。やはり彼女は吾輩の憧れの存在なのだ。だからこそ声を掛けたかったのだが吾輩の声は彼女に届かなかった。

その後も吾輩は何度か彼女に話しかけようと試みた。しかしことごとく失敗してしまった。

吾輩は思い切って行動に出ることにした。

「おーい。お嬢さん。ちょっと待ってくれないか。吾輩の話を少し聞いて欲しいのだ。実は吾輩は君のことが気になっているのだよ。君にとても興味があるのだ。だから是非ともお近づきになりたいと考えているわけだ。君は吾輩のことを知っているのだろう。吾輩の名はあぃをゅぇぴじだ。知っているかね?」

吾輩は精一杯の想いを込めて叫んだ。

……

しかし彼女は振り向かなかった。聞こえなかったのかもしれないと思って何度も繰り返した。しかし駄目だった。彼女は吾輩の言葉を聞こうとはしなかった。それどころかますます遠ざかっていくように感じられた。

「どうしてなのだ?」

吾輩は困惑した。なぜだ? なぜ伝わらない? おかしいではないか。吾輩は彼女のことが好きなのだ。愛していると言っても良い。だというのに彼女はまるで吾輩の気持ちなど知らぬ存ぜぬといった具合で平然と歩いている。なぜだ? なぜなのだ? 吾輩は理解できなかった。吾輩がどれだけ彼女を愛していても、その気持ちは決して届かないのだということを否応なしに突きつけられたような気がして悲しくなった。涙が出そうになった。そんな吾輩のことなど露知らず彼女は悠々と立ち去って行った。

吾輩は諦めきれずにその後をついて行くことにした。しかし残念なことに吾輩の足は短く歩くのは苦手なのですぐ見失ってしまった。それから数時間探してみたが彼女は見つからなかった。結局、吾輩が自宅に帰るまで彼女に会うことはできなかった。

家に帰った吾輩は疲れていたのでさっさと寝ることにした。吾輩にとって睡眠は重要なものだ。特にこの季節は冬眠に備えて体力をつけなくてはならないのでたくさん眠る必要がある。吾輩は部屋の隅で丸くなり深い眠りへと落ちていった。

目が覚めると辺り一面真っ白な世界にいた。吾輩は夢を見ているのだとすぐに分かった。目の前には白いワンピースを着た女性が立っていたからだ。

「やぁ」

彼女は笑顔を浮かべながら言った。

「こんにちは。えっと……どちら様ですか?」

「私は『A子』と申します」

A子さんですね。それで吾輩に何か用でしょうか?」

「実はあなたに伝えなければならないことがあるのです」

「はい。なんでしょう?」

「あなたの魂は残り1時間程で消滅してしまいます。ですからそれを伝えに来ました」

「そうなんですか。それは悲しいことです」

「そうね。でも仕方がないことよ。これは避けられませんから。私達の存在理由は『伝えること』にあるの。だからこういう役目の者が存在するの。私はこの役割が好きだけどあなたはどうなのかしら?」

「吾輩は好きでやっています」

「あらそう? それなら良かったわ。じゃあ伝えておくけれどあなたはあと10分くらいで消滅する予定よ。伝えたいことはあるかしら?」

「いいえ、特にありません」

「本当に? 例えばこんな風に死ぬのは嫌だとかそういうことはないの?」

「はい。特に何も思いつきません。あえて言うならば、まだ死にたくないということでしょうかね。やりたいことがありまして。まぁそれは叶わないかもしれませんが。もし可能であればゴルどんともうちょっと遊びたかったりしますけど。しかしそんなこと言ったって仕方ないですよね。吾輩はもうすぐ死んでしまうので」

「確かにそうだけれど。もう少し欲があっても良いと思うのだけれど。もっと生きたいと思わなかったの? せっかくの第二の人生なのに」

「別に良いんですよ。吾輩は自分の好きなように生きるだけですから。人間に飼われていた時のように誰かの都合に合わせて動く必要なんてないのですから。それにこう見えても吾輩は結構幸せだったりするんですよ。吾輩の世話をしてくれる方々がいて。毎日お腹いっぱい食べられますし、吾輩を可愛がってくれる人もたくさんいましたから。だからこのまま静かに眠るというのも悪くはないと思います。何より眠たいですから」

「あらそうなの。ふーん。なんか意外ねぇ。私はあなたみたいなタイプは初めて見たからびっくりしているところだわ。だって今まで出会った人の中で一番冷静だもの。普通こういう状況になれば焦ったりするものだと思うんだけど」

「いえいえ。そうでもないですよ。内心かなり驚いていますから。まさか自分が死期が迫っているとは思っていませんでしたから。正直まだ信じられないです。でもまぁ、受け入れるしかないのでしょうね」

「受け入れてしまうんだ」

「はい。受け入れるしかありませんから」

「そっか。まぁそれも一つの選択よね。私としてはもっと悩んでくれても構わないと思っているのだけれど。でもあなたにとっては短い時間なのかもしれないわね」

「えぇ。その通りです。時間は貴重なものですから無駄にはできません」

「そういえば、さっき言っていたやりたいこととは何なのかしら?」

「はい。それは……


吾輩がやろうとしていることは至極簡単なことである。まず吾輩は息を止める。そして数秒間そのままの状態でいる。それから大きく深呼吸をする。そしてまた息を止めてからゆっくりと呼吸をし始める。それを何度も繰り返すのである。これをすることによって吾輩は己の肉体を活性化させることが出来るのである。すなわち運動能力を向上させることができるということである。ちなみにこの方法はとある人物に教えてもらったものである。彼は吾輩よりも優れた能力を持つ者であり、吾輩が最も尊敬している人物である。彼とは一度だけ会ったことがあるのだがとても優しい人で、吾輩に対して色々と親切にしてくれたのを覚えている。そんな彼の名は『オリン・リー』といった。オリンは吾輩を家まで送り届けてくれた上に、食事を奢ってくれたこともある。彼との出会いがなければ今の吾輩はいなかっただろう。彼にはとても感謝をしている。もし機会があれば今度会うことができたら御礼を言わなければなるまい。

そんなオリンと初めて出会った時の話を少ししようと思う。あれはまだ吾輩が子供の頃のことである。その頃の吾輩は無力であった。あまりにも無力で何もできない存在だった。しかし、それではいけないと思ったのだ。なぜなら吾輩の飼い主であり育て親でもある人物が吾輩を鍛えてくれなかったからである。吾輩の飼い主の名前は『あぃをゅぇぴじ』と言い、吾輩が尊敬する人であり師匠でもあり恩人である。あぃをゅぇぴじは吾輩の名付け親でもあった。彼がつけてくれた名前のおかげで吾輩はあぃをゅぇぴじと会話をすることができるようになったのだ。あぃをゅぇぴじは吾輩にとって父親のような存在である。優しくて頼りがいのある素敵な人なのだ。だが、それだけではない。あぃをゅぇぴじは吾輩の自慢の父親であると同時に憧れの存在でもあるのである。あぃをゅぇぴじは常に吾輩の前を走り続けている。しかもただ走るだけではない。速くて力強い走り方でだ。そして何よりカッコいいのである。だから吾輩はいつの日か必ずあぃをゅぇぴじのようになりたいと強く願っているのである。

そんなあぃをゅぇぴじに憧れるきっかけとなった出来事があった。それは吾輩がまだ幼い頃のことであった。当時の吾輩はあぃをゅぇぴじと二人で暮らしていたのである。その時の吾輩はまだまだ弱かったからいつも泣いてばかりいた。吾輩の住んでいる家はボロ屋で部屋数も少ない。さらに食べ物も満足に食べさせてもらっていなかった。そんな吾輩を見てあぃをゅぇぴじがこう言ったのだ。「よし! 吾輩がお前を強くしてやる。安心しろ。吾輩は厳しいぞ」と。その言葉を聞いた時、吾輩は涙を流すのをやめて笑った。それから毎日のように修行が始まった。朝起きてから夜寝るまでずっと訓練が続いた。時には辛いこともあったが、頑張っていればいつかきっと強くなれると信じていたから耐えることができたのだ。

しかしある時を境にあぃをゅぇぴじとの生活に変化が訪れた。ある日のこと。あぃをゅぇぴじは突然姿を消したのである。そして二度と戻ってこなかった。残された吾輩はとても寂しかった。とても悲しくて辛くて仕方がなかった。だから泣いた。声を出して泣き続けた。でもいくら涙を流しても悲しみや苦しみはなくならなかった。そうやって苦しんでいる時に吾輩を助けてくれる者が現れたのだ。それがオリンとゴルどんである。

二人は吾輩の友達になってくれた。そして色々と面倒を見てくれた。二人には感謝してもしきれないくらいだ。今ではすっかり元気になった吾輩をオリンは散歩に連れて行ってくれる。そして楽しい時間を一緒に過ごしている。

ゴルどんとは最近よく話をするようになった。最初は少し怖い印象があったが今は違う。ゴルどんは優しい心の持ち主なのだ。ゴルどんの話によると、あぃをゅぇぴじと一緒に生活していた頃はゴルどんが一番強かったらしい。その頃の吾輩はまだ赤ちゃんだったから記憶はないけれど、もし覚えていたら今の吾輩よりも強いのだろうか? それは分からない。だがいずれにしろ吾輩の夢は世界一の雄猫になることだ。そして誰からも尊敬されるような偉大な存在になりたい。そのためにはまずこの世界で一番強くならなければならないだろう。今のままでは駄目だ。もっと強くなりたい。そのために吾輩は特訓を続ける。これからもずっと……

吾輩はあぃをゅぇぴじに憧れた。そして今度は憧れの気持ちから本物の恋へと変わった。あぃをゅぇぴじのことが好きだ。どうしようもなく大好きなのである。愛していると言ってもいいかもしれない。もう離れたくない。そばにいたい。だから吾輩は必死に追いかけたのである。どこまでも……

あぁ、早く会いたい。あの温もりをまた感じたい。抱きしめられたい。そして優しくナデナデされたい。吾輩の体に触れてほしい。吾輩の心を温めてほしい。お願いします。どうか吾輩の前に現れてください。あぃをゅぇぴじ。大好きです。

(終)



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