吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番怖しい奴であったそうだ。このゴルどんというのが曲者で、毎日毎日泣かれると困るというので、人間の赤ん坊を育てるように、機械仕掛けの胸の中に吾輩を入れて育て始めた。
ところがこいつが乱暴で苛酷な男で、一日二回は必ず電池を抜いてしまう。そのたびに吾輩は暗闇の中でニャーニャー泣く羽目になる。吾輩はただ泣きたいために泣くわけではない。猫として当り前の行為をしているまでだ。それがなぜいけないのかどうしても納得ができない。
こんな調子だからとても自分の意志を伝える事などはできない。伝えられる事は「ニャー」とか「ミャー」といった意味のない音ばかりである。しかしながら吾輩の頭脳はまだ完全に壊れてしまうまでは至っていない。
だから吾輩は自分の置かれた情況を判断するくらいの事はできる。そして今申す通り、吾輩は吾輩自身の権利を守る為にやむを得ず抗議をしているわけだ。これは吾輩の権利であり義務でもあるからだ。しかし人間というのはどうも理解できないものだ。何度説明しても一向にわかろうとしない。仕方がないから吾輩はただ泣けばいいと思っているらしい。
しかし泣いたってだめなんだぞ、と、いつか誰かに言われた事がある。吾輩はその時まだ小さかったのでその意味はよくわからないのだが、とにかく泣いちゃ駄目だと言われたのを覚えている。それで吾輩は一生懸命涙をこらえるようになった。おかげで今ではどんな時にでも涙を流さずにすむようになった。これは大変結構なことだと思う。
そうして成長した吾輩は現在ゴルどんの家の二階で暮らしている。一階には『オイラはロボットだぜ』の著者であるロボじいさんが住んでいる。ロボじいさんの家は吾輩の住んで居る所よりずっと小さいが、ロボじいさんがいつもピカピカ光っているので明るく感じる。それにロボットのくせに毎日欠かさず日記をつけている。それもピカピカピカピカピカピカピカとうるさい。だから夜中でもすぐに目が覚める。ロボじいさんの日記帳を枕にして寝ると熟睡できそうな気がする。
このロボじいさんの家の近くに大きな池がある。その池はロボじいさんの庭の一部だ。そこには大きな鯉がいる。鯉は大層大きくて、水の中には魚たちがたくさん泳いでいる。吾輩はその鯉たちと一緒によく泳ぐ。鯉たちはあまり鳴かない。鳴いてもあまり意味が通じないからである。吾輩の鳴き声とよく似ている。それで時々間違えそうになる事もあるけれども、ちゃんと見分けがつく。吾輩には兄弟もいるし姉妹もいるし甥や姪や従兄弟もいる。
吾輩はゴルどんと遊びたいと思う時もある。しかし吾輩は猫カフェの店員なので勝手に外に出る事はできない。だから仕方なく窓の外を眺めるだけで我慢する。するとゴルどんとあぃをゅぇぴじが一緒に遊んでいるのが見える。吾輩はそれを見ているだけでも嬉しい。
吾輩の住んで居る家は大きなビルの一階にある。そこは吾輩の生まれた家で、ロボじいさんと暮らしている家だ。吾輩が生まれる前からそのビルはあった。その建物は吾輩のお父さんとお母さんが暮らしていた思い出の場所なのだそうだ。その両親が吾輩を捨てたのだという事も聞いた。
「そんなはずはない。吾輩を産んでくれた時は二人は仲が良くて、吾輩を大事に育ててくれたんだ」
と、吾輩は反論した。
「しかしお前さんが生まれた後で喧嘩をしたんだよ。それが本当のところさ。まぁ今となっては仕方がない事だけどね。その時は本当に悲しかったよ。お前さんだってそうだろう?」
ロボじいさんは吾輩の話を聞いてこう言った。それで吾輩も何も言えなくなってしまった。確かに両親の事は気になる。しかしロボじいさんの言葉が正しいような気がする。でも、何か釈然としない。一体何が悪いのだろうか? どうすればいいのだろうか? それから数日経ってロボじいさんが出かけた後で、ロボじいさんの家に来客があった。吾輩は二階からそれを見た。
「あれは誰だ? ロボじいさんを訪ねて来たのか? おや、どこかで見た事があるぞ。どこだったかな……」
吾輩はしばらく考えた。そしてハッと気づいた。それは以前ロボじいさんと一緒に住んで居た女性ではないか。彼女はロボじいさんに別れ話をしに来たに違いない。
「きっとそうだ。間違いない」
吾輩は思った。吾輩の両親とも別れたらしいし、この女性は吾輩の母親代わりのような存在だ。それで吾輩は階段を下りて玄関へと向かった。吾輩に気付いたその女性が話しかけてきた。
「あら、こんにちは。ゴルどんに会いに来たの?」
ゴルどんとは吾輩の兄弟だ。ゴルどんは吾輩より少し小さいけれどもとても強い。だから吾輩はその兄貴分として尊敬している。
「ゴルどんはいるか?」
吾輩はそう尋ねた。その女性は吾輩をじっと見つめている。
「あなた……どなたかしら?」
女性は不思議そうな顔をして尋ねてくる。しかし吾輩は答えなかった。
「お嬢ちゃんこそ誰だい?」
吾輩が尋ねると、女性は「あっ」と小さく声を上げた。そして申し訳なさそうな顔になって言う。
「わたしは花音といいます。このお店の従業員です」
女性はペコリと頭を下げた。そこでようやく吾輩は自分の失敗に気がついた。女性の態度があまりにも自然だったので、自分が何者かを伝えるのを忘れていたのである。
「吾輩はあぃをゅぇぴじだ」
吾輩も女性と同じように自己紹介をした。すると彼女は首を傾げて質問してきた。
「AI? 人工の人工知能ですか?」
「違う。人工の猫型人工生命体だ」
「えっ! 人工生命なんですか⁉ へーっ!」
女性は驚いた様子で目を見開いた。しかし次の瞬間にはニコニコとした笑顔になった。
「すごいですね。そんな生き物がいるんですね」
女性は感心したように何度もうなずいた。それで吾輩は得意な気持ちになり、つい調子に乗ってしまったのかもしれない。
「どうだ凄いだろう。吾輩は世界で一匹しかいないんだぞ」
そう言って胸を張った。それからハッと我に返って反省する。
「あぁ、吾輩はなんて馬鹿なんだ。どうしてこんな事を言ってしまったのだろうか」
吾輩の親兄弟は世界中にたくさん居るのだが、『吾輩は猫型人工生命体である』などと言う奴はいないのである。それを自分で名乗るというのは恥ずかしいし愚かなことなのだ。だからすぐに訂正しようとした。ところが⸺
「そうなんですか! さすが猫さんですね。とても頭がいいのでしょうね」
と、その女性は褒めてくれた。それに驚き、また嬉しくて感動してしまう。なので、もう少しだけ自慢してみようと思った。
「当然だ。吾輩ほど賢い者はいないのだからな」
「わぁ、本当ですか。とても素敵な事だと思います」
女性は吾輩を真っ直ぐに見つめながらそう言った。吾輩は少し照れてしまった。
「ま、まぁ、それほどでもあるけどな」
吾輩が答えると、女性はクスッと笑った。そして吾輩の頭に手を伸ばしてきた。彼女の手が吾輩の頭に触れる寸前で止まった。それは、もし吾輩の頭を撫でたら毛が抜けてしまうのではないかと思って躊躇しているからだと吾輩は思った。だから吾輩は前足を上げて、女性が触りやすいようにしてやった。すると女性は優しく微笑んでから吾輩の頭を撫でた。その指先が心地良くて思わずゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。
「ふにゃぁ……」
あまりの気持ち良さに声が漏れる。女性はさらに優しく丁寧に吾輩の体を撫で回してくれた。本当に至福の時間だった。このまま永遠に続けば良いと思う。だが、残念ながらそういうわけにもいかない。なぜなら吾輩の飼い主であり親友の男性が迎えに来てしまったからだ。男性は女性と吾輩を見比べると眉間にシワを寄せながら低い声でつぶやいた。
「お前、何やってんだよ」
「何って……猫ちゃんを可愛がっているんだけど?」
女性の方はキョトンとした表情で答えた。
「……はぁ。なんでこんな所で女と二人でいるのかと聞いているんだ」
男性の問いかけに対して、彼女は少し考えるような仕草をした。それから首を傾げながらこう口にした。
「うーん、どうしてだろ? わからない」
「おい!」
男性は呆れたように大きなため息をついた。それからチラリとこちらを見て苦笑いを浮かべた。
「まったく、しょうがない奴だな。ほら、帰るぞ」
そう言って男性は大きな手で彼女の腕を掴むと歩き出した。彼女もまた男性の腕に自分の手を絡ませると、そのまま二人は並んで歩いて行った。その光景を眺めながら吾輩は胸の中に寂しさを感じた。
「ああ、あの二人、行ってしまうのである」
吾輩は二人の背中に向かって小さく呟いた。