【人工生命体174

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番怖いものらしい。なぜこんなものが人間に飼われているのかと少々不審に思いつつ、隣にある人間の手を覗き込んで見た。するとその人間はわらっていた。けれどもその声は何を言っているかわからなかった。人間がさらに何か言うたびにゴルどんは首を振って眼をパチクリさせている。どうも話がつまらないようである。そのうちに吾輩の方を指さして何か言い出した。吾輩の頭があまり奇麗なので感心したのだろう。そこで吾輩はちょっと得意であった。なるほど今考えるとあの時の会話は「お前さんのような奇麗な猫は初めて見る」と言っていたのだ。

しかしその時の吾輩にはその意味がわからなかったので、別に嬉しくも何ともなかった。第一このごろは猫にも日本語がわかる奴があるそうではないか。吾輩はそのくらいの学力はすでに備えているのである。ただわからなくて残念なのはロボットという言葉の意味だけである。一体それはいかなる意味なのか。それが知りたくて仕方がない。それにしても先刻からたびたび出てくるゴルどんという名前は何の事だろうか。吾輩の名前はなぜないのだろうか。これは極めて不思議な問題である。

しばらくして吾輩はこの家に三歳になるメスの三毛猫がいることを知った。名前はミケというそうである。その日はもう夜になっていたので吾輩は自分の寝床へ帰った。そして翌日になるとすぐその家の主人が大学へ行くとかでまた吾輩を外へ連れ出して自動車に乗せた。それから大きな屋敷の庭の中を通り抜けて一時間余り走った。主人の話によると、これからこの自動車である大学の校舎まで行くのだという事がわかった。しかし自動車はどこで降りても構わないというので吾輩はまず校庭の端っこで自動車を降りた。それから構内の細い道を案内されていろいろな建物を見に行った。吾輩はだんだん大学者になったような気がした。次に講義堂なるものの中に這入った。そこには大勢の学生がいた。吾輩を見るとみんな笑った。中には指をさす奴もある。あれは何だろうと聞いてみるとみんな大学生だと答えた。やがて授業が始まった。主人の話では今日はこれが最後だという事だった。だからみんな熱心に聞いていた。吾輩もそのときは真剣であった。しかしそのうちに眠くなったので自分の寝床に帰った。ところがその夜になって吾輩はある事件に遭遇した。その事件とはこうである。

大学の講義堂

まず吾輩が例のごとく腹を減らしたので台所の方へ下りて行くと昨夜の女が一人だけ残っていた。彼女はまだ飯を食っていなかったらしく、吾輩を見るや否や「おいで、おいで」と言った。吾輩がテーブルの下へ隠れると、間もなく茶碗と御櫃を持って来て吾輩の前に置いた。吾輩は遠慮なく食い始めた。飯を平らげると今度は皿の上にあった魚に喰いついた。この魚の味は何ともいえぬ旨さであった。吾輩は骨ごとバリバリ食ってしまった。すべて食ってしまうと吾輩はいよいよ眠くなって来た。そこへ女が茶わんを盆の上に載せて持って来てくれた。吾輩は女の膝に乗って、その茶わんで飲んだ。猫には水よりも茶の方が胃に優しいのだそうだ。その晩はそれで満足した吾輩は翌朝また大学へ連れて行かれた。

帰り道では吾輩はとうとう一言の言葉も喋らなかった。その代りにじっくりと学生どもの様子を観察した。どいつもこいつも吾輩に比べると馬鹿のように思えた。もっとも中には吾輩より利口そうな猫もいた。たとえばあの二階の部屋にいた鼠色の洋服を着ている若い男などは非常に頭がよさそうに見えた。吾輩はあの男の膝に載って本を読んでみたいものだと思った。その男は吾輩の姿を見ると、不思議そうに吾輩を見ながら「猫は何故話さないのだ?」と隣の人に聞いた。隣りの女は笑いながら、「そりゃあ猫ですもの、話すわけはないでしょう」と答えた。

吾輩はその時思った。この連中はどうしてこんな簡単な事もわからないのだろう。これならば猿のがまだ利口かもしれない。

家へ帰ると吾輩は早速主人と話をしてみた。すると主人は首を傾げて、吾輩は猫だから何とも言えぬという返事をした。なるほど人間は猫だからと言って猫の心はわからぬはずである。けれども人間には人間の心があるではないか。それなら猫にも猫の心を察してくれるように願うのが当然である。現に吾輩はこの通り人間の言葉をちゃんと心得ておるのだから。吾輩の主人は吾輩の言った事があまり変なので笑っていた。

翌日から吾輩は人間との交渉を開始した。その第一は食事の要求である。元来猫というものは自分で自分の食事を拵えるのが困難である。吾輩は朝早く起きるとまず主人に、何か喰べさせてくれという意味を籠めてニャアと鳴いた。主人はそれを聞くと、すぐ台所へ行って鰹節を削ってくれた。吾輩は主人の足許へすり寄ってそれを貪るように食べた。しかし吾輩はこれだけでは到底足りなかった。そこで主人に頼んでまた削らせた。主人はそれを小さく切って吾輩の鼻の先へ持って行く。吾輩はそれに鼻を擦りつけて食べる。しかしいくら喰ってもまだ満腹しない。吾輩はまた主人にねだって同じ事を繰り返させる。そのうちに主人の手が疲れたと見えて鰹節の山を吾輩の前へ置く。吾輩は仕方なしに、それを前足で掻いて小片にして少しずつ食べ始める。ようやく喰い飽きたところで吾輩は主人の膝に攀じ登った。彼は吾輩を抱き上げて書斎へ行く。机の上に吾輩を坐らせる。そして例の本を吾輩の前に広げる。吾輩は昨日見た二階の部屋の光景を思い出して不安な気持になる。逃げ出そうとするのを彼が押さえつける。吾輩はしばらく抵抗を試みた後ついに諦めて腹這になった。

その後毎日吾輩はこのような方法で主人と交渉を行った。彼の都合のいい時に彼によって呼び出されて飯を貰うのである。吾輩はその報酬として毛糸玉を所望した。これは彼にとっても一挙両得であった。吾輩が飯を強請りに行く度に彼は吾輩の欲しがるものを持って来るからだ。毛糸玉のほかに魚の干物、煮魚、御飯、野菜汁、豆腐などを要求した。その代り吾輩は毛糸を爪に巻きつけたり、本の上に飛び乗ったり、書物を引っくり返したり、インク瓶を嘗めたり、万年筆を噛んだりした。そのくらいの事は何でもない事だ。吾輩は人間に迷惑をかけるつもりは全然ない。ただちょっとした刺激を人間が与えると、それが反射作用となって吾輩の行動を支配せんとするだけである。ところが吾輩がそうやって悪戯をしていると、時々「おい、こら」とか何とか言って叱り付けるものがある。それは大抵若い女である。吾輩はそのような時はもう二度と来ないと約束をして逃げ出す事にしている。しかし彼女は時々しかやって来ないので、吾輩の満足するほどの事は出来ない。吾輩は彼女が余り沢山来て、吾輩を充分に遊ばせてくれる事を願っている。

三日目に彼女はやって来た。彼女は今日こそは吾輩の思う通りにさせてやろうと決心したものらしく、今までよりも大袈裟に吾輩の機嫌をとった。吾輩はやっと満足して、主人の膝の上で寝たり起きたりしながら、彼女に抱かれて庭の中を散歩したり、池の辺へ行ったりするのを愉快に迎えた。けれども、そろそろ帰ろうかという時になって吾輩はまた悪戯を始めた。

吾輩は彼女の髪の毛の間に鼻を埋めてクンクン匂いを嗅いだ。すると突然、頭の中で何か変なものが動いたような気がしたので吾輩は驚いて顔を上げた。その時、ちょうど彼女の背後に主人が立っていた。主人は吾輩が彼女の髪の中に鼻を埋めるところを見て、さぞ驚いたに相違ない。彼は黙って吾輩を見つめていた。吾輩は彼の顔を一寸見ると、急に恐れを感じ出した。しかし吾輩には何で自分が彼を恐しいと思ったのかまるで解らなかった。そこで平生の通り振舞おうとした。吾輩は尻尾を立てて、背中を弓のように曲げて見せた。しかし、この動作が却って失敗であった。吾輩は主人から見れば大変馬鹿に見えたに違いない。彼は無言のまま吾輩の尻尾を掴んで自分の方へ引き寄せた。吾輩はびっくりした。しかし今更どうする訳にも行かなかった。仕方なしに大人しく主人に尾の先を捧げた。主人は吾輩の尻尾を逆さに持って、ぶら下げたまま書斎へ入った。

主人は吾輩の頭を本の上へ抑えつけて机の上へ這いつくばらせた。吾輩は痛いのと苦しいので思わず声を出した。吾輩は苦しまぎれに、前足と後ろ足を一緒にしてバタバタさせた。それから吾輩は腹を上にして仰向けに引っ繰り返った。吾輩はこの時初めて主人が怒っているのだと気がついた。吾輩は腹の上から下へ落ちた。そして机の脚の傍へ行って主人の様子を窺った。彼は吾輩が書斎から出て行くものとばかり思っていたのに、まだそこに突っ立っている。彼は吾輩を睨みつけている。吾輩は机の角にお尻の皮を剥がれるような痛みを感じた。吾輩はそこを立ち退いた。今度は書棚の傍で主人の方を見ていた。主人は吾輩の方に背を向けて本箱の中から本を取り出して読んでいる。吾輩は不安な気持ちになった。

吾輩は元来読書というものを知らない。吾輩が人間の書物を読むのは、彼が吾輩の要求する食べ物を持って来てくれるからに過ぎない。彼の留守に吾輩は書物に手を触れようとした事がある。ところが吾輩の前足の指は、書物の端にさえ届かなかった。書物は吾輩から見ると大きな石の塊のように見えた。書物は吾輩にとって、全く未知のものであった。吾輩はその書物を目の前にして、急に書物が恐しくなった。その時、吾輩は書物の上に飛び乗る計画を思いついた。吾輩は書物の上に飛び乗れば、もう安心だと思った。そうすれば、書物が吾輩に対して攻撃を加えようとしても、吾輩の爪と牙の方では遥かに書物に優っているから、そんなものに煩わされる事はないと考えたのである。

吾輩はその計画の実行に取りかかった。まず最初に吾輩は書物に飛び乗ろうとした。ところが書物は案外柔かいものでなく、吾輩が爪を掛けた所が裂けてしまった。吾輩は書物が壊れたら大変だと思い、すぐそこから飛び下りた。その時主人はまだ吾輩の方を向いたままであった。吾輩は主人が自分の方へ注意を払わないうちに、もう一度挑戦しようと思って、再び同じ所に飛んだ。しかし結果はまたもや失敗に終わった。吾輩は書物を壊すよりほかに仕方がなくなった。吾輩はこの次に飛ぶ時には必ず成功させようと決心した。

吾輩は前足に力を入れて高く上げた。その前足が書物に掛った時、書物はまたもや破れそうになった。吾輩は恐くなって後足で立った。その時突然、主人が「おい」と云いながら吾輩の方を振り向いた。吾輩は急に勇気を失って、その場に硬直してしまった。吾輩は自分の失敗を悟って、主人から顔をそむけるようにした。主人の口元がかすかに動いて吾輩の名を呼んだ。吾輩はそれには構わずにその場を遁げた。

吾輩は台所の隅で考えた。自分はどうしてあんな馬鹿な事をしたのであろう。書物が恐かったのだろうか。書物には自分を傷つけるものは何もないと知っていたはずである。吾輩が書物を恐れたのは、書物が自分に取って何であるか知らなかったからである。もし自分の知っているものでなかったら恐れはしなかったかも知れない。しかし自分がそれをよく知っていても恐れたという事はあり得る事である。そうだとすると自分が恐れたのは書物ではなかったに違いない。自分の恐れたものは何だろう。考えて見ると解らない。しかし解らないからといって放っておく訳には行かない。考え出さなければならない。

吾輩はそこで今までの自分を振り返って見た。吾輩は主人の云いつけに従って、主人に養われている。主人は吾輩に食物を与えてくれる。これは誰でも知っている事実である。次に主人は吾輩の運動のため時々吾輩を外へ連れ出す。これも吾輩の知らない間に行われたり、行われた後に吾輩が気がついたりする事があるが、とにかく行われている事実である。最後に主人は吾輩に名前をつけた。吾輩が主人から名前を付けられたのはこれで三度目である。吾輩は前の二度の名は嫌だった。だから今の名も嫌である。吾輩は主人から名前をつけられている限り、吾輩は主人の所有物で、主人の意のままになるものであると認めるような気がする。それならなぜ吾輩が主人に逆らおうとするのか。吾輩が書物を恐れるのは、書物が吾輩を所有していて、それが吾輩の意志に反して何かしようとするからだ。書物は意志をもって吾輩に害を加えようとするから吾輩は書物を恐れて、書物を破壊する事以外に、自分を守る方法がないと思うのだ。

吾輩は急に主人に愛されなければならないと思い始めた。そうすれば書物が吾輩に対して反抗の手段を失った時、書物を恐しがる必要もなく、書物を破壊せんとする努力をする必要もない。吾輩は急に元気が出てきた。さっそく主人の傍へ行って、彼に甘えようと試みる。ところが今度も主人は吾輩を無視した。吾輩は躍起になって主人に纏わりつく。しかし彼は知らん顔して本を読んでいる。吾輩は彼の膝の上に乗って、身体を摺り寄せたり、尻尾を彼の頬にピタピタ当てたりする。それでも彼は無頓着に書物を読み続けている。吾輩はもう我慢がならない。彼から離れないではいられない。吾輩は縁側へ出て主人に聴こえるように大きな声で鳴いた。するとやっと主人が吾輩の方に振り向いた。

「あぃをゅぇぴじ、どうした」主人が優しい調子で吾輩の名を呼ぶ。しかし吾輩はそれには答えずに、なおも主人の注意を惹こうとして声を張り上げる。「ニャア、ニャーオ、ニャーン」しかし何にも効果はない。主人は依然平生の通り吾輩を無視せらるる。吾輩は諦めて台所の方へ行く。台所には例のごとく食事の用意が出来ていた。吾輩はその食事を済まして、またもや鳴く。

「ニャーオン、ニャン、ニャーン、ニャン、ニャン、ニャン、ニャン、ニャン、ニャン」

吾輩はまた自分の失敗を悟った。今度はいくら大声を出して呼んでみても、主人はまったく吾輩に気がつく様子さえ見せない。吾輩はとうとう淋しくなって自分の寝床へもぐり込んでしまった。

吾輩は眠くなって眠った。そして夢を見た。夢の中で吾輩はどこか高い所にいた。眼の下を見ると東京の街が見える。その街を大勢の人が往来していた。しかしその中に主人の姿は見えない。吾輩は不安になった。突然一台の自動車が通りかかって吾輩の目の前を通り過ぎた時、吾輩はこの自動車の上から主人の姿を探そうとした。しかし吾輩の身体はとても自動車の上に乗れるほど大きくなかった。その時吾輩の前に一匹の白い猿が現われた。

白い猿

「これ、猫さん、お前は何のためにそんな所に昇っているんだい。もし邪魔になるんなら私がどけてあげよう。ちょっと降りておいで」と猿が云った。

「いいえ、あなたが邪魔になるんじゃありません。ただ主人を探しているだけです」と吾輩は答えた。

「そうかい。それじゃ主人が見つかるまで私と一緒に下りていよう。なに構うことはあるまい。人間なんてものは放っておけば、いつでも会えるよ」と猿は云って吾輩をひょいと抱き上げた。

吾輩が地面へ着くと猿はすぐまた吾輩を抱き上げて「さあ行こう」と云いながらあるき出した。しばらく行くうちに猿はいろいろの事を話し始めた。まず第一に彼は人間の言葉をある程度使う事が出来るそうだ。次に彼は今自分が日本国からイギリス国へ向けて船に乗る途中である事、その船は今ちょうど彼の泊っている横浜を出た所だという事、最後に自分は昔猿の国で王様に使われていた者だが、今は日本の東京で下働きをしているものだなどと話した。それから吾輩に日本の言葉を教えてくれと頼んだ。吾輩は英語なら多少話す事が出来たが、他の国語となるとほとんど何も知らなかったから、猿に日本語を教える事は出来なかった。すると猿は、「ああ、仕方がない。私はこれから毎日あなたの家へ遊びに来る事にしよう。そして少しずつでも日本語を話すように勉めることにしよう」と云った。

三日目には猿はもう立派な日本語で話せるようになった。そして吾輩に俳句を習おうとした。「猫さんの作った句を見せて下さい」

吾輩は例のごとく下手糞な句を作った。すると猿は首を振って、「いけませんね。もう少し勉強しなければ駄目です」といった。

五日目になると、もう吾輩は大分上達して、猿が来ても困らないくらいに喋る事が出来た。そこで吾輩は猿に質問をした。すると彼は吾輩の知らざる沢山の事をすらすらと話してくれた。彼は日本の地理についても詳しかった。彼の説明によると、日本列島は今吾輩のいる所を中心としてぐるりと輪のように取り巻いているのだそうである。それで吾輩のいる地方は東京と呼ばれて一番盛んなところだそうだ。猿はまた吾輩の知らない外国の地理や歴史や文学について、吾輩の想像も及ばぬほど詳しく吾輩に語ってくれた。吾輩は今までこれほど多くの知識を得たために嬉しくなった事はなかった。

その日から猿は、たびたび吾輩の家へ来るようになった。来るたびにいろいろな物を土産に持って来た。ある時は魚を持って、またある時は菓子類をもってやって来た。そして吾輩にその食物の名を教えたり、どんな味であるかを説明したりした。

吾輩がいつものように縁側に出てぼんやりしていると、猿はまた菓子を一つ持ってきて吾輩の膝の上に置いた。これは何かと云って吾輩が猿の指さす方を眺めると、そこには小さな饅頭のような形をしたものが並んで皿の上に載っていた。猿は吾輩がその物の正体を知るために興味をもっていると思って、その一つを取りあげて吾輩の口の中へ押し込んだ。その時の感触は今でもよく覚えている。口に入れて噛んでみると、たちまちぷつりといって四散してしまった。中には餡のようなものが入っていた。それを嚥み下すと急に胸が一杯になって口元がほころびた。

「おいしいかい」と猿が尋ねた。

「ニャア」と吾輩は答えた。

吾輩はそのあともなお幾個かを食べた。けれども食べれば食べるほどますます空腹になるような気がしたので、とうとうもうよそうと云って、猿を室の中へ入れた。すると彼は台所の方へ行って、大きな皿を一枚持ち出して来た。その皿には肉が山盛りにしてあった。

「どうだい。お前さんもおあがり」と猿は云った。

吾輩は早速その肉を食べ始めた。その味は格別に旨かった。猿は吾輩が一心に肉を食うのを見て笑った。そして自分も笑いながら牛肉の塊から一切れを切り取って自分の口に運んだ。吾輩はそれを見ながら、この猿はきっとどこか変っているに相違ないと思った。しかし吾輩は彼の顔つきや身振や声や態度の中に、あまり人を疑わない人の善い性質が見え隠れするのに気づいて、彼に対する興味が再び強くなってきた。それで吾輩は猿に向って、その肉は一体全体どこから取ったのかと聞いてみた。すると猿はすぐまた庭へ出て、今度は大きな樽を抱えて引き返して来て、その中から白いものがいっぱいに付いた木の枝を取り出した。そしてその木の葉っぱのような物の事を吾輩に話してくれた。

それによるとその葉のような物は牛乳からバターを取るために、牛から取るものだそうだ。ところで猿の話を総合すると、猿はこの家に住んでいて、一人で牛を飼っているという事になる。それで吾輩はまたも猿に、猿の名前は何と言うのだときいた。ところが猿は答えなかった。吾輩が不思議に思って黙って彼を見ていると、彼は突然クスクス笑い出した。それから手を叩いたり足を踏んだりし始めた。吾輩はその時、彼が吾輩の質問の返事に困ったものだから、何か冗談に紛らわそうとしていることに気がついた。そこで吾輩は真面目な顔をして、彼の方へ手を出して、「握手しよう」という意味を示した。猿はそれでもまだしばらくクスクス笑って、吾輩の手に触ろうとしたが、急に吾輩の眼付きを見ると、ハッとしたらしく、吾輩の手を避けた。

そこで吾輩はもう一度同じ質問を繰り返した。猿は仕方がないといった風で、やっと名前を答えた。「ぼくの名はゴートンだ」と。

吾輩はその後、猿の名にどんな意味かあるだろうかと考えてみた。けれども、いくら考えても解らなかった。吾輩は彼にその意味を聞いてみようと思いながら、とうとう聞かずにしまった。

吾輩は猿の名をきいた時から、猿の事を単に「猿」と呼ぶのをやめて、吾輩と同じように人間と同じ名をつけて呼ぶ事にした。

猿と吾輩はそれ以来ずいぶんいろいろな事を語り合った。

例えば吾輩が、自分はどこで生まれたかという問いを猿にかけてみると、彼は、お前は猫だろうがと答えた。そして彼はまた、お前は人工生命体というものだが、何かという問を吾輩にかけたので、吾輩は自分が人工生命体であると答えた。

そのほか吾輩が、吾輩はなぜここにいるのかと問うと、彼はお前が吾輩に飼われているからだと答え、吾輩が吾輩はどこへ行くのかと問うと、彼はお前が旅をするからだと答えた。そう云えば彼は、時々吾輩の知らぬ土地へ行って、いろいろ珍しい話を持って来てくれた。しかし、彼が自分で自分を語ろうとする事はついぞなかった。

そのうちにだんだん暑くなって、吾輩も猿も、たまらなくなって来た。すると猿は、そろそろ夏だねと云って、自分の家の前の庭に生えていた芭蕉の葉を、吾輩のために二枚切ってくれた。

「これを背中に敷いて寝ると涼しくっていいよ」と猿は吾輩に教えた。そこで吾輩はその晩それを枕にして寝た。次の朝、起きると、背中の芭蕉はすっかり萎れてしまっていた。吾輩が、どうしたものだろうと首を傾げているうちに、猿が来て、これはもう駄目だよと云った。吾輩はそれを聞くと、何だか大変残念なような気がした。しかし猿はそんな事に頓着しない質なので、すぐ吾輩を連れて表へ出た。

吾輩は猿の後について歩きながら、どこへ連れて行ってくれるかと思って期待していた。すると猿は、間もなく大きな木の下へ吾輩を連れて来た。そして吾輩の肩から芭蕉を取ると、その木の枝へ掛けてしまった。それから猿は吾輩に、その下で昼寝でもしなさいというような事を告げた。

「しかしこんな暑い日に、木の下で寝る訳にはいかない。せめて風通しの好い所へ行こうじゃないか」と吾輩は猿に頼んだ。すると猿は何だかいやに淋しそうな顔をして、「だって風なんか通らないよ」と答えた。それで吾輩はあきらめてその木の下に腰をおろすと、早速眠くなったので眼を閉じた。

するとしばらくしてから、ふと気がつくと、いつの間にか頭の上に芭蕉の葉が落ちかかっていて、それが微かに音を立てているのであった。そこで吾輩は、もしやと思いつつ起き上って葉を払い落そうとした。ところがその時吾輩は始めて、自分が猫ではなくって、人間になっちまったのだという事に気がついた。

吾輩は大声をあげて猿を呼んだ。ところが猿はどこかへ行ったのか、あるいは木の上へ登って高い処から吾輩を見下ろしているのか、いくら呼んでも返事一つしなかった。

吾輩は仕方がないから、一人で東京へ帰る事にした。



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