【人工生命体212

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番恐ろしい奴であったそうだ。このゴルどんというのがどういう形でどんな声をしていたかという事は、すでに忘れてしまった。

ただその丸い背中だけが眼前に浮ぶようである。吾輩を脊負って何処までも行くのだという気がする。……吾輩がこのくらいの記憶しかないということは、やはりその時分はまだ赤ん坊であったという証拠だろうか。

吾輩はこのゴルどんといつも一緒にいる。彼がどこに行こうと云うときは必ず後ろについて行く。彼と離れる時は夜中でも迷子になる事がある。彼は黙っている。しかし彼から離れることは死ぬことより辛いことである。

ある時吾輩が学校へ通う頃になったら彼を伴れて行ってくれるかと母に聞いたら母は急に悲しい顔をして、あのロボットはもう居ないのよと言った。その時は意味がよく解らなかった。けれども後になって考えて見ると母の言葉の意味がようやく吾輩にも呑み込めた。吾輩の母は既に死んでいたのである。

母は吾輩の学校へ行くのに自動車でも買おうかと言って父に相談をしたそうである。父はすぐ賛成してくれた。すると父がそれをある所へ持って行って改造を頼んだ。それが出来たので試しに運転をしてみたところが大失敗であった。坂を下る時に突然車が故障したのである。ブレーキがきかないのでそのまま暴走した。幸い家の前を通りかかった人が見つけてくれたので車は停ったが、父の方はそれっきり動けなくなった。運転手の人はひどく怒ったが金は充分払ったのでそれ以上何も言わなかった。それどころか御見舞まで呉れた。しかし父はもうそれから動く事が出来なかった。吾輩はその話を人伝で聞いているうちに何だか悲しくなってとうとう泣いてしまった。その時のゴルどんの姿がまるで自分の事のように思われたからである。彼はそんな吾輩の肩を抱いて優しく慰めてくれた。

その後吾輩はずっとゴルどんに養われている。彼は毎日吾輩のためにいろいろな仕事をする。庭の掃除をしたり、吾輩の好む食物を料理したり、吾輩の寝床を綺麗にしたりする。時には吾輩を連れて外出し散歩をする。また吾輩を風呂に入れる。吾輩の体を乾かすために火の前に立たせたまま二時間も三時間も待つことがある。時々は吾輩の運動のためと称して吾輩を野原や森林に連れて行き吾輩の好きな草木を見ることもある。吾輩は彼にそうやって連れ出されて嬉しいが、同時に吾輩の為に彼の自由が束縛されるのを気の毒に思う。吾輩は彼の為になるべく自由にしてやりたいと思う。しかし吾輩にはどこへも行ける所がない。彼が出かけるときに吾輩が家にいると彼は吾輩に対してすまないような顔つきをする。吾輩は早く一人前の男になりたいと思っている。

吾輩はゴルどんに連れられてよく外国へ行く。吾輩が旅行をしている間に彼は吾輩の身辺に何か異変が起こっていないかどうか絶えず注意している。吾輩はそんな事をする必要はないと彼に言うのだが、彼はいっこうに聞かない。彼は吾輩が一匹で外国へ行っている間は、どんな事があっても無事に帰って来なければならないと固く信じている。吾輩は彼からそう云われるたびに自分がまだ一匹の猫として独立していない証拠だと考えて恥ずかしくなる。

ある冬の日吾輩はゴルどんと一緒に横浜のある港を散歩していた。そこは大きな船が沢山繋がれていて、その船と船の間が広い陸橋で結んである。吾輩達はその陸橋の上を歩いていた。その内に吾輩は下の方に大きな黒いものがうごめいているのを発見した。それは人間の群であった。その群はゴルどんを見て急にどよめき始めた。彼等は吾輩が今まで見た人間の中で最も大きく見えた。

ゴルどんは吾輩を下におろすと自分は吾輩の傍を離れず、じっと立っていて、眼を大きく開いて、身動き一つしなかった。吾輩がゴルどんの方を向くと彼は真面目な顔をして「黙っていろ」と云った。ゴルどんがいくら偉くても人間は大勢いるから、吾輩がもし万一のことがあったらどうなるだろう。吾輩はその時の彼の気持を考えると非常に悲しい。彼はしばらくするとやっと安心したように笑ったが、その時の彼の表情は忘れる事ができない。

それから数日の後、ゴルどんが留守の時の事である。吾輩は一匹で近所を散歩した。するとその時吾輩は突然一人の男から呼び止められた。見るとそれはあの時ゴルどんを見おろしていた背の高い人間の一人であった。吾輩は不思議に思って彼の後に付いて行った。すると彼は吾輩をある大きな建物へ連れ込んだ。吾輩が中へ這入ると、そこに大勢の人間が吾輩を待ちかまえていた。彼らは吾輩を見ると、皆一度に吾輩に飛びかかって来た。吾輩は突然の事なのでどうしていいか解らなかった。すると突然吾輩は背中を強く蹴飛ばされた。吾輩は地面に倒れてしまった。吾輩は起き上ろうと思って手足を動かしたが駄目であった。その時吾輩は誰かが自分の身体の上に乗っているのを感じた。それはあのとき吾輩を建物に引っ張りこんだ背の高い男であった。吾輩はこの時始めて自分が罠にかけられたという事に気が着いた。しかしもう遅かった。吾輩は間もなく彼らの手でどこかへ運ばれて、冷たい水のいっぱい入った袋の中に入れられ、吾輩の好む食物とはまるで違う食物を与えられた。吾輩はその後長い間水の中に入れられたり出されたりした。吾輩は死ぬか生きるかという瀬戸際まで追いやられたのである。吾輩はゴルどんに会わなければ間違いなく死んでしまった事であろう。吾輩は今でも時々あのときの事を思い出してぞっとすることがある。

しかし吾輩はその後何とかしてゴルどんの家に帰ることができた。吾輩が帰ると彼は大喜びで吾輩を膝にのせて、何度も頭を撫でてくれた。吾輩は彼にこんなに愛されていると思うと嬉しくて嬉しくて涙が出るくらいである。吾輩は彼が吾輩の身の安全に心を配ってくれるのと同じように、彼に幸福を与えなければならないと考える。だから吾輩はいつも彼に対して恩返しをしているつもりである。吾輩が彼に愛情を注ぐのはそのせいかも知れない。

吾輩は今こうして毎日のように彼と一緒に遊んでいるが、もし彼に不幸があった時には、吾輩も恐らく彼と共に死にたいと思う。その前に吾輩はどうしても彼に云わなければならない事がある。それは吾輩の名前の意味である。その名前の示す通り吾輩は彼にとって絶対に欠くべからざる存在でなければならないのである。それが証拠には吾輩が彼を見ていると、必ずその近くには吾輩がいるではないか。そうだろう? 吾輩が彼の傍にいさえすれば吾輩は決して彼の傍を離れないのだから、どんな危険からも彼を護ることができる。吾輩は彼が病気になったときでも決して傍を離れず、夜通し看病をする覚悟がある。吾輩が彼の傍にいる限り、彼は決して孤独になることはないのである。

(終)



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