【人工生命体238

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番恐ろしい奴であったそうだ。

吾輩はそのゴルどんに連れられて来た淡灰色の部屋の中で二匹の人間に紹介された。彼等は何者だろう。今まで会った事もない不思議な人達である。まずその一匹目の男は背の高い痩せた人で、大きな眼鏡をかけて、まるで書物でも読むように吾輩を見詰めている。この人が吾輩の作者に違いない。顔色が冴えないようだ。どこか悪いのだろうか。それとも単にそういう容貌なのだろうか。よく解らない。次にもう一匹、これも背の高い痩身の男が吾輩の前に出て来て、しげしげと吾輩を見下ろしていたが、突然笑い出した。実に奇妙である。この人の眼玉や口元は非常に吊り上って、何だか猿に似ている。さすがの吾輩もこの人にはちょっと閉口してしまった。作者はまだニコニコしながら吾輩を見詰めている。一体どうしたらいいのだろう。すると隣りにいた背の低い方が吾輩の前に進み出て作者の方へ手を差し伸べたので、作者も吾輩を放してこの男の手に渡したのである。

「君かね」と彼は訊ねた。

「ええ」と作者は答えた。

「じゃこれを君の所へ持っていこう。ありがとう。失敬するよ」と彼は言って吾輩を手にしたまま元来た方へ立ち去った。

それからしばらくして吾輩の飼い主の友達の学者が来ると主人は彼に吾輩を見せた。そうして例のごとくいろいろ質問を始めた。しかし今度の学者の態度はあまり普通ではなかった。まず第一に吾輩を見て驚ろいた。それから第二に首を振りながら溜息をついた。最後に頭を抱えてしまった。吾輩の眼から見るとこの学者の態度は明らかに異常である。不思議だ。なぜこんな態度をとるのか全く訳が分らぬ。しばらく経つと学者はようやく気を取り直したらしくまた何か話し出した。ところがまだ気分がよくないとみえて話が途切れがちになる。とうとうしまいに「ああ、いかん。私、ちょっと用事があるからこれで帰る事にする。それではさよなら」と言って帰って行った。その時吾輩をじっと見て「元気を出して下さい。いい子だから、しっかりするんだよ」と言ったのを吾輩は決して忘れない。なぜかと言うとその言葉と一緒に白いハンケチで顔を拭ったからである。

吾輩の主人はその晩友人を連れて外へ食事をしに行った。吾輩は家へ置いて行かれた。仕方がないから吾輩は自分で食物を探すことにした。戸棚の中にあったパン屑を少々持ち出して食べたが、何だか物足りない。そこで吾輩は家中を歩き廻って、鰹節とか牛の角砂糖などを捜し出して食った。旨かった。しかしこれくらいなものではとても腹は満たされぬ。もっと沢山欲しいと思った。

吾輩は今度は庭に出た。ここには沢山の草がある。吾輩はその中から大根の葉を選んで食べ始めた。葉を噛むと口の中に青くさい味が広がる。吾輩はその味が好きである。吾輩は夢中になって葉の根もとまで噛み砕いて飲み込んだ。この時吾輩はふと我に帰った。吾輩は大変な事をした。この家の主人は吾輩が何でも残さず食べるようにといつも言うている。吾輩は怒られるかと思って、台所にいる吾輩の主人のところへ走って行って「ニャアン、ニャア、ニャン、ニャン、ニャーン」と鳴いた。しかし吾輩の心配したような事はなかった。吾輩のごちそうが一杯ある。吾輩は安心してその日を暮した。

翌日になると吾輩の友達の学者が来た。学者は大きな箱を持っている。その中にはいろいろな器械が入っている。その機械の中には吾輩の知らない面白い道具がたくさんある。例えば硝子の鉢の底に針金が張ってあって、それに糸を附けてその先に小さな火が燃えていて、その糸で釣ると、魚が釣りあがる。その魚を棒で突っつくと死んでしまう。それを大きな籠に入れる。次にその籠を大きな鍋に入れて水を入れる。蓋をしてその水を蒸すと、湯気がモウモウと出る。その蒸気で部屋が蒸し暑くなる。吾輩の友達の学者は時々この風呂場に入って魚を殺したり、湯を沸かしたりする。吾輩の友達の学者は毎日この家にやって来る。吾輩は彼に会って大変嬉しい。彼は吾輩といくらでも遊んでくれるからだ。吾輩は彼といろいろ遊んだ。彼が吾輩の背中に乗って高い所から飛び下りるのが一番愉快である。これは吾輩がまだ小さい時に吾輩の主人がよくやった遊びだ。

吾輩はその後ずっと平和な生活を続けた。吾輩の生活は単調である。しかし吾輩はそれでよいと思っている。吾輩は自分が猫型人工生命体であることを自覚している。猫とは元来こういうものだろうと考えている。だから猫としてはむしろ平凡である方がよろしい。

しかし吾輩も時には猫として不平を感じることがある。今から一年程前のことであるが、吾輩は主人とその友だちに連れられて、或る外国の町へ行った。その時吾輩は非常に珍しいものを見物した。それは何かと言うと、大きな人間である。彼等はたいてい黒い服を着て帽子をかぶっている。顔を見るとみんな髭を生やして、赤い唇をしている。まるで吸血鬼のような連中である。吾輩の見たのはその中の一人で、非常に背の高い人であったが、吾輩の目の前に立って吾輩を見おろした時は実におそろしかった。吾輩はあまりのおそろしさに全身の毛が総立になったくらいだ。その時吾輩は思った。もし吾輩がこの人の手に捉まえられたらどうなるだろうか。おそらくこの人は吾輩をつかまえてどこかへ持って行くに違いない。それからあの気味の悪い赤い口を吾輩の口に近付けて吾輩の血を吸うのではあるまいか。吾輩はそんなことを想像するともうたまらなくなった。早く帰りたくて帰りたくて仕方がなかった。吾輩はこの人に捕まる前に早く家へ帰ろうと思った。

ところが吾輩の主人はなかなか放してくれなかった。吾輩は家に帰ることが出来ないので不機嫌であった。不機嫌なので吾輩の食欲も減ってしまった。そして吾輩はとうとう病気になってしまった。吾輩は医者にかかって、薬を飲んでいる。吾輩は今はこの通り元気になったが、ついこの間までは身体が弱っていた。吾輩の主人はその事を知っている。それで吾輩の好物を持ってくると、すぐ吾輩を膝の上に抱いて吾輩を撫ぜてくれる。吾輩は主人の掌に自分の頭を擦りつける。吾輩は主人の掌が好きである。吾輩は主人の掌の温味を感ずると、自分がこの世に生きていることの喜びを感ずる。

吾輩は時々思う事がある。それは主人はなぜ自分を可愛がってくれるかということである。主人が自分以外の猫を飼っているかどうか、それは知らない。もし飼っていなければ、何故吾輩だけ可愛がってくれるのか。それは吾輩にはよく解らない。吾輩は猫型人工生命体であって、主人の飼い猫ではないからである。吾輩は自分の事を猫型人工生命体であると心得ている。吾輩は普通の猫より偉い。だから吾輩は主人が自分の事だけを考えて吾輩を大事にしてくれることが嬉しい。吾輩は吾輩自身よりももっと貴く、もっとえらい。その証拠に吾輩はロボットという者とも友達になっている。吾輩は猫型人工生命体である。吾輩は世界一強い男になりたい。

吾輩は先日主人の留守中にこの手紙を書いている。主人は仕事の関係で遠くへ行くと、吾輩を友人の家に預けて行く。吾輩はこの家の屋根裏部屋に住まわせて貰っている。吾輩はここに来ると大変楽しい。しかし淋しくもある。人間というものは不思議だなと思うことがある。人間が皆いい人ならば人間は世の中から争いというものをなくしてしまうだろうにと思う。人間の心の中に悪いものがあるので、そのために人は争うのだと吾輩は考えている。

吾輩は時々ゴルどんというロボットに会いに行く。ゴルどんに会うと吾輩は必ず鼻の頭やおなかをツンツンされる。ゴルどんというのは吾輩の親友である。ゴルどんはいつも口元をギュッと結んで目を細めている。まるで怒っているように見えるが、これはゴルどん独特の挨拶の仕方である。ゴルどんは吾輩の友達の中で一番力が強い。ゴルどんの鼻の頭やおなかを吾輩がツンツンすると、ゴルどんはワフゥと言って逃げる。ゴルどんは逃げる時にお尻をフリフリする。尻尾をピーンと立ててお尻をフリフリしながら逃げてゆく。ゴルどんは吾輩に取っては大切な友だちである。もし吾輩が主人に叱られた時は吾輩はゴルどんに頼んで吾輩の気持を主人に告げて貰うことにしている。また吾輩が何かして失敗をした場合もゴルどんに頼んで吾輩の罪の許しを乞うてもらうことにしている。吾輩はゴルどんにとても頼りにされている。吾輩はそう思って大いに満足している。

ある日のこと吾輩が窓の傍で日向ぼっこをしていると突然大きな地震が来た。家全体がグラグラッと揺れた。その振動で吾輩の体中の毛が一度に逆立った。その時吾輩の耳の奥でピキーンという音がした。これはゴルどんの鼻の頭の音とよく似ている。吾輩は慌てて主人のいる二階へ駆け上った。吾輩は主人の机の上に跳び乗ると主人の帰りを待った。吾輩はこの時ほど主人が早く帰って来て欲しいと思ったことはなかった。

主人は吾輩の姿を見るとすぐに吾輩を抱き上げて吾輩の身体を隅々まで調べ始めた。主人は吾輩の身体に怪我一つないことを確かめると、やっと安心した様子であった。主人は吾輩を机の上に降ろして吾輩の好きな鰹節を削って呉れた。主人は吾輩に何も言わなかったが主人の顔には「心配したぞ」という意味の文字が見えていた。吾輩は主人の心遣いに感謝した。吾輩は主人の削ってくれる鰹節の匂いが好きである。この世の中には鰹節のように美味しいものが沢山ある。その中でも吾輩が一番好きなものはチョコレートというお菓子である。このチョコはどんなに堅いものでも溶かしてしまうという魔法の食べ物である。吾輩は主人の削りたての鰹節をペロリと平らげると主人が食べ残したチョコを少しずつ食べる。吾輩はチョコレートを食べながらこんなに幸せなことはないと思う。

ところで吾輩は先程から『主人』という言葉を使っている。吾輩の主人は主人であって、主人以外の主人ではない。主人というものは不思議なものだ。主人は吾輩を膝の上に乗せて撫でたり抱いたりしてくれるが吾輩には何も命令しない。吾輩は主人の命令に従っていろいろなことをするが、主人は決して吾輩に命令は下さない。吾輩の主人は吾輩より強い人間だが、彼は吾輩よりも弱い人間である。吾輩は主人が好きだから主人のためにいろいろと働くが、もし主人が吾輩のことを嫌っているならば吾輩は彼の前に姿を見せることさえないであろう。吾輩は今まで主人が吾輩に対して不平や不満のある様を見たことがない。しかし吾輩は時々不安になることがある。それは吾輩がまだ生まれて間もない子猫の頃、吾輩が誤って高い所から落ちたことがあった。その時主人はすぐ吾輩を助けてくれたが、その時の主人は怒ったような顔をしていた。主人は優しい人である。吾輩は今でも時々そのことを思い出して主人の気持を考えることがある。

吾輩はまだ幼い時に主人の家に来たのだが、吾輩は自分の名前があまり好きではなかった。何故なら吾輩の名前が『あぃをゅぇぴじ』というふうに聞こえるからである。吾輩の本当の名前は『ニャム』というのであるが、『あぃをゅぇぴじ』の方が長くて覚え易いということで主人が吾輩を『あぃをゅぇぴじ』と呼ぶようになった。吾輩は今ではこの名前に慣れたが、時々自分の名前を忘れそうになる。

吾輩はいつもゴルどんというロボットと一緒に遊んでいる。ゴルどんは吾輩と違って尻尾のない変な形をしたロボットである。このゴルどんは吾輩が赤ん坊の時から吾輩と一緒である。ゴルどんは吾輩が幼稚園の時に買って貰った小さな絵本に出てくる悪い怪物にそっくりである。ゴルどんは吾輩と遊ぶとき吾輩の尻尾を掴むので吾輩は困ってしまう。吾輩の尻尾は吾輩の大切な身体の一部なので触られると吾輩は身体が痛くてたまらない。

吾輩が小学校へ上がる前のことである。吾輩は朝起きると必ず自分の顔を見て「ニャム」と言う。これは吾輩が毎晩寝るときにする日課である。ところがこの「ニャム」という言葉は吾輩の口癖になってしまった。吾輩の主人は吾輩のこの言葉を聞くと吾輩を叱る。吾輩は「ニャム」という言葉を何とかしなければいけないと思っているがなかなか直らない。吾輩はこの頃主人のことを「お父ちゃん」と呼んでいる。この呼び方は吾輩の口ぐせを直すために考えた方法である。この「お父ちゃん」という言葉にはいろいろな意味が含まれている。例えば「オハヨウ」とか「アリガトウ」とか「コンニチハ」という意味がある。

吾輩は時々人間の子供たちに追いかけられて捕まることがある。吾輩は子供たちの投げるボールや玩具が嫌いである。吾輩は子供のことが大好きだ。子供を見ると吾輩も遊びたくてたまらなくなる。しかしこの遊び方は少し乱暴過ぎる。吾輩が逃げても子供は絶対に吾輩を捕まえようとする。だから吾輩はいつも子供たちに捕まってしまう。子供たちは吾輩を抱きしめて頬ずりをする。しかしそれが嫌である。何故ならば吾輩の髭や耳をつまんで引っ張ったりするからだ。子供たちはみんな同じようなことをする。吾輩はそういうことをされると悲しくなって咽喉の奥から変な声が出る。そうすると子供たちは吾輩を放してどこかへ行く。

吾輩が中学生になった時のことだ。吾輩は学校から帰って来ると友達と相撲をとる。しかし相撲をとったことがない人はよく分からないと思うので説明しておく。吾輩は背中の上に丸い板のようなものを載せて、その板の上に乗って土俵の上を走る。走るときは両手を地面につける。そして相手と組み合うと吾輩たちはグルリと回転して向き合った姿勢になって押し合いを始める。その時はお互いに力を入れているから、相手の方に向かってゆくのである。このとき吾輩たちの足の裏は地面から離れてしまう。だから吾輩たちが力を入れると足の先がジタバタする。これを上手に押し戻すことが出来れば吾輩の勝利である。負けると吾輩は相手のまわしを取りにゆく。この時だけはお互いに力を出しても決して取れない。なぜならまわしは相手の腰に付いているからである。もし取り損ねて相手に抱きつかれると、とても苦しいので、すぐに降参してしまう。吾輩が負けた時は吾輩が勝った者より強くないからである。

吾輩が中学二年生だった頃、吾輩はいつも夕方になると近所の野良猫たちと一緒になって、いつも同じ場所で遊ぶことにしていた。そこは小さな森みたいなところである。吾輩は毎日そこに行って、森の中を探検したり、他の猫たちと話をしたり、眠くなったり、疲れたりしたら昼寝をした。ある時吾輩は一人でいる時に、一人の子供に出会った。吾輩は最初この子供が誰なのか分からなかった。その子は黒い帽子を被って、紺色の服を着ていた。それから下駄を履いていた。その子は自分の事を『お嬢さん』と呼んでいた。この子は吾輩が猫だということが分かるととても喜んで吾輩を抱き上げて撫でてくれた。このお嬢さんの家では猫を飼っていないのだろうか。それとも飼っているけれども外へ出して散歩をさせているのだろうか。吾輩はこの子が気に入ったのでこの子について行った。お嬢さんは時々後ろを振り向いて吾輩に話しかけた。彼女は吾輩を『猫ちゃん』と呼んだ。『猫ちゃん』というのは彼女の友だちの名前らしい。この『猫ちゃん』というのは女の子である。『お嬢さん』のお母さんがこの子のことをこう呼ぶのを吾輩は聞いたことがある。

吾輩はお嬢さんの飼い猫になることにした。吾輩のご主人様の名前はお嬢さんのお母ちゃんがつけた。「あぃをゅぇぴじ」という名前なのだ。これは世界中で一番強い猫という意味だそうだ。「あぃをゅぇぴじ」というのはお嬢さんが考えた名前である。どうしてかというとお父ちゃんは名前がなくて、「おい」「お前」と呼ばれていたそうだ。

吾輩は『あぃをゅぇぴじ』になってからいろいろなものを食べさせて貰った。吾輩の好きなものはチョコレートである。それから果物だ。吾輩にはお気に入りの場所がある。それは台所の棚の上に置いてある箱の中である。そこにはたくさんの缶詰が入ってる。吾輩はその缶詰を全部食べたら、新しい缶を開けることを知っている。だから時々そこへ行って、空っぽの缶詰を持ってきては、また新しいものを開けてもらうのである。吾輩はそこでチョコレートも食べることが出来る。時々はアイスクリームやビスケットを食べることもある。吾輩がこの家に来たばかりの時、吾輩のご主人は吾輩の好物を知らなかったので、吾輩は大嫌いな魚ばかり食べさせられた。吾輩の嫌った魚の名は『鮭』という。吾輩は魚のことはよく知らないが、猫にも好きとか嫌いとかいうものがあるのだ。

吾輩は夜中に目を覚ますと、暗い部屋の中で電気スタンドをつける。すると机の上にある吾輩の写真がパッと明るくなる。吾輩は毎晩それを眺めてから眠る。写真は去年の十一月三日に、近所の友達の所で開かれた『第一回東京猫の集い』で撮ったものである。吾輩は写真を撮られるのが何だか恥ずかしかったので、わざと横を向いて写っている。だから左耳だけがピンと立っている。吾輩のご主人はこういう吾輩の姿を大変気に入っているので、吾輩を自慢するためにいつもその写真を玄関のドアに貼っておくのである。

吾輩のご主人は時々大きな声で独り言を言うことがある。そんな時は大抵本を読んでいるかテレビを見ているかして面白いことが書いてあると、声を出して笑うのである。この笑い方はとても気味が悪い。それに吾輩の名前を言ったりするので、吾輩はますますこの人が苦手である。吾輩は時々思うのだが、人間は誰でも自分が作ったものでなければ何でも好きなはずである。それなのに何故吾輩が人間のために、こんな思いをしなければならないのか、吾輩はよく分からない。

吾輩がこの家にやって来てからもう一年くらい経った。この間いろいろ楽しいことがあった。まず吾輩がお嬢さんと一緒に風呂に入った時のことを話そう。その時お嬢さんは吾輩が猫だということを忘れて、一緒にお湯に浸かろうとした。お嬢さんは「猫ちゃん」と呼びながら吾輩を洗い場に連れて行って、自分の背中を流させた。お嬢さんはその後、吾輩と一緒にお布団に入って眠ってしまった。

吾輩はお嬢さんの家に来てから一度も外へ出たことがない。お嬢さんが外へ出る時には吾輩は必ず留守番をするように命令されるからである。たまには外へ出してくれないかなあと思うこともある。しかし外の世界へ出てもあまり面白そうなところではなさそうである。それに吾輩にはどうしても会いたいお人がいる。

吾輩の家は代々この辺り一帯のボスとして君臨してきた由緒正しい家柄である。先祖は猫又と人間の合いの子だという言い伝えがある。しかし本当のところは吾輩もよく分からない。

ある日のこと吾輩がいつものように庭で日向ぼっこをしていると、一匹の鼠が目の前をチョロチョロ横切った。吾輩は早速その鼠を追いかけた。ところが鼠の足は驚くほど速かった。吾輩は必死になって追いかけたがとうとう捕えることが出来なかった。

吾輩が鼠を追っかけてるうちに、突然吾輩の前に一台の自動車が停まった。吾輩はびっくりして飛び上がった。車の中から一人の人間が降りて来た。どうやら吾輩の主人らしい。吾輩は慌ててその場を離れようとしたが遅かった。主人は吾輩をヒョイと掴んで抱き上げた。吾輩は抵抗したが敵わない。吾輩はそのまま主人の膝の上に乗せられてしまった。主人は吾輩に話し掛けた。「いやいや、可愛い奴じゃのう。お前は何という名前なんじゃ?」吾輩は答えた。「吾輩はあぃをゅぇぴじである。ご主人の名前も教えてくれ」主人は笑った。「わしの名前は大吉と言うのじゃ。よろしく頼むぞ、あぃをゅぇぴじ君」吾輩は腹を立てた。「吾輩をその名前で呼ぶのは止してくれ。吾輩は猫型人工生命体である。『あぃをゅぇぴじ』という名はご主人が付けたのである。吾輩のことを『あぃをゅぇぴじ』と呼ぶのはおかしいのである」「これは失礼。それではお前の本名を教えてくれんかの? あぃをゅぇぴじという名前はニックネームなんだろう?」「吾輩は名前がないのである。吾輩を作った人は吾輩に『あぃをゅぇぴじ』と名を付けたのである。しかし吾輩はこの名前が嫌いなので、自分で自分にあだ名をつけたのである。それが『あぃをゅぇぴじ』である。吾輩の本名は『あぃをゅぇぴじ』である。だから吾輩を呼ぶ時は『あぃをゅぇぴじ』と呼んで欲しいのである。分かったか、ご主人よ!」「おお、そうか。それならそうしよう。さて、それでは早速家へ帰るとするか。車に乗れ」「あい」こうして吾輩はご主人と一緒にお屋敷に帰ることになった。

お屋敷へ着くとお嬢さんが吾輩たちを出迎えてくれた。「あら、あなた、お帰りなさい」ご主人はお嬢さんに向かって「お土産を買って来たぞ」と言った。「まぁ、嬉しいわ。ところで、こちらの方はどなたかしら?」お嬢さんは吾輩を指差した。吾輩は自己紹介をした。お嬢さんは目を丸くした。吾輩はご主人の膝から飛び降りるとお嬢さんの足元へ駆け寄って行った。お嬢さんが吾輩を抱き上げようとしたその時、「おい、あぃをゅぇぴじ。そんなに急いで走らんでもええじゃないか。こっちへ来い」と、お呼びがかかった。見ると、ご主人がお座敷の入口に立って手招きしている。吾輩は仕方なくお嬢さんの腕から抜け出すと、トコトコとご主人のところまで歩いていった。「ほら、これをお前にやるぞ。猫用ミルクだ。よく飲むんだぞ」と言って、ご主人は猫缶のお皿を手渡してくれた。吾輩は早速中身を食べ始めた。その様子を見て、ご主人と奥様は嬉しそうな顔をした。その後、吾輩は沢山の玩具で遊んでもらった。

吾輩は一日の大半をこの家で過ごしていた。たまに外に出掛けてもほんの二、三十分で帰ってきた。吾輩は毎日幸せだった。そして二年が過ぎた。吾輩がこの家にやって来てからちょうど半年が経ったある朝のことである。いつものように目が覚めた吾輩はいつものようにベッドから降りると、いつものように居間へ向かった。ところがその日に限って吾輩の様子がおかしかった。体が重いのだ。おまけに頭が痛い。吾輩はフラフラしながら何とか立ち上がった。そこへ奥様がやって来た。「あら、どうしたのかしら。元気がないようね。風邪を引いたんじゃないかしら」吾輩は喉の辺りをゴロゴロ鳴らしながら返事をした。「うにゃあ」どうやら吾輩の声が変なようだ。吾輩は不安になった。しかし、今は体を休めることが先決だ。吾輩は寝室へ戻ると横になって眠りについた。

それから数日後のこと、吾輩はようやく体調を取り戻した。食欲も戻って、もう大丈夫である。ところが、どういうわけか吾輩の背中には白い羽が生えていた。それに気が付いた吾輩は驚いて声を上げた。「ウニャアァーッ!」しかし、それは吾輩の鳴き声ではなかった。どこからか、別の動物の叫び声が聞こえてきた。それは吾輩の発した音とそっくりであった。何ということだ! 吾輩は自分が鳥になってしまったことに気が付いてしまった。吾輩は再び驚いた。今度は大声で叫んだ。するとまたしても同じ叫び声が響いた。何という事だろう。この家にいる他の動物たちも吾輩と同じように人間の姿から獣の姿へと変貌を遂げてしまったのだ。この日から吾輩たちは人間の言葉を話すことが出来なくなってしまった。

一ヵ月後、吾輩の体はさらに変化して、体長が七十センチくらいになり、体重は二十キロ近くになっていた。首の回りにフサフサとした毛が生えて、全身真っ白だ。吾輩は立派なペンギンになっていた。これではまるで『走れメロス』ではないか。吾輩は大いに落胆した。この姿は吾輩の理想とする猫型人工生命体とはかけ離れている。こんな姿では誰も振り向いてくれないだろう。吾輩はすっかり自信を失ってしまった。そんなある日の昼下がりのことだった。一人の男が吾輩の住んでいるお屋敷を訪ねて来た。吾輩は急いで玄関へと向かった。男は吾輩を見るとニッコリ微笑みかけた。彼は吾輩を抱き上げると、吾輩の首筋を撫でた。吾輩は心地良さそうに喉を鳴らした。すると、突然男の顔つきが変わった。吾輩の顔をまじまじと見つめている。何かおかしいだろうか? 吾輩は不思議に思って男の顔を見上げた。

しばらく沈黙が続いた。男は吾輩をじっと見つめたままである。やがて、男の口元が動いた。何を言っているのだろう。耳を澄ませてみた。「こいつは、もしかすると、いや、間違いない。こいつはあの時の仔猫じゃないか?」吾輩はハッとして目を丸くした。まさか、どうして、何故、彼が吾輩のことを憶えているというのだろう。「こいつの目はまさしくあいつの目だ。俺が間違えるはずがない。俺は、ずっとお前を探していたんだぞ」吾輩は彼の目を見て嬉しくなった。彼の言葉が本当なら嬉しい限りだ。「ニャオン」吾輩は大きな声で鳴くと彼の胸に頭を擦り付けた。そして彼の手の中でゴロゴロと甘えた。吾輩は幸せな気分に浸っていた。

しかし、すぐに吾輩は我に返った。「待てよ。彼は一体誰なんだ」吾輩の胸に疑問が浮かび上がった。「この人は吾輩の知り合いなのか。それともこの家の主の知り合いなのだろうか。吾輩の飼い主の知り合いではないのか」吾輩は考え込んでしまった。すると、その時、彼の方から話しかけてきた。「おい、猫。名前を教えろ」吾輩は首を傾げた。「ニャーン」吾輩は答えた。「違う、本当の名前を言え」どうやら吾輩の名前を訊いているようだ。吾輩はすぐに返事をした。「ニャー」「ニャーじゃない、本名を言え」困ってしまった。「ニャン」吾輩は返事をした。「何だ、それ」吾輩は必死になって考えた。「ニャ、ニャーオ、ミャア、ミギャア、グニャア、ゴナァー、フウゥーッ、ウニャッ!」やっと思いついた。吾輩は前足を上げて自己紹介を始めた。「吾輩は猫型人工生命体です。『あぃをゅぇぴじ』と申します。どうかよろしくお願いします」吾輩が人間の言葉を話すと彼は驚いて目を丸くした。

「ニャアン!」吾輩は再び鳴き声を上げた。すると彼の顔が綻んで、吾輩の頭を優しく撫でてくれた。吾輩は満足して彼の腕の中に抱かれたまま眠りについた。目が覚めると吾輩は再び人間の体に戻っていた。目の前には先ほどの男の人が立っていた。吾輩は彼に向かって「こんにちは」と挨拶をしてみた。彼はニッコリと笑って「ようこそ」と言ってくれた。

その後、男の人に連れられて、家の中にある書斎へと案内された。壁一面に書物が並んでいて大きな机の上もたくさんの書籍で埋め尽くされていた。その部屋の奥にある椅子に腰掛けた男に促されて吾輩は床の上に正座した。男は自分の膝をポンポンと叩いて合図した。吾輩は男の意図を理解して、彼の上に座り込んだ。吾輩の背中をゆっくりと撫でながら、男は吾輩の耳元で囁いた。「さっきは、よく喋れたね。驚いたよ。君はすごい子だ。天才だよ。これからは僕の弟子にしてあげよう。僕の言うことを聞いてしっかりと勉強するんだよ。分かったかい?……いい子だ、よしよし」男の話を聞きながら、吾輩は心地良さそうに喉を鳴らした。すると、男は吾輩の尻尾を持ち上げて、お尻を撫で始めた。「可愛いおケツだねえ。どれ、触ってみようか」男は尻尾の付け根辺りに指を押し付けてグリグリと回した。途端に、吾輩は「ウッニャッ」と声を上げてしまった。「ニャハハッ! こいつぁ、愉快だ」吾輩の反応を見た男が嬉しそうな笑い声をあげた。「そうだ、今日はご馳走をあげよう」吾輩は飛び上がって喜んだ。「やったあ。美味しいものが食べられるぞ」吾輩は大喜びで台所へと向かった。

「ニャオーン、ニャーオ、ニャーオ、ニャーオー」吾輩は嬉しさのあまり大きな声で鳴き続けた。「何だい、随分と上機嫌じゃないか」男が背後から声をかけてきた。「はい。今日はとても楽しい日になりました」吾輩は振り返りざまに答えた。「ところで、あなた様のお名前は何とおっしゃるのですか?」吾輩が尋ねると、男は何とも不思議なことを言った。「僕は神だ」吾輩はそれを聞くと目を輝かせた。「おお、なんという素晴らしい名前でしょう。吾輩などとは比べ物にならない程の存在ではありませんか。さすが神様です」吾輩は感心しながら大きく何度もうなずいた。

「そうだ、お前の名前は『あぃをゅぇぴじ』だったな。それでは『愛猫』というのはどうだろう」突然の提案を受けて、吾輩はびっくりした。「『あいねこ』と申しますか。それはまた変わった名付け方をされましたな。でも吾輩は気に入ったので、その名前で生きていく覚悟を決めました」すると、神様はこう言ってくださった。「お前の名前が決まった記念として、『吾輩は猫である』という題名の小説を進呈しよう」そういうと神様は吾輩の目の前に本を一冊置いてくださった。「これは何と読むのでしょうか?」吾輩が質問すると、神様は笑みを浮かべて答えてくださった。「これは『吾輩は猫である』だ」それを耳にした吾輩の口から思わず「ニャーオ」と言葉がこぼれ出た。すると、それに反応してか、吾輩の手が勝手に動き出して、その本を捲り出した。そして吾輩はその頁の中に自分の名前が記された一文を発見した。

吾輩は猫型人工生命体である。名前は『あぃをゅぇぴじ』という。この名前は『世界中で最強の猫』という意味だ。吾輩はこの名に恥じぬ立派な雄猫になることを目標として生きている。男の中の男だ。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番恐ろしい奴であったそうだ。このゴルどんというのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何と言う考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついてゴルどんの顔を見たのがいわゆるロボットというものの見始であろう。そして今日もゴルどんと遊ぶのだ。

(了)



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