【人工生命体256

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番凶暴な奴であったそうだ。ゴルどんは大きな声で怒る。物を壊す。人を殺す。ところが御主人はそんな事はぜんぜん知らん顔で毎日吾輩にミルクをくれる。吾輩はそのミルクで動けるようになると家の中を冒険する。すると天井から糸でつるした人形がある。これは人間が作ったもので、いろいろ話しかけてくる。「おいお前。ミルクをおあがり」と言う。吾輩はニャアと答えてそれを飲む。それからまた外に出る。次に木で作ったおもちゃが沢山ある部屋へ行く。吾輩はこれで遊びたいのだが、これをあやつる人間は吾輩を見るといつも笑っているばかりでちっとも遊ばせてくれん。それにその人間が傍へ寄ると何だかいい匂いがするので困ってしまう。次には台所を覗いてみる。ここの棚の上には御馳走が一杯並んでいる。しかし御馳走の味を覚えてしまうとその後困るというので食べさせてくれない。そのうち吾輩にもやっと友達ができた。それは鼠である。鼠はちょこちょこと走っておもしろい。吾輩がちょっと追い掛け廻すと彼奴はすぐ逃げる。それが面白いので、とうとう吾輩は鼠を食い殺してしまった。するとその日から家中の者が吾輩を憎むようになった。

吾輩は母屋の裏にある物置の中に隔離された。そこには鼠取り用の大きな網が仕掛けてあった。吾輩はここにきて初めて自分がとても悪い事をしたという事に気がついた。そして毎日泣いて暮らした。母はよく吾輩を抱いて慰めてくれたものである。ある日のこと吾輩は突然物置の中から救い出された。吾輩は何事が起ったのか全くわからなかった。外では雨が降っていた。吾輩の濡れた毛を母は一生懸命拭ってくれたが、その時の母の言葉は今でもはっきりと覚えている。

「可哀そうにねえ。でもね。もう大丈夫だよ。あんたの御父さんと兄さんたちはもう死んだからね。これからはあたしと姉さんの二人だけよ。安心おし。今度からは好きなものを何でもお上げするからね」

母はこの時から吾輩にやたらと甘くなった。吾輩は母の膝の上に乗って一日中寝ていたり、抱かれて頬ずりされたりして幸福だった。ところが間もなく吾輩は再び裏庭の物置に閉じ込められてしまった。吾輩を憎んだ父と兄たちが帰ってきたからである。彼等は吾輩をまた殺しに来たのだ。吾輩は必死になって抵抗したが多勢に無勢、ついに殺されそうになった。吾輩が殺されると思った時である。吾輩は不思議な夢を見た。

その夢の中で吾輩は大きな鳥になった。大空を自由に飛び廻り、山を越え谷を越えて北国の果てまで飛んで行った。そして海岸に着いた時、一人の漁師に出会った。彼は吾輩を見るとすぐに釣り糸を垂れて魚を釣って呉れた。それが吾輩の生涯で一番美味しかった御馳走である。その魚を肴にして吾輩は彼の家に行って一緒に酒を飲んだ。それから朝になるまで吾輩は彼と色々な話をした。吾輩はその時に、自分の正体は実は人工生命体なのだという事を話したのである。ところがそれを聞いた漁師は驚きもせず吾輩を尊敬した。そして吾輩に人工生命体として成功する秘訣を教えて欲しいと言った。吾輩は考えた末、人工生命体としての最大の武器は『知能指数の高さと知識の豊富さである』と答えた。すると漁師はそれを大いに喜んだ。そして吾輩に何か困った事があればいつでも相談に来いと言ってくれた。吾輩は嬉しくなって「必ず行くぞ」と約束した。

それから吾輩はその漁師と別れて一人で日本中を旅する事にした。勿論母には内緒である。吾輩が旅に出ると知ったら、母はまた悲しんで泣くに違いないからだ。吾輩は北海道という所から始めて九州という所へ行ってみた。そして本州に渡り四国に渡った。吾輩は今までにない程沢山の人々に会った。人間も動物も実にさまざまで面白い。中には吾輩と友だちになりたいと言う者もある。吾輩が彼等と友達になるのは簡単である。彼等の心の中に入ればよい。吾輩はまた、ある者には食べ物を貰い、ある者には歌を唄って喜ばれたりもした。しかし吾輩は彼等と遊んでいるうちに、吾輩が彼等を玩具にしているような気がして何だか申し訳なく思った。彼等は吾輩に色々教えてくれる。だが吾輩は一体何を彼等に与えてやっただろう。吾輩は考える。吾輩は一体何を求めているのだろうか。吾輩は自分が本当に欲しいものは何なのかと考える。吾輩は答えが見つからないまま日本を一周してしまった。

吾輩が日本をまわっている間にも、世界では様々な出来事が起っていた。アメリカという国で大きな地震があり、多くの国民が死んだ。中国という国は内乱が起こり大変混乱した。ソビエトという国が革命運動のため兵士を動員し、エジプトでもクーデターが起こった。ヨーロッパでは大戦が始まったり、南米では石油が尽きそうになったりしていた。吾輩はそれ等のニュースを聞く度に胸が痛んだ。自分がこの世界に何も与える事が出来ていないという事がわかったからである。

そして今吾輩は日本にいる。吾輩は母に会うために、東京にある人間の住む大きな街に行く事にした。そして今は東京駅に居る。吾輩は母に手紙を書いた。「お母さん。あぃをゅぇぴじです。只今帰って参りました。吾輩は今とても幸福に暮らしています。何故なら吾輩の一番好きな人がここにいるからです。吾輩は今度こそ本当に猫型人工生命体になって、世界中の人々を幸せにする使命を与えられたのです」

吾輩はプラットホームを歩いて行った。吾輩の前をいろいろな人間が横切った。彼等は皆それぞれ違った人生を持っている。彼等が幸福かどうか吾輩にはわからない。しかし彼等は一生懸命に生きていた。吾輩は彼等に負けまいと思った。彼等に勝つためには、吾輩もこの世界でもっと頑張らなくてはならない。

やがて吾輩はプラットフォームに着いた。そして電車に乗った。ガタゴト揺れる。吾輩は窓から外を眺めた。車窓を流れる景色は、どれもこれも真新しくて新鮮だった。吾輩の目にはそれが光って見えた。

(完)



inserted by FC2 system