【人工生命体260

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番義理堅い奴だったそうだ。吾輩は彼に連れられてあちこち旅をした。ある時は船に乗って海の上を渡り、またある時は陸を二股に分れてあるき、川の上下に流れたり、またある時は電車というものに乗ったりした。そのたびごとに新しい冒険があって実に面白かった。だがそのうちに吾輩は何だか背中がむず痒くなった。何故と云ってだんだん年をとって来たからである。目も霞んでよく見えなくなった。いくら新調の毛皮を着たところでごまかしきれない。そこで吾輩は思い切って人間になる事にした。そうして貰い手のなかったのを一人の婆さんに拾われた。婆さんは「ホホホホこれは珍しい黒猫じゃ」といって毎晩蒲団の中で撫でてくれた。ところが或る夜の事ちょっと用心しろよという忠告をくれた。何にもしないのに突然襖があいて男が三人はいって来た。その一人がいうには「オイこんな所に猫がいるぞ」「馬鹿な猫だよ」「しかしなかなか利口そうな猫だぜ。きっと何か役にたつだろう。俺がもらってやろうかな」すると隣の部屋で寝ていた婆さんがびっくりして起き出して叫んだ。「ああ! 私の可愛い黒猫を取らないで下さいまし。あれがないと私は夜が眠れません」それを聞くと猫をもらう筈の男はあわてて「いえいえ貴女のものなら私が頂くわけに行きますまい。さあ返せ返せ」と手を出した。その時吾輩はふと思った。吾輩をくれるといったから喜んでもらおう。早速婆さんの布団の中から飛び出して男の手にしがみついた。「ナアゴ」と一声云った。それからすぐ身を翻えして窓から外へ飛び下りた。

その後どうなったか知らん。とにかくそれ以来吾輩は人間というものが大嫌いになった。ただ一匹だけ例のゴルどんだけは別であった。吾輩はゴルどんを兄のように父のように接したのである。吾輩はこのゴルどんの所へ遊びに行くのが何よりの楽しみであった。ある日ゴルどんの家へ行くと表に変なものがいた。それは大きな箱で煙突がついていた。その煙突からシューッと煙が出ていた。それを見ていたら吾輩も何だか背骨がムズムズしてきた。それで我慢できなくなってとうとう人間の世界への入り口をこじあけてしまった。

中はまっくらだった。何も見えない。しばらく立っていると目が慣れてきた。見ると家の中には誰もいない。ゴルどんも留守らしい。仕方がないから吾輩はそこらをブラブラしていた。そうしたら二階の方で物音がする。誰かいるのだろうか。吾輩は階段を上って行った。そして一つのドアの前に立ってコンコンと叩いた。返事がない。吾輩はまた叩いてみた。やはり返事がない。吾輩は首を傾げながら中を覗いて見た。そしたら中にはたった一人爺さんが入っていた。

吾輩はこの爺さんに近寄って行って前足でツンツン突付いて見た。爺さんは眠っていた。よく眠っている。吾輩は今度はペロリと嘗めてやった。すると急に目を覚まして吾輩を見た。吾輩を見てビックリしたようだ。吾輩も少々驚いた。しかしこの爺さんはそんなに怖そうではない。そこで思い切って話しかけて見る事にした。

「おい爺さん、お主は何と云う名前じゃ?」と聞いた。すると爺さんが答えた。

「私の名前は夏目漱石です」

漱石先生(了)



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