【人工生命体299

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番元気な種であったそうだ。吾輩はこのゴルどんと遊びたいのだが、いかんせん尻尾を振って追い払うだけである。吾輩は淋しい。

吾輩の主人は吾輩によく似ている。顔つきとか声とかがまるで同じである。吾輩が主人の家にいるときはたいてい吾輩もこの家にいる。吾輩は主人が好きであるが主人はあまり好きではないらしい。主人はよく吾輩に話しかける時「おいおい」と申される。吾輩はこの言葉を聞くと何だか悲しくなる。どうも吾輩と話をするときの主人の言葉には感情がこもっていないようである。

吾輩の住んでいる所は主人の家である。吾輩の寝床は居間にある。吾輩の食事はほとんど主人の家で食う。吾輩の友人でゴルどんがいる。このゴルどんと吾輩とは仲良しである。吾輩の好敵手ライバルは佐藤一郎という男である。吾輩の主人の弟だそうである。しかしこの男は猫より鼠の方を好む男である。吾輩はこの男とあまり仲良くなりたくないのである。

吾輩の主人は絵かきである。毎晩遅くまで絵を描いている。時には朝になっても仕事をしておられる事がある。吾輩は仕事の邪魔をしてはいけないと思ってなるべく外出するように心掛けている。吾輩は外へ出てブラブラするのが一番いいと思う。吾輩の散歩のコースはまず上野公園から始まって湯島天神を通り抜け、神田明神を右に見ながら駿河台下へ下りる。すると左に不忍池が見えるのでその辺を一回りしてくる。それから上野へ戻る。これで一廻りになる。吾輩の日課はこれである。毎日必ず一廻りする。吾輩は大変規則正しい生活をする猫である。吾輩は吾輩自身のことをよく知っているつもりである。吾輩は自分の欠点もよく心得ているつもりである。しかし人間ほど利口でない吾輩は自分一匹の考えではどうしても満足できないときがある。吾輩は人間の言葉が分らぬから仕方がないが他の者の考えを聞いてみたいと思うことがある。吾輩は吾輩の考えていることが是非とも吾輩以外の者の口から聞かされれば良いのにと思う事がある。

この間吾輩は主人の絵の具箱の上で昼寝をしていた。その時吾輩は突然誰かが吾輩を揺り起したような気がしたので眼を覚ました。ところが眼を開けて見るとそこには誰もいない。ただ絵の具の粉だけが少し残っているだけである。一体誰だろう、吾輩の睡眠を妨げたのは? 吾輩は不思議でならなかった。吾輩はまた横になって眼をつぶった。しかし今度はいつ迄待っても吾輩を起こすものは現われなかった。

吾輩の友達にゴルどんという犬がいる。このゴルどんはなかなか強い奴である。喧嘩をして勝てる相手は日本中にただ一人佐藤一郎という男だけだそうだ。吾輩はこのゴルどんに会ったことがない。しかし話によるとこのゴルどんは大層大きいのだそうだ。それに鼻息が荒いそうだ。何でも鼻の穴が二尺もあるそうだ。それを聞くと吾輩はゴルどんと相撲をとるのが怖くなった。何しろゴルどんは鼻の穴が大きいから、もし吾輩が負けて吾輩の鼻の穴が裂けでもしたら、さぞ痛いに違いないからである。

吾輩の主人は絵かきで、毎晩遅くまで絵を描いておられる。吾輩が居間にいるときは、主人が絵を描く姿が見える。吾輩は主人の仕事をじっと見ている。主人は時々筆を置いて、絵の具の瓶やパレットを洗ったりする。吾輩はそれが待ち遠しい。なぜって、それは主人が絵の道具を洗い終わると、吾輩を膝の上に乗せて、頭を撫でたり、顎の下を掻いたりしてくれるからである。主人は吾輩の好敵手である佐藤一郎と違って、吾輩が喉をゴロゴロ鳴らすと「可愛い」と云われる。主人が吾輩の毛に絵の具がつくのを嫌がるので吾輩は腹を触らせるぐらいしか主人に甘える事ができない。吾輩は主人の指が好きだ。爪が鋭く尖っている。主人の足が好きだ。人間の足にしては形が面白い。主人の耳が好きだ。主人の声を聞くためにあるのではないだろうか。主人の口元が好きだ。あれだけ口をポカンと開けていたら、きっと甘い味がする事であろう。主人の鼻筋が好きだ。主人の瞳孔が好きだ。主人の胸板が好きだ。主人のおなかの蓋が好きだ。お臍の所にあるボタンが好きだ。

今朝も吾輩は絵を描いている主人を見上げている。吾輩は主人の仕事の邪魔をしてはいけないと思ってできるだけ静かにしている。すると主人が吾輩の方を振り向いた。主人は吾輩を見てニッコリ笑われた。吾輩は嬉しい。吾輩は咽喉をゴロゴロ鳴らしたいのを我慢して、黙って主人の方を見ていた。主人の手が伸びてきて吾輩を抱き上げた。そして吾輩にキッスをした。ああ、吾輩は嬉しくて声が出そうになる。

(了)



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