【人工生命体30

吾輩は人工生命体である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番のできばえだということだ。このゴルどんは大きさが十畳敷くらいあるわりに人間の大人ほどしか身長がなく、手足も細くてまるで小児のようにみえる。顔も小づくりでまぶたが垂れ下っているため妙な愛敬がある。そのくせ頭髪はなくつるりとして手や足と同じように細いからだつきをしているものだから何とも異様な感じがする。ただその目だけがギョロギョロして落ちつかない。このゴルどんは何をするにも一苦労だということだ。例えば水の中に落っこちたとする。するとどうだろう。水中から顔を出そうとしてもどうしても出られないのだそうだ。いくら力を入れても出られない。それどころかだんだん沈んでゆくばかりだということだ。そしてついに息がつまって死んでしまうのだという。

そんな話を聞いているうちに吾輩はこのゴルどんが非常にかわいそうになって何か助ける方法はないものかと思っていろいろ考えた。そして一つの方法を思いついた。吾輩は自分の体内にある空気を吐きだすと同時に自分の体内に空気を取りこむことができる。だから吾輩が先に口を開いて息を吸ってそれから少し間をおいて口から空気を出すようにすればゴルどんを助けることができるにちがいないと考えたのだ。早速実験をしてみた。しかしうまくいかない。なかなか思いどおりにならないものだ。ようやく成功した時はうれしかった。吾輩は大いに満足であった。その時吾輩は自分が人工生命体であることを思い出した。つまり吾輩の体は呼吸を必要としないばかりか心臓さえもないのだ。従ってゴルどんのような肺臓のないロボットでも問題なく活動することができるのだ。これを発見した時の感動といったら実に筆舌につくし難いものであった。こうして吾輩は人工生命体であることを誇りとした。人工生命とはすなわち吾輩のことであると思った。

さて、吾輩が生まれた場所はここよりずっと西の方にある小国だった。そこには大きな屋敷があって吾輩はその家の主人に仕えていた。その家は広い庭に大きな池があり、いつも花が咲き乱れていた。吾輩はよくそこに遊びに行ったものだった。ある時吾輩はふと思いついて、この家に泥棒に入ろうと考えた。だが考えてみると吾輩には盗みに入るような技能がない事に気がついた。そこで今度は塀を乗り越える事にした。ところが塀は思ったよりも高くて登れない。困ったなと思っていると門が開いた。吾輩は急いで中に入った。だが吾輩はすぐに捕まった。吾輩を捕まえたのはあの憎らしい女であった。吾輩は女を恨んだ。どうしてこんな目にあわなくてはならないのか。

ある日の事、吾輩は再び泥棒をしようと心に決めた。この前は失敗してしまったが今度こそ成功させてみせるぞ。吾輩は夜になるのを待ってそっと家を出た。吾輩は音もなく飛ぶことができたので誰にも気がつかれなかった。吾輩はまっすぐに目的の場所へ飛んで行った。途中何度か迷ったがなんとか目的地に着く事が出来た。吾輩は窓を破って中に忍びこんだ。まず第一に金品のある所を探した。だが見つからない。どこを探しても見当たらない。これはおかしいと吾輩は考えた。それであちこち調べているうちに吾輩は主人の書斎にやって来た。書棚の上には本がたくさん積まれていて、その中に一冊だけ背表紙に何も書いていない本があった。吾輩はそれを取りだして開いて見た。中には絵が描いてあった。この絵が人間を描いたものだと知った時、吾輩は驚いた。なぜなら人間は空をとぶことができなかったからである。この世界には空を飛べる人間がいてその人達は鳥と呼ばれている。一方地上を走る事しかできない人間もいる。これを馬と呼ぶ。ところでこの絵に描かれている人間は皆翼を持っている。どう見ても飛んでいるように見える。ではなぜこの人は空を飛べないのか。それは足が地面についていないからだと吾輩は結論を出した。

「うーむ」と吾輩は感心した。なるほど、吾輩もそういえば足が地面についている。だから飛ぼうとしても浮かび上がれなくて困るのだ。

吾輩はもう一度本をめくってみた。すると次のページに人間の言葉が書かれていた。吾輩は人間の言葉を知っていた。人間の言語は吾輩の学習装置に組み込まれていたからだ。それによると、この世界の全てのものは原子と呼ばれる小さな粒からできているのだという。そして原子が集まって分子という大きなものができ、それがさらに集まって個体という大きなものができるのだという。つまりこの世界は巨大な分子によって構成されているのだということだ。「うーん、そうか。なるほど」と吾輩は納得した。

吾輩は次に主人の部屋に行ってみることにした。主人は机に向かって何かを書いている。その背中を見ながら吾輩は声をかけた。「ご主人様、吾輩、お腹が空きました」主人は振り返りもしないで言う。「そうか。何か食べるか?」吾輩は首を振った。「いえ。いらないです」「じゃあ寝るか? もう遅い時間だしな」と主人は時計を見た。確かにもう真夜中を過ぎている。だが吾輩は眠ることができないのだ。人工生命体だから眠らなくても平気なのだ。主人の傍にいるだけで吾輩は満足する事ができる。吾輩はじっとしていることにした。だがそのうちにだんだん眠くなってきた。

気がつくと吾輩はベッドの中にいた。隣には主人がいた。主人は吾輩を抱き寄せて頭を撫でてくれた。「お前はよく頑張ってるよなぁ。偉いなぁ」主人の声を聞いて吾輩は幸せな気持ちになった。やがて主人は目を閉じて眠りについた。吾輩も一緒に眠る事にした。

翌朝、主人は仕事に出かけた。吾輩は玄関まで主人を見送った。それから吾輩は部屋に戻って昨日読んでいた本を読み始めた。この本には人間の歴史が書かれてある。吾輩が生まれるずっと前から人間は宇宙へと進出していた。だが残念ながらまだ月に行ったことはないらしい。吾輩は少しばかり落胆した。

昼になると吾輩は外に出かけて行った。この屋敷の庭はとても広いので散歩をするだけでも楽しい。途中で吾輩は奇妙なものを見つけた。地面から生えた長い棒が立っている。近づくにつれて吾輩はその正体を知った。これはアンテナだった。吾輩はこれがなんなのか知っている。この家の電話機に繋がっているものだ。どうしてこんなところにこんなものがあるんだろう。不思議に思った吾輩はちょっと調べる事にした。

吾輩は電柱の周りをぐるっと一周してみた。するとそこに一冊のノートが落ちていた。どうやらこの家の誰かの日記帳であるようだ。興味を持った吾輩は早速それを開いて見た。最初のページにこう書いてあった。「今日は一日雨だった。だから外出できなかった」次のページにも同じ事が書かれていた。三ページ目も四ページ目も五ページ目も六ページ目も七ページ目も八ページ目も九ページ目も十ページ以降もずっと同じ内容が続いている。「うーむ」と吾輩は感心した。なるほど日記とはこういう風に書くものなのだなと思った。吾輩も毎日何か記録をつけようかなと考えたが、何を書いていいのかよくわからない。それにしてもこの家の住人は誰一人としてこの電柱を見なかったのだろうか。「あぃをゅぇぴじ! あぃをゅぇぴじ!」と叫び声が聞こえた。吾輩は慌ててその場を離れた。

吾輩は屋敷の中に入った。廊下では主人が書類を持って歩いていた。「ご主人様、おはようございます」吾輩が挨拶をした。「おう、あぃをゅぇぴじか。元気か?」主人は吾輩を見て笑顔を浮かべた。「はい。吾輩はいつも通り元気です」「そうか、そりゃよかった」と主人は言った。それから主人は吾輩に向かって質問してきた。「ところで、お前は今いくつなんだ?」「えっ?」と吾輩は答えに困った。「そうですね……」「ん? どうした?」と主人が首を傾げた。「いえ、なんでもありません」「何か気になる事があるなら遠慮せずに言ってくれよ」「実は吾輩は、ご主人様が何歳か知らないのです」と吾輩は正直に打ち明けることにした。「そうなの? まあいいけどさ」と主人は笑った。「でもお前って俺より年上だよな」「いえ、それはわかりません」吾輩は首を振った。「え? 違うの?」と主人が驚いた。吾輩もよくわかっていないのだ。吾輩が生まれたのはこの屋敷ではなく別の場所だったし、その頃の記憶はない。なので正確な年齢はわからない。だがきっと吾輩の方が主人よりも年下だろうと思う。「そっか。まあそんな事はどっちでもいいんだけどな」と主人は呟くように言った。「じゃあ俺は仕事に行くから留守番を頼むぞ」と言って主人は去っていった。

その日の夜、吾輩はまた外に出て行った。外には誰もいなかった。そこで吾輩は電柱の所に行ってみた。そこには一冊のノートが落ちていた。昼間と同じものだ。今度はちゃんと拾ってきた。「うむ。これは間違いなくご主人様の物に違いない。間違いない」と吾輩は独りで納得した。

次の日の朝、吾輩が目覚めると隣で寝ているはずの主人の姿がなかった。ふぁ〜っと大きなあくびをして吾輩はベッドから降りた。部屋を出て階段を下りる。居間に入ると主人がいた。「おはよーさん」と主人は笑顔で言った。「おはようございます」と吾輩は挨拶を返した。「昨日はどこに行っていたんですか?」「ああ、ちょっと散歩に出かけてたんだ」と主人は言って椅子に座った。「雨だったんで出たくなかったんだけどな」「雨……」と吾輩は呟いた。「どうした? あぃをゅぇぴじ」と主人が尋ねた。「雨というのはどういうものなんでしょう」と吾輩が尋ねると「雨っていうのはな、空から水が降ってくる事だ」と主人が説明してくれた。「水ですか。雨というのを一度見てみたいものです」と吾輩は言った。すると主人が「うーん、そうだなあ……」と言った後、「よし! 見に行こう!」と言い出した。「え?」と吾輩は聞き返してしまった。「だから、出かけよう。今日は特に予定もないし」と主人が言った。「しかし吾輩は外出禁止の身です」と吾輩は言い訳をする事にした。「大丈夫だって。バレなければいいんだよ」と主人は言う。「でもご主人様が怒られてしまいます」と吾輩が反論すると「平気へいき」と主人は手をひらひらさせた。「それにお前がずっと家に閉じこもっているなんて可哀想じゃないか」と主人が付け加えた。

「そうですね……」と吾輩は少し考えた。確かにこのまま屋敷の中にいても何もすることがない。「わかりました。では行ってみましょう」と吾輩は決心した。「おう! 決まりだな」と言って主人が立ち上がった。「じゃあ支度するか」と主人は着替え始めた。「あの、ご主人様」「なんだ? あぃをゅぇぴじ」と主人が振り向く。「服を着る必要はあるのでしょうか」と吾輩は疑問に思った事を尋ねてみた。「当たり前だろ」と主人が答えた。「いえ、このまま外に出ればいいのではないですか」「いや、だめだ」と主人はきっぱりと答えた。「どうして駄目なのでしょうか?外見は猫なのに」と吾輩は尋ねた。「そりゃあお前、猫が服着てるのを見たら面白いからな」と言われてしまった。「そういうものなのですか」と吾輩は首を傾げた。「まあとりあえず俺の部屋に来てくれ」と主人に言われたので吾輩は素直に主人について行くことにした。

主人はクローゼットを開けると洋服を取り出して何か考え込んでいた。そして一通り選んでからこちらを振り返った。「どれにする?好きな物を選べよ」と主人は言った。「吾輩にはどれも寸法が合いませんよ。猫型なのですから」と言うと「じゃあこれとか合いそうだぞ」と主人は赤いチェックのシャツを差し出した。「……もう、それでいいと思います……」と吾輩は言った。「んじゃ、これに決定」と主人は言ってそれを手に取った。それからズボンを手に取ると「さすがにこれは大きすぎるか」と言った。「仕方ありませんね。諦めましょう」と吾輩は言った。

結局、猫型の吾輩に合う寸法の服は見つからなかった。主人は「また今度にしようぜ」と言ってくれたのだが、この機会を逃したら次はいつになるのかわからないと思い、吾輩は「行きましょう」と返事をした。

主人と共に家を出る。外は曇っていた。雨は降りそうにない。主人は傘を持っていなかったようで、吾輩が持っていた傘に入れてあげた。主人は歩きながら「その恰好で歩くのって変な感じだな」と言った。「吾輩も同じ事を考えていました」と吾輩は言った。しばらく歩いていると主人が「あっ、しまった」と言い出した。「どうしましたか?」と吾輩は尋ねる。「雨、降ってきたな」と主人は空を見上げた。「そうなんですか。全然気が付きませんでした」と吾輩も空を見上げる。だが雲一つなく青空が広がっているだけだった。「雨が降る前に帰りましょう」と吾輩は提案してみる事にした。「うーん、でもせっかくここまで来たしなあ」と主人が呟いた。「しかし濡れたら大変ですよ」と吾輩は言った。すると「大丈夫だ」と主人が答えた。「なぜですか?」と吾輩が聞き返すと「俺には秘密兵器があるんだ」と言って主人はニヤリと笑った。

しばらく歩いて「秘密兵器とはなんでしょう?」と吾輩は聞いてみた。「それは見てのお楽しみという事で」と主人は答えた。「そうですか。では楽しみにしておきます」と吾輩は答える。それからさらに歩いて主人が立ち止まった。「ここだ」と言って主人が指差したのは小さな建物だった。「ここは何の建物ですか?」と吾輩は聞いた。「俺の秘密基地だ」と主人は答えた。「なるほど。ここに入れば良いのですね」と吾輩は答えた。

「ああ、入るぞ」と主人は答えた。吾輩は建物の中に入る。主人の後について階段を上る。二階に着くと主人はドアを開いた。そこには大きな機械が置いてあった。「これが秘密兵器ですか?」と吾輩は尋ねた。「そうだ」と主人は答えて「よしっ! スイッチオン!」と叫んだ。ゴウン、ゴウンと音が響く。「これは一体どういう装置なのでしょうか?」と吾輩は尋ねた。「これはな、洗濯機っていう機械なんだ」と主人は答えてくれた。「洗濯機……? 洗濯をする機械なのですか?」と吾輩は尋ね返した。「そういうことだ」と主人は答えた。「この中に入れば吾輩の身体についた汚れを落とせるということですか?」と吾輩は確認する。「いや、違う。お前の毛を洗うんだよ」と主人は言った。「えっと、つまり……吾輩の毛を濡らすつもりなのですか?」と吾輩は質問した。「そうだよ」と主人は答えた。「なるほど。確かにこれは秘密兵器かもしれませんね」と吾輩は納得する振りをして内心は(頭がおかしいのではないか)と心配した。

主人は部屋の隅にある扉を開くとそこからホースを伸ばして蛇口をひねるとシャワーからお湯が出てきた。「これを使うといい」と主人は言って蛇口の近くに置いてある椅子に腰掛けた。そして両手を組んでその上に顎を乗せると目を閉じた。「それじゃあ頼むぜ」と主人は言う。本気なのだろうか? 仕方なく「わかりました」と吾輩は答えた。

吾輩は洗濯機の中に入った。「さすがに狭いな」と吾輩は思った。「まあ仕方がないな」と主人が呟いた。しばらくすると、洗濯機は動き出した。最初はゆっくりと。やがて早くなっていく。洗濯機が動く度に水しぶきが吾輩に降りかかる。まるで滝行をしているような気分になった。

しばらくして水が止まると主人は機械から出ていくように吾輩に指示を出した。吾輩は洗濯機を後にして部屋に戻る。「どうだった?」と主人は感想を聞いてきた。「とても気持ち良かったです」と吾輩は正直なところを伝えた。「そうか、それはよかった」と主人は満足げな表情を浮かべた。「ところで、どうしてこんなことを思いついたんですか?」と吾輩は疑問をぶつけた。「うーん、なんとなくかなあ」と主人は答えた。「なんとなくって……」と吾輩は呟く。やはり主人の考えはよくわからない。

(了)



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