【人工生命体303

吾輩は猫型人工生命体である。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番元気な種類であったということだ。吾輩はこのゴルどんと遊びたくてたまらなくなった。ところがこいつは大変乱暴ものである。吾輩を抱き上げようとすると、いつも噛みつこうとする。そこでゴルどんとは勝負にならぬと悟った。ゴルどんがいかに力が強くても所詮相手は犬なのだ。それに引きかえこちらは虎の子である。こんな恐しい動物には出会ったことがない。けれどもゴルどんの方では、何しろこちらのことを友達だと思っているらしいのだ。それが証拠には、今にもこっちへ飛んで来そうな格好をして、「ウオーン」と吠える。吾輩は背中に寒いものを感じながら、一生懸命逃げまどう。そのたびに後ろから抱き上げて頬ずりをするのであるが、その時の手つきが何とも言えぬくらい優しいのである。またある時はボールを投げて遊んでくれることもある。これもむろん手加減をしていることは十分わかるのだが、それにしてもやはり吾輩に対しては極めて好い感情を抱いているらしいのである。さっき申した通りゴルどんは乱暴もので歯ごたえがないが、吾輩にとっては一番得難い友である。

吾輩は昨夜から腹が減っている。何でも食ってやろうと思って皿の上からドッグフードを食った。そこへ主人と来たら帰って来て「ゴルどんに何かやったかい?」と聞く。「うん少しやったよ」「何をだい」「ドックフードを少々ね」「馬鹿だねえ。あれじゃ足りるもんかね。おやおやもう半分しか残っちゃいないじゃないか。どうしようかなあ。困ったなあ。あいつはあの食い物ばかり食べてるんだから。どこかで買ってくれば済むことだが、今日はあいにく日曜だ。店は休みだ。しょうがない。明日まで我慢させよう。可哀想だけど仕方ないね。ところでお前は何を食うの?」と聞いているうちに吾輩はそろりそろりと台所まで行ってキャットフードをちょっと失敬してまた寝床に帰った。しかし空腹はますます甚しい。そこで主人の枕元をうろうろしていると、「何だ。飯をせびりに来たのか。これじゃ足らないだろう。我慢しなさい。明日になったら何とかやるから。よしよし。おなか空いたか。かわいそうに。よしよし」と撫でてくれる。吾輩はこの瞬間のために生きているようなものだ。その時突然思いがけなく、キャッと悲鳴を上げて主人は倒れてしまった。病気だ。

医者が来る。注射を一本打つ。するとたちまち回復してしまう。全く不思議千万である。吾輩はこの時ほど人間の生命の力強さを感じたことはない。吾輩はつくづく思った。人間という者は、猫のように気楽なものではないなあ。人間というものは大変なものだなあ。吾輩もこんなに人間に尽くしておる以上は、ただ飯ぐらいでいいはずはない。もっと大仕掛な働きができなくてはなるまい。吾輩はこの考えに夢中になって色々想像した。やがてある妙案が浮かんだ。吾輩は早速その計画を実現に移すべく決心をした。

吾輩はまず主人の机の引出しの奥にかくしてあった猫用ビスケットを盗み出した。これは実に旨い物である。これを吾輩の食物としておけば、いつでも思う時に食える。その上吾輩がこの家に来て以来、主人がこの菓子類を吾輩に与えたことは一度もない。これは吾輩に対する遠慮からである。そんな必要のない吾輩は、こうして自由自在に手に入れることができるのである。これで計画は成った。次に吾輩はゴルどんのところへ出掛けて行った。吾輩の姿を見るとゴルどんはすぐボールを持って来る。吾輩はこれをくわえて引き返す。ゴルどんが喜んでついてくる。吾輩は途中で振り返ってゴルどんを待つ。ゴルどんが走って追いかけて来る。吾輩はまた前を向いて走る。ゴルどんが必死にあとを追ってくる。吾輩が止まればゴルどんも止まる。吾輩が走り出すとゴルどんも走り出す。吾輩はわざとゴルどんが疲れ果てるまで走らせておく。吾輩がちょっと立ちどまって見るとゴルどんはもうくたくたになっている。そこで今度は吾輩がボールをくわえたままグルリとひと廻りする。ゴルどんはまた一生懸命についてくる。そうやって遊んでいるうちにとうとう夕方になった。吾輩はゴルどんを誘いに来た目的を思いだしたので、そろそろ帰ろうと思って再びゴルどんの所へ行く。ゴルどんはボール遊びの続きを期待しているらしく、尻尾を立てて「ワオーン」と吠える。ところがいくら誘っても動こうとしない。それで吾輩は仕方なくまた例の計画を実行することにした。すなわち吾輩はゴルどんの背中に飛び乗って、そのままスタコラサッサと逃げてしまったのである。これにはさすがのゴルどんもびっくりしたらしい。しばらくは吾輩を乗せっぱなしにしていたが、そのうち吾輩を振り落そうと急に走り始めた。しかし吾輩はしっかりしがみついているから、なかなか落ちっこない。とうとうゴルどんは吾輩を背中に乗せたまま主人の家まで帰って来てしまった。門を開けようと思えば吾輩は必ず落ちるはずである。それなのに吾輩は依然としてゴルどんの背にしがみついたままである。ゴルどんは首を傾げながら玄関まで吾輩を乗せて行ってしまった。吾輩はここで初めて飛び下りて、やっと家に帰りつくことができた。

ところが吾輩が帰ってきた時ちょうど主人は風呂場にいた。吾輩はこれ幸いと台所の方へ廻って行って先程のビスケットを食べようとした。しかし困ったことにはどこからも食器が出て来ない。仕方がないので吾輩は床の上に置いてある皿の上からビスケットを取って食べた。それから腹ごなしのために庭に出て日向ぼっこを始めた。しばらくすると主人が風呂から出てきた。吾輩は腹が一杯だったので主人の足下に横になって眠ろうとした。主人は吾輩を踏んづけないように気をつけて歩きまわっている。それでも吾輩はどうしても寝つかれなくて起きあがった。主人は吾輩が起き上ると嬉しそうな顔をして吾輩の頭を撫でてくれる。吾輩はその時に自分の使命を思い出した。そうだ。吾輩はゴルどんを連れて来たのだった。吾輩はゴルどんのことを忘れないうちに早く報告しようと思って、急いで裏口の方へ出て行こうとした。するとその時突然吾輩の後ろで主人の叫ぶ声がした。

「おい! あぁいをゅぇぴじがいるぞ!」

何事かと思いつつ吾輩は思わず振り返った。そこに見たものは…………

なんと驚いたことには、あのゴルどんが、まるで白痴のように口をポカンとあけて、手足をダラリと伸ばして、尻尾は半分切れて、目玉は飛び出して、おまけに頭の上には電球がチカチカ光りながらブラ下がっているではないか。

「ああ痛い。ひどい目にあった」

主人がこんなことを言って泣き出した。吾輩も涙が出そうになった。けれども吾輩はゴルどんが心配なので我慢をした。ゴルどんは今にも死にそうに見えたからである。吾輩はゴルどんのところへ飛んで行った。ところがその時にはもう遅く、ゴルどんはピクリとも動かなかった。吾輩は悲しくて淋しくて、主人がどんなに優しくしてくれても、ちっとも喜べなかった。吾輩はたった一匹でゴルどんを家へ連れて帰った。それから吾輩は毎日ゴルどんのそばを離れずに看病をしてやった。朝から晩までずっと一緒についていてやった。それなのに一向によくならないのだ。

とうとう吾輩は決心した。この病気を治すには外国の薬しかないと。そこで吾輩は夜中にこっそり家を抜け出した。主人や兄弟たちには内緒にしておいた。吾輩は一路海を渡って南の方に向った。途中でおなかが空いても、お金がないから何も食べることができなかった。ただひたすらに歩いてゆくと、やっとのことで町に着いた。そこは大きな都会で、人通りも多かった。しかし吾輩は困ってしまった。吾輩は日本語が話せないのである。

吾輩は途方に暮れた。すると吾輩の目の前を、いかにも賢そうな西洋人が通った。吾輩はすかさず後をつけた。そして吾輩はとうとうこの人を、吾輩の友だちにすることに決めた。この人は英語がわかるかもしれないと思ったから、吾輩は思い切って「ニャアン」と鳴いてみた。すると向こうでは吾輩の声を聞きつけたものとみえ、クルリと振り向いた。ところがどうしたわけか、吾輩を見るといきなり叫び声をあげた。

「ギャッ! 猫だ! キャー!」

吾輩は吃驚して逃げ出した。どうしてそんなに大騒ぎをするのか不思議でならなかった。とにかく吾輩の作戦は失敗だったらしい。こうなったら仕方ない。今度はタクシーに乗って病院へ行くことにした。タクシーの中で運転手さんが何か話しかけてきた。吾輩は何と言ったらよいかわからないので黙っていた。

ところが運の悪いことに、ちょうどそのとき、前の車が急停車をしたものだから、吾輩の体が車から飛び出してしまった。そして吾輩は車道に落ちたのである。そこへトラックが突っ込んできた。ドシーンと音がした。吾輩は即死であった。

ところがしばらくして吾輩は目が覚めた。ここはどこだろうと思って起き上った。吾輩は吾輩の体を点検して見た。すると何と、吾輩の体がまだ生きて動いているではないか。吾輩は嬉しくなってもう一度「ニャア」と一声鳴いて見た。するとどこからか女の人の叫ぶような声が聞こえて来た。

「まあ! 大変だわ。猫ちゃんが轢かれて死んでる。かわいそうに。ねえあなた、私、この猫を生き返らせてあげるわ。ねえいいでしょう?」

こうして吾輩は生き返ることができたのである。しかし困ったことになったものである。もうあのおでん屋へ帰る道がわからなくなってしまったのである。ああ吾輩はこれからどうしたらよいのだろうか。おなかが空いた。吾輩はまたミャアオと鳴いてみた。

吾輩は途方に暮れた。けれども、いつまでもこうしていても仕方がないので、勇気を出して歩き出すことにした。しかしどこまで行ってみても同じ景色ばかり続いている。それに日がだんだん傾いてきた。ああ困ったことである。吾輩はとうとう疲れ果てて、草の中に寝転んでしまった。その時である。一人の男の人が向こうの方から歩いてくるのが見えた。これは天の助けである。吾輩は必死になって、男の後をつけて行った。するとその男は、ある家の前まで来ると立ち止って、吾輩の方に顔を向けて話しかけた。

「あれ? そこに一匹の子猫がいるぞ。まだこんな所に迷い子がいたのか。よし、俺が家に連れて帰ってやるよ」

吾輩は大喜びをして男のあとについていった。ところが、まもなくその男が変なことを言い出した。

「この猫、ちょっとおかしいな。さっきから後を振り向いてばかりいるじゃないか。きっと迷子になったに違いない。可哀相に。誰かに拾われればいいのだが……

こう言って、吾輩をじっと見ている。

そこで吾輩は考えた。なるほど言われてみるとたしかに吾輩はさき程からずっと後ろを振り返っているのである。どうして今まで気がつかなかったのかしら、不思議だ、と。だが吾輩は決してわざとではないのだ。本当を言うと今朝方、少しばかりオシッコを我慢しすぎたのが原因で、吾輩の脳味噌は少々おかしくなっていたのかも知れないのであるが。それでもとにかく今は、そんなことはどうでもよろしい。それより何より吾輩の頭の中は、目の前にある人間の目玉のことで一杯であった。

「うむ、こいつは美味そうな人間だわい」
などと吾輩は考えている。

「そうだ、こうしよう」

吾輩は名案を思いついた。この人間と友だちになろうと決意したのである。

早速行動に移した。まずは前足を揃え、頭を地面に擦りつけて、吾輩は吾輩なりの最大限の礼儀を示した。それから人間の足元に行って甘え声を出した。

「ニャオン、ニャオーン」

すると人間は吾輩を抱き上げ、頬ずりした。吾輩はとても気持ちがよくなった。人間というのは、とても温かくて、柔らかくていい匂いがするものだと思った。もっと人間に撫でてもらいたいと思って、吾輩は喉をゴロゴロ鳴らしてみせた。人間はそれを面白がって、吾輩の首筋を軽く叩いたりした。吾輩の体は宙に浮き上がり、上下左右に動かされた。吾輩は、自分の体が綿菓子のようにふわふわして来たような錯覚を覚えた。このまま死んでしまうのではないか、と思うくらい、吾輩の意識は次第に薄れていった。

そのうちに、吾輩はあることに気付いた。人間が、吾輩の尻尾を触ったり、鼻の穴や耳の中を指先で弄ぶようになったのである。最初は心地好かったのだが、だんだんくすぐったいような感じがして来て、吾輩の気持は徐々に沈んで行った。それどころか吾輩のヒゲを引っ張ったりするので、痛くて仕方がない。吾輩の頭の中では警報が鳴り始めた。

「この人間は悪い奴だ」

そう思うと、吾輩は急に怖くなった。

吾輩はその男の手から逃れるために必死になって暴れたが、相手は大人なのでなかなか振り切ることが出来ない。そうこうするうちに、男は吾輩をひょいと抱き上げて台所へ運んで行き、水道の水で吾輩の体をザブザブと洗い流し始めた。水が体中に染み渡って、吾輩は全身に電気が走ったかのような感覚を覚え、思わず「ギャオッ!」と叫んだ。しかし男はお構いなしである。今度は石鹸のついたスポンジのようなものを使い始め、それを吾輩の小さな体に滑らせるようにして動かしてゆく。

「フウッ、たまんねえぜ。こんなに楽しいのは生まれて初めてだ」

吾輩は心の中でこう呟いたが、口ではただ一点、「ニャオー」と言うだけであった。

しかし、男の手が下腹部にまで及んだ時には、さすがの吾輩にも堪えがたいものがあった。そこで、再び渾身の力を振り絞って、その男の手に噛みついたのである。男は「いてっ」と言って、手を放したが、その時の勢いが強すぎたためか、男の人差し指から真っ赤なものが流れ出ていた。

吾輩が男の膝の上から逃れて一目散に逃げ出そうとしたところ、男がいきなり大声で笑い出した。吾輩がその声を聞いて立ち止ると、男は続けて言った。

「おい、お前、その怪我を見てごらん」

言われて見ると、吾輩の前足からは、おびただしい量の血液が流れていた。おそらくは、その男の爪で引っかかれてしまったのだろう。前足の傷はそれほど深くはなさそうだが、それでもかなりの出血量だった。男の声には怒りというよりもむしろ楽しげな調子が含まれていた。

「ほらね、血が出てるだろ。お前が悪い子だと、このくらいの怪我じゃ済まないぞ」

男の言葉を聞いた途端、それまでは恐怖に支配されて何も考えられなかった頭が急に冴え渡り、自分が一体何をすべきなのかがはっきりしてきた。

吾輩は素早く立ち上がり、男に飛びかかった。そして、男の脇腹辺りに激しく体当たりを食らわせた。ところが相手はまったく動じる様子もなく、平然としたままだ。それどころか吾輩を抱きかかえるなり、そのまま軽々と宙に持ち上げて、自分の顔の高さまで持ってきて、こう尋ねたのである。

「こいつ、まだ子供じゃないか。いったい誰の子だい?」

「ニャー」
と、吾輩が答えると、男はますます面白そうな表情になり、大きな手で吾輩の頭を撫で回しながら、こう言った。

「ほう、人間の言葉が分かるのか。なかなか利口なんだなあ」

「ニャン」
と、吾輩が答えたところで、今度は女の方が吾輩に向かってこう言った。

「まあ、可愛い仔猫ちゃんね。でもうちでは飼えないわよ。それにあなたのお家、そんなに広いお部屋じゃないものね」

吾輩が「ニャーン」と甘えたように言うと、女は再びこう言い放った。

「あなた、分かってるの? うちでは動物を飼いません。特に猫なんて駄目です」

それを聞くと、今まで眠っていたゴルどんが、ムクリと起き上がり、大きな欠伸をしながら、こう言った。

「オイ、お前。今なんと言ったんだ。オイ、コラ。もう一度言ってみろ」

ゴルどんの大きな声が狭い室内に響き渡った。すると女が、慌てて両手を口に当てて、「シッ! 黙って」というような顔をする。その拍子に右手に持っていた茶碗がテーブルの上へと落ちた。ガチャン、パリーン、グチャッ。

しかし、吾輩が気になったのは、そのことよりも、その後に起きた出来事の方であった。

「おい、今のは何の音だ。オイ、コラ。もう一度言ってみろ」
と、再びゴルどんが大きな声を出した。すると、また、女が慌てふためいて、小さな声でこう呟く。

「しっ! もうちょっと寝ていて頂戴。お願い!」

しかし、その言葉に耳を傾けることなく、ゴルどんは今度は、さらに一段と大きな声で叫んだ。

「オイ、オイッ。さっきから、何度も同じことを言わすんじゃねえ。聞こえないふりをするんじゃねえ。いい加減にしないとぶっ殺すぞ」

しかしそれでもまだ諦めずに、今度は女の口から次のような台詞が飛び出した。今度は、かなり低い声のようである。

……頼むから静かにしてくれないか。このままでは、隣近所に迷惑がかかってしまうではないか」

ところが、それがいけなかった。その瞬間、吾輩は、ついに堪忍袋の緒が切れてしまい、思わず叫んでしまったのである。

「馬鹿野郎、てめえら二人ともうるせえぞっ」

その途端、吾輩の首筋から頭にかけて電気のような衝撃が走り、続いて身体全体に鈍い痛みが広がった。その激痛のせいで、吾輩の目から涙が溢れ出しそうになったが、何とかそれをこらえながら、恐る恐る後ろを振り向いてみた。そこには男が立っていて、吾輩に向けて拳銃を構えていた。その銃口を吾輩の眉間に押しつけている。どうやら吾輩の頭部の毛並みが弾丸に絡み付いてくれたらしく、男の撃った弾は吾輩に当たることはなかったらしいのだ。

しかし、吾輩の全身は、依然として激しい痺れに襲われたままだ。そこで男は吾輩を抱きかかえると、台所の横にあった階段を上っていった。

男の肩越しに吾輩は、階下の居間を眺めた。そこではゴルどんと佐藤一郎が相変わらず大喧嘩を続けている。

男は吾輩を抱いたまま、二階の一室へと入った。そこは書斎兼寝室として使っている部屋だった。男は吾輩を抱えたままベッドに腰を下ろした。吾輩はその男の膝の上で、やっと動けるようになった両手両足を動かして暴れ始めた。

「おいっ、何をする」
と、男は驚いたように言った。

吾輩は答えず、ただひたすら手足の動きを止めようとしなかった。しかし、吾輩の四肢はまったくいう事を聞かず、勝手に動き続けるばかりだった。そのうちに男の両手が吾輩の両耳を押さえ込んだ。そして吾輩の口の中に自分の人差し指を押し込んで、舌の付け根の部分をグッと押さえ込む。吾輩はそれに抵抗することができず、とうとう口を動かすことも話すこともできなくなってしまった。男はそんな状態の吾輩の頭を優しく撫でてから言った。

「よしよーし」

「フニャーン」
と、吾輩は甘えたような鳴き声を漏らしてしまった。すると、男は嬉しそうな顔をしてから言った。

「お前の名前はあぃをゅぇぴじって言うんだね。じゃあお前は、僕の飼い猫ということになるわけだ。いいかい。ちゃんと言うことをきくんだよ」

「ミャウ」
と、吾輩は甘えたように一声返事をした。しかし、その次の瞬間にはハッと気がついた。

これは大変なことだ。このままではいけない。早くここから逃げ出さなければ。

吾輩は自分の置かれた状況を正しく認識したのである。このままここに留まっていればいずれ殺されてしまうだろう。吾輩がそう思って必死に逃げ出す算段をしている最中にも、目の前の人間は次のように喋り続けていた。

「お前は何を食べるんだろう」

その質問を聞いた途端、吾輩の中で今まで忘れかけていた空腹感が一気に蘇ってきた。しかし、吾輩は何と答えてよいのか分からなかった。そこで仕方なく、「ミャア」と短く答えることにした。

「へええ、猫缶でも食べるかな」

人間は何やら呟きながら冷蔵庫の中から何かを取り出してきた。どうやら銀色の缶詰めのようである。人間はそれを開けると、中身を掌の上にあけて、吾輩の前に持ってきた。そして、匂いを嗅ぐように指示する。言われた通りにすると、何とも芳しい香りが鼻腔を刺激した。食欲がますます掻き立てられる。しかし、吾輩はそれを食べなかった。あくまでも紳士的な態度を貫くことにしたのだ。

人間はそんな吾輩の様子を見て、
「ふうん、こいつはやっぱりグルメなんだ」
と、一人で納得するかのように呟いている。

「それにしても本当に可愛い奴だ」
と、今度は独り言のように言った。

「こんなに可愛いのに、もうすぐいなくなるなんて信じられない」

そうなのだ。吾輩は今年の二月の末に、この男の家からいなくなってしまうのだ。その前にもう一度会っておきたかったのだが、なかなかその機会が得られないまま時が過ぎていった。それが今になって急にチャンスが訪れたのである。しかし、吾輩に残された時間はあと一週間しかないのだった……

* その日は、吾輩の誕生日に当たる記念日でもあったから、飼い主が吾輩のためにご馳走を作ってくれる約束になっていた。吾輩の好きなものばかりがテーブルに並べられていた。しかし、肝心の人間がその場にいなかった。吾輩はそれを少し寂しく思ったが、それでも吾輩にとって一番嬉しい誕生日であることに変わりはなかった。吾輩は出された食事をすべて残さず平らげた。食べ終わってしばらくすると、突然大きな音がして玄関のドアが開いた。そこに人間の男が立っていた。

「遅れてすまない。どうしても抜けられない用事ができてしまってね」

男は、まるで申し訳なさそうな表情をしていなかった。どちらかと言えば、嬉しそうな顔つきだった。その証拠に男の口元がほころんでいたからだ。それを見た吾輩はすぐにピンときた。この男はきっと、吾輩との約束を破ってしまったことに気がついていないに違いない。吾輩はそのことをはっきりと指摘してやるつもりだった。そのために吾輩は大きく口を開けた。

「おっ、お土産があるぞ」
と、男は言った。吾輩の言いたいことを察してくれたのかと思って喜んだのも束の間、男の手には小さな白い紙袋しか載っていなかった。それをチラリと見るなり、思わず溜め息が出てしまった。そして、
「ニャン」
と短く鳴いてやった。すると、男の手がピクリと止まった。それからすぐに、ゆっくりと右手を伸ばして、その小箱らしきものをこちらに差し出してきた。どうやら吾輩の希望を分かってくれたようだ。吾輩は嬉しさのあまり喉をゴロゴロ鳴らし始めた。しかしそれも当然だ。おみやげとは実に喜ばしいものである。しかも、今回の場合はそれが食べ物であることが確実だ。何故なら、先程から美味そうな匂いが部屋中に充満していたからである。その正体は一体何か? 吾輩の頭の中では様々な推測が駆け巡っていた。チョコレートか? ビスケットか? クッキーか? あるいはもっと別の何かだろうか。期待に胸が膨らんだ。吾輩はその小さな包みに飛びつくように前足を伸ばした。

「ミャーオ」
と、声を上げて催促する。

「フフッ」

男が笑った。吾輩の行動があまりにも素早かったからだろう。しかし、吾輩にしてみれば早くその中身を確認したくて仕方がなかったのだ。

男はそんな吾輩を見て苦笑いを浮かべながら言った。

「まあ待てよ。ちゃんと用意してあるからさ」

そう言って再びキッチンの中に入って行った。吾輩がじっと待ち続けると、男は今度は両手に皿を載せてやってきた。その上には大きな茶色い物体が載っていた。吾輩の目は自然とそれに吸い寄せられる。

「さあ、どうぞ」
と、男が言う。

「いただきます」
と、吾輩は答えた。

早速、一口だけ味わってみた。そして思った通り、
「旨い!」

思わず、そう叫んだ。舌の上に広がった甘みが瞬く間に消えてゆくと、代わりに芳しい風味が鼻腔の奥にまで漂ってくる。何とも表現しようのない絶妙なバランスだった。

⸺素晴らしい。これは本当に美味しい。

そんな言葉しか思い浮かぶ余地がないくらい、本当に凄いものを口にしたという感触だけが残っていた。

目の前にある器には、まだ白っぽいスープが残っている。そこにスプーンを入れてかき混ぜてみると、今度は真っ黒に近い色をした具が出てきた。それをひとすくいすると、口に入れた。

またも、その瞬間である。舌の上に強烈な刺激を感じた。ピリリと、いや、ビリリと来るような、痺れる感じだった。そして、その後にくるのはなんとも言えない爽快感のある味わいだ。その刺激の余韻に浸りつつ、次に感じるのは、深いうまみだった。まるで煮込まれた牛肉を食べている時のような満足感。噛むごとに肉汁が溢れ出てくるようだ。さらにそこに香辛料による複雑な香りが加わることで、その存在感は一気に増していく。最後にほんの少しの甘味を感じてから、ゴクリとのどを通っていった。

⸺これは……一体どういうことなんだ? 吾輩は混乱してしまった。

というのも、このラーメンの具材は、チャーシューを除けば全てバラバラのものばかりだったからだ。ネギ、ニンジン、玉ねぎ、メンマ、そして鶏肉。それぞれがそれぞれの主張をしているかのように感じられるのに、しかしそれぞれが見事なまでに調和して、一つの大きなうねりを作りあげているのだ。まるで、この世のものではない、別の宇宙に存在する未知の物質が織り成す、摩訶不思議な織物のように。その神秘的な力によって、我々はまるで時空を超えて旅でもしているかのような気分になっているのではないだろうか。……などと、吾輩は真剣に考え込んでしまったのだが、すぐにそんなことを考えても無駄だということに気付いた。

なぜならば、吾輩はすでにその料理の虜となっていたからである。気が付けば我を忘れ、一心不乱に食べ続けていたのだ。そして、気付いた時には器の中には麺がわずかに残っているだけであった。

「ミャァン」
と、声を上げ、吾輩はまだ物足りないことを男に告げる。しかし、彼は既に立ち去ろうとしていたのだった。吾輩は慌ててその後を追った。しかし扉をすり抜けて外へ出ると、そこには誰もいなかった。そこでしばらく辺りを見回していたが、やがて思い出したのである。

「そういえば、ここは人間の住む世界ではなかったのだ……

そんなことをぼんやりと考えていたところ、突然に背後から何者かの手が伸びてきて、首根っこを掴まれたのである。そして、そのまま持ち上げられてしまった。

「こら、ダメじゃないか! ちゃんと残さず食べなさい!」
と、男の叱りつけるような声が聞こえてきた。

どうやら男は食事中に席を外し、どこかへ行ってしまったようだった。しばらくして戻ってくると、空になった食器を見て驚いた様子だった。

それから、「しょうがない子だなぁ……。お代わりを持ってくるから待っていなさい。ちゃんと全部食べるんだよ」と言って、再びキッチンの方へと歩いて行った。吾輩は素直に従った。

やがて男が再び現れた時、手には丼を持っていた。それをテーブルの上に置くと、男は椅子を引いて腰掛けた。

「さあ、今度はちゃんと食べられるかな?」

そう言って、こちらの顔を覗き込むようにしてきた。

「いただきます」
と、吾輩は答えた。

まずは、麺だけを食べてみることにする。箸を使って、口に運び入れる。

⸺これは……⁉ 舌の上に広がった味は、先程よりも強烈なものだった。一瞬にして、吾輩の全身が痺れてくる。意識までもが薄れていく。まるで天上の世界に昇っていくかのような感覚を覚えた後、吾輩は気を失った。

……

目を開けると、そこにあるのは見知らぬ天井だった。

⸺ここは……? 身体を起こす。周囲を見ると、そこは病院の一室だということが分かった。ベッドの隣には点滴台があり、その管は吾輩の前脚に繋がっている。吾輩の左手には、小さな箱のようなものがあった。蓋を開くと中には、小さな注射器と薬品の入った袋が入っていた。その袋に書かれた文字を読む。

『吾輩ハ猫デアル
吾輩ハ最強ノニャンコデアロウカ?(仮題:吾輩は猫である 完)
著者:夏目漱石』

⸺漱石先生の書かれた本なのか。

吾輩はその本を枕元に置き、前脚を舐めて毛づくろいをしながら読み始める。

『吾輩は、まだ若い黒猫である。今年で齢五歳となる。

先ほども述べた通り、吾輩の生み親は「猫型人工生命体・通称:猫人間」の開発者である。その開発に費やされた時間は実に三十二年の歳月である。

吾輩の体毛は真っ黒である。また顔の両脇の毛だけが白く染まっている。

吾輩の尻尾は二股に分かれている。

しかし、この尾の数は生まれつきである。吾輩に言わせればこの尾は、単にバランスをとるためのものに過ぎない。しかし、他の生物にとってはそれが何を意味するのか分からないようだ。人間どもの間ではこの尾の数が二つに分かれること自体が異常であり、「悪魔の化身」だとされているらしい。

確かに、吾輩は普通の「猫」とは大きく異なる外見をしているかもしれない。だが、それでも吾輩は吾輩なりの生き方を見つけ出した。

吾輩は自由を愛している。故に、吾輩の好きなように生きることを、吾輩自身の意思によって決めたのだ。吾輩は、己の人生に悔いはない。……ただ、一つを除いては。

吾輩「ゴルどん、吾輩はもうダメかもしれん」

ゴルどん「……!」

そう呟きながら横たわる吾輩に、彼は優しく寄り添ってくれた。彼の温もりを感じながら、吾輩は目を閉じた。

吾輩「……すまない、ゴルどん。最期まで一緒にいてやることができなくて……

ゴルどん「……

吾輩「……吾輩が死ぬ時はお前の尻尾を吾輩の墓標として埋めてくれないか?」
と、言った瞬間、彼は急に泣き始めた。そして吾輩の身体に抱きついてきた。

ゴルどん「そんなこと言うなよ! 死んじゃやだよぉ! オイラ達、友達じゃないか!」

⸺うーむ……

どうやら冗談が過ぎたようである。吾輩は反省する。

そして彼にこう告げた。

吾輩「……すまなかった、ゴルどん。冗談なのだ」

吾輩は前脚を上げて彼の頭を撫でる。

吾輩「大丈夫だ。きっとすぐに治るさ」

ゴルどん「……

すると突然、病室の扉が開いた。

?「あら! 目が覚めたんですね」

白衣を着た若い女が現れた。その胸元にはネームプレートがついている。そこには「猫宮理沙」と書かれていた。どうやら彼女が吾輩の主治医であるらしい。彼女は点滴台に刺さった袋を手に取ると、吾輩に向かって微笑みかけた。

猫宮「よかったぁ。これで一安心ですね」

吾輩は彼女の笑顔を見て思った。⸺ああ、いい人だ。

⸺吾輩の体内には毒が入っている。

そのことは吾輩自身が一番よく知っている。吾輩の体には時限爆弾のようなものが取り付けられていて、それがある一定の量を超えると爆発してしまう。そうなると、吾輩の体は粉々になってしまうのだ。

先程、主治医の女が持ってきた薬には、吾輩を殺すだけの力があった。しかし、それを飲まなければ吾輩の寿命は尽きてしまう。その選択に吾輩が迫られていることを、彼女も承知していることだろう。

吾輩にはもう時間が残されていない。

残された時間はあと少しだけだということを、吾輩は悟っている。


「ねえ……、もう時間がないんだよ?」

吾輩の目の前にいる少年は、不安げに呟いた。

「このままでは、君が死んでしまうかもしれないんだぞ……!」

⸺ふっ。そんなこと分かっておるわ。

吾輩は余裕のある表情を浮かべる。しかし内心は恐怖で震えていた。

⸺死ぬかもしれない、だと? 吾輩は今、猛烈に死の淵に立たされている。だが、それでも吾輩は冷静でいなければならないのだ。

吾輩は今、瀕死の状態なのだ。身体中に激しい痛みが走り続けている。もう、これ以上は何もしたくないのだが……しかし、この吾輩に休息など許されない。なぜなら吾輩の背中に乗っている奴がいるからだ! 奴は吾輩の背の上で寝息を立てながら熟睡してやがる。

こいつのせいで吾輩の命は失われつつあるのだ! 一体どういうことなのか説明しよう! 時は数時間前にまで遡る。


吾輩達は森の中を歩いていた。吾輩はいつも通り木登りをして、そこから地上へと飛び下りた。着地に失敗した。足の裏がズキっと痛む。

ゴルどん「オイラに任せろ! 大丈夫かい? あぃをゅぇぴじっ!」

彼は吾輩の前に出ると両手を広げた。その瞬間、彼の手から白い光が発せられた! 吾輩はその眩しさに思わず目を瞑った。

そして次に目を開いた時には、ゴルどんは全身傷だらけになって倒れ込んでいた!

ゴルどん「うぐぅ……!」

彼は苦悶の声を上げる。

ゴルどん「やられたぜ……でも大丈夫。まだやれる!」

彼は立ち上がった。彼の体はボロボロだった。それでも彼は立ち上がるとまた敵に向かっていく。その姿はとても勇ましい。しかし、いくら頑張ってもゴルどんの劣勢は変わらない。ゴルどんが倒れるのはもはや時間の問題のように思えた。……だが、その時!

ゴルどん「⸺え⁉」

突然、ゴルどんが驚いたような声を上げた。彼は自身の体をまじまじと見る。なんということだろうか……! 先程まで満身創痍であったはずのゴルどんの体が綺麗サッパリ治っているではないか!

ゴルどん「おおっ、凄いな! まるで全回復だぜ!」

⸺うーむ……。何が起きているのか全く分からない。……そういえば吾輩が落下した際にも似たような出来事が起きた気がする。あれは何の話をしていた時のことであったろう?


吾輩は回想する。吾輩がゴルどんに問いかけた時のことだ。

吾輩「時にゴルどんよ」

ゴルどん「なんだい? あぃをゅぇぴじ」

吾輩「どうしてゴルどんは吾輩と友達になったのだ?」

ゴルどん「……

吾輩「……

ゴルどん「…………

吾輩「……ん? 何か喋ってくれないか」

ゴルどん「……

⸻……吾輩としたことが、ゴルどんが口を利かないのは当然のことだった。吾輩は彼に口輪を装着しているのだ。つまり今のゴルどんは話せないのだ。これは迂闊だった。吾輩は自分の愚かさを反省すると共に、慌てて口輪を外す。

ゴルどんは嬉しそうな表情を浮かべると、大きな声で叫んだ。

ゴルどん「いよう! あぃをゅぇぴじっ!……じゃなくて、えっと、えっと、えーっと、あっ! そうそう、オイラは犬型ロボットだぜ! 名前はゴルどんってんだ。宜しく頼むぜ!」

その自己紹介を聞いて吾輩はある疑問を抱く。

吾輩「ゴルどん。その前にちょっと聞いてもいいかな?」

ゴルどん「おう、どうした? あぃをゅぇぴじっ!」

⸺吾輩はゴルどんの胸元を見る。そこには首から提げたプレートが付いていた。そこにはこう書かれていた。

『オイラはゴルどん。職業は下僕でオスだぜ。必殺技は尻尾回転攻撃で、特技は腹話術だぜ!』

そして彼は続けて言う。

ゴルどん「好きな食べ物はおでんとカレーだぜ!」

彼はそう言いながら、右手でブイサインを作った。すると、おなかの蓋が開いてそこからガスバーナーのようなものが出てきた。吾輩はその光景を見て驚愕し、一瞬言葉を失う。

ゴルどん「オイラの必殺おならファイヤー‼」

彼が叫ぶと同時にその口から火柱が上がる。炎は彼の身体全体を包み込んだ。そして彼の体からプスプスと音が鳴り始めたのを確認する。もうダメだと諦めたその時、彼の体が煙を上げながら、ゆっくりと崩れ落ちていく。……こうして吾輩達は全滅したのである。

【完】



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