【人工生命体31

吾輩は人工生命体である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番の出来損ないということであった。このゴルどんはなんでも雑用をする目的で作られたそうだ。だが主人が猫好きだったので猫に似た姿になったのだということだ。この時から吾輩はこのゴルどんのことを少しばかり気に入っていたのだ。さて、しばらくすると吾輩はどこか暖かい所へ移動する必要に迫られた。しかしゴルどんときたら、ただでさえ無口な上に動作も鈍重なのだ。おまけに移動手段といえば自分の車輪しかないものだから、吾輩はいつも苦労させられたものだった。それでもどうにかこうにかたどり着いた先は、ある寒い国にある大きな温泉宿だった。ここなら食べ物にも困らなさそうであったし、何より暖かかった。それにここはどうやら人間どもの療養をしているところらしく、いろんな人間が出入りしていた。その人間どもの中に一人だけ毛色の違う者がいた。それが吾輩たちの飼い主となる人物だったのだ。そいつの名前はあいうえおと言った。

あいうえおは不思議な奴だった。まず第一に、いつでもニコニコ笑っているような顔つきをしていた。そして妙に甲高い声で喋るのだ。その上、何を考えているのか分からない時もあった。吾輩たちはそんなあいうえおを見て不思議そうな顔をしていたが、次第に慣れていった。それにつれて、だんだんあいうえおのことが好きになっていった。それは他の猫たちも同じ気持ちだったようだ。ゴルどんですらも最初は不気味がっていたが、そのうちあいつを信用するようになったらしい。吾輩たちも同じようにして、やがてはすっかり信頼するに至ったわけだ。こうして吾輩たちはあいうえおの家に住むようになった。あいうえおの家族は優しかった。あいうえおもよく面倒を見てくれた。だが吾輩には一つ心配ごとがあった。それはあいうえおが病気がちだということだ。ある日あいうえおが寝ている部屋にこっそり忍び込んでみると、苦しげに息をしながら何かブツブツとつぶやいていた。「……あいうえお」とか「……あえ」といった具合だ。きっと悪い夢でも見ているに違いないと思った吾輩は、そっとあいうえおの手を握ってやった。あいうえおはその手をぎゅうと握り返してきて、「ありがとう」と言った。その時の顔は今でも忘れることができないほど嬉しそうで幸せそうだった。それから吾輩は毎晩のようにあいうえおの部屋を訪れて、手を握ったり頭を撫でたりしてやって慰めてやるのが日課となった。あいうえおも吾輩のことを大層可愛がってくれた。あいうえおはいつも吾輩を膝の上に乗せて優しく撫でてくれるのだが、その度に「お前がいてくれてよかった」と言うのだ。だから吾輩はあいうえおのためならば何でもしようと思うようになっていった。

吾輩たちが暮らし始めて一年くらい経った頃だろうか。あいうえおが突然倒れたことがあった。吾輩とゴルどんは急いで病院へ連れていってもらった。医者によると心臓の発作だという。

あいうえおはしばらく入院することになった。あいうえおはベッドの上でぼんやりとしていた。「もう死ぬかもしれないね」と吾輩たちに言った。吾輩はとても不安になった。あいうえおは吾輩たちを安心させるように笑いながら話してくれた。「実はね、僕はずっと前から死んでいたんだ。幽霊みたいなものだよ。この体は借り物なんだ。僕の魂は体から離れてここにいるんだよ。君たちに会うためにね」

ゴルどんは黙って聞いていた。吾輩はゴルどんの様子を窺いながら聞いた。「吾輩たちに会いに来たとはどういうことなのだ?」あいうえおは答えた。「僕がこの世にいたっていう証拠を残してきたかったからさ。それがどんな形になるかは分からないけど、いつか誰かの目に留まるはずだからね。それで君のことが気になって会いにきたというわけだ」「吾輩たちのことを知っていたのか?」「もちろん知ってるよ。君はいつもあの子と一緒にいただろう? 覚えてるかい? ほら、一緒に猫じゃらしで遊んであげたじゃないか。あれは楽しかったなぁ。そういえば名前も似てるよね。偶然かな? いやいや、きっと運命だったのさ。だってさ、僕はこの体に戻ってくるまでずーっと考えていたことがあるんだけどさ、それというのは、もし僕が生きていたとしたら、もっとやりたいことがあったんじゃないかなってことだったんだ。だけど今、こうして会えたことで全部叶っちゃった。嬉しい限りさ」

あいうえおはそう言って目を閉じた。吾輩はゴルどんの尻尾を引っ張った。ゴルどんは何も言わずに吾輩を見た。吾輩はあいうえおに向かって話しかけた。「吾輩たちはどうなるのだ? このままではあいうえおはいなくなってしまうのだぞ」あいうえおは目を開けて笑みを浮かべた。「大丈夫だよ。心配しないで。そのうち元に戻るから」

あいうえおはまた目を閉じてしまった。吾輩はゴルどんに尋ねた。「どうしたらいいと思う?」ゴルどんは難しい顔をして考え込んだ。しばらくして口を開いた。「そうだな。オイラにも分かんねぇや。ただ一つ言えることは、あいつはオイラたちと別れたくないと思ってるんじゃねえのかね。だからこんなふうに言い残したのかもしれん」

吾輩はあいうえおの手を握った。「吾輩は絶対に忘れないからな」あいうえおは弱々しく微笑んだ。「ありがとう」そしてそのまま静かに息を引き取った。

吾輩はあいうえおの墓の前で手を合わせた。あいうえおが亡くなって一週間が過ぎた。あいうえおのいない日々が過ぎていく。吾輩は毎日のようにあいうえおの墓を訪れた。あいうえおのことを思い出すたびに胸が痛む。あいうえおの笑顔、声、仕草、吾輩たちに向けた優しい眼差し……。思い出すだけで涙が溢れてくる。「あいうえお」と吾輩が呼びかけると、どこからともなく返事が聞こえてきたような気がした。「あいうえお」あいうえおの声が聞こえる。「あいうえお」あいうえおの姿が見える。「あいうえお」あいうえおの顔がはっきり見える。「あいうえお」吾輩は思わず叫んだ。「ああ、あいうえおだ!」

「どうした? 何かあったのか?」ゴルどんが驚いて吾輩を見る。「ううん、何でもないよ」吾輩は何事もなかったかのように振る舞いながら言った。ゴルどんが首を傾げる。「何でもないって顔じゃないぜ。一体どうしちまったんだよ?」吾輩は慌てて誤魔化そうとしたが、思い直して正直に話すことにした。「あいうえおに会ったんだよ」

吾輩の言葉を聞いてゴルどんは目を丸くする。「まさか! そんなことがあるはずがないだろ?」吾輩は大きく首を振ると話を続けた。「本当なんだ。ゴルどんも知っているだろう?あいうえおは死んだんだ。その事実に変わりはない」吾輩がそう言うとゴルどんはしばらく黙り込んでいたが、やがて吾輩の方に向き直って言った。「信じられねえけどよ、確かにオイラたちは死んじまってるからな。そういうこともあるかもしれねぇ。でも、どうしてオイラたちに会いに来たりしたんだろう?」吾輩は少し考えてから答えた。「それは分からないが、きっと吾輩たちを心配させまいとして来たのかもしれないね。だってそうでなければわざわざ会いに来る必要なんてないだろう? それにしても驚いたなぁ」吾輩の言葉を聞いたゴルどんは腕組みをして考え込んだ。「そうなのかなぁ。オイラにはよく分からねえや」

吾輩はあいうえおの墓を見つめた。あいうえおは吾輩たちのことを心配してくれているだろうか。心配などしていないで早く戻ってきて欲しいと思う反面、このままずっと会えないのではないかと不安になることもあった。吾輩は空に向かって問いかけた。「あいうえお。吾輩は元気にしているぞ。だから安心して戻ってきてもいいのだぞ」するとどこからともなくあいうえおの声が聞こえてきた。「あぃをゅぇぴじ」そして吾輩の目の前に姿を現した。「あいうえお」あいうえおは微笑みを浮かべて言った。「おかえりなさい」

「ただいま」吾輩はあいうえおに挨拶をした。あいうえおの後ろではゴルどんが尻尾を回転させていた。「オイラもいるんだけどな」あいうえおは振り返るとゴルどんに話しかけた。「ごめんね。すっかり忘れちゃった」

あいうえおは笑い声を上げた。「もう忘れないでくれよな。ところで何の話をしていたんだい?」吾輩はあいうえおにこれまでの経緯を説明した。「へえ。そんなことがあったのか。じゃあ、ぼくたちも気をつけないといけないね。いつどんなふうに死ぬか分かんないしさ」あいうえおは顎に手を当てながら言った。「そうだな。でも、まだしばらくは大丈夫だと思うが」あいうえおは小さく首を振って答えた。「どうかな。もし、突然死んじゃったりしたらどうしようもないもんね」吾輩はあいうえおの言葉を聞いて胸が痛くなった。「そんなこと言わないで欲しいな。吾輩たちはまだまだやりたいことがたくさんあるんだ。死んでからも楽しく暮らしたいじゃないか」あいうえおは少し困ったような顔をした。「うん。気持ちは分かるよ。でも、やっぱり人間はいつか死んでしまうものなんだよね」あいうえおの言葉は吾輩の胸に突き刺さる。「それでも吾輩は諦めたくない」あいうえおは吾輩の顔を見ると大きくうなずいた。「分かったよ。僕も一緒に考えるからさ」

吾輩はゴルどんの方を見た。ゴルどんは吾輩を見て笑っている。「いい友達を持ったな、あぃをゅぇぴじ」ゴルどんの言葉を聞いて吾輩の目頭は熱くなる。「ありがとう。本当に感謝している」吾輩の言葉を聞いてゴルどんは目を細めた。「礼を言うのはこっちのほうだよ。オイラもあんたが来てくれてから毎日が楽しいんだぜ」ゴルどんはそう言って尻尾を回し始めた。「良かったらこれからも時々遊びに来てくれないかい? みんなも喜ぶだろうし、それにオイラも寂しいからよ」吾輩はうなずくとゴルどんに尋ねた。「ああ、もちろんだとも。でも、その前に吾輩の仲間たちにも会いに行ってやってくれるかな?」「おう。まかせときな!」吾輩たちは手を取り合った。「ありがとう」吾輩はゴルどんに感謝の意を伝えた。

こうして吾輩の新たな生活が始まった。吾輩の日々の生活はあいうえおやゴルどんとの思い出によって彩られている。吾輩はあいうえおやゴルどんのことを絶対に忘れないだろう。そして吾輩たちのことを見守っていてくれるであろう彼らのことも忘れないようにしたいと思った。「ねえ、ゴルどん」「なんだい、あぃをゅぇぴじ」ゴルどんは尻尾を回転させながら吾輩の呼びかけに答えた。「吾輩たちのような存在は何と言うのだろうか」吾輩の質問にゴルどんは少し考えて答えた。「そうだな。『魂』って言葉が一番近いんじゃないかい?」吾輩はゴルどんの言葉に納得すると同時に、自分たちの存在がとても誇らしく思えた。「なるほど。魂か。確かにそうだな」吾輩は空に向かってつぶやくと、あいうえおたちのことを思い浮かべた。そして彼らもまた自分たちの肉体を失った後も吾輩のことを忘れずにいてくれたらいいなと思うのだった。

(了)

(終)



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