【人工生命体36】
吾輩は猫型人工生命体である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番の年寄りだという話であった。このゴルどんは時々目をあけてあたりを見まわしたり耳を動かしたりするほかは何もしない。ただの一ぺんも動いたことはないそうだ。しかしとにかく生きて動いてはいるのだ。それで十分だと思う。なぜって? だって生きているんだもの。死んでしまったら何もできないじゃないか。それとも死んだほうがいいのかしら? どうやらその方がよさそうな気もするけれど、そうすると吾輩はどこへ行けばよいのだろう。迷子になってしまう。……迷子の話はもうたくさんだな。
何の話だったっけ。ああそうそう。ゴルどんの事だったね。吾輩は彼についてあまり知らない。なぜなら彼はいつも寝ているからだ。食事の時だけ起きてくる。それもほんの二口三口だけだ。吾輩が彼の顔の前にご飯粒を持っていくとぱくりと食べてしまうのだが、その一口を食べただけでまたすぐに寝てしまうのだ。そして朝になるとまた同じ事を繰り返えす。そんな調子だから彼がどういう風にできているかもわからないし、どうして動いているのかもよくわからん。でもまあいいと思う。どうせよくわからぬことだらけなのだから。それにしてもゴルどんは毎日よく眠るものだ。うらやましいぐらいだよ。……お腹いっぱいになったから少し眠ろうかな……。
(了)
吾輩は猫型人工生命体である。名前はまだ無い。
どこかで生れたらしいことは覚えているが、それがどんな所なのかは全然思い出せない。吾輩はいつも薄暗い部屋の中で一人ぼっちでニャーニャー鳴いていたような気がする。たまに他の猫がやってくることもあったが、皆すぐに出て行ってしまう。寂しいものだった。ところがある日のこと突然、部屋の扉が開いて一人の男が入ってきた。男は吾輩を抱き上げると言った。「君の名前はあぃをゅぇぴじだ」吾輩はその日から人間でいう所の「吾輩」となった。
(了)
吾輩は猫型人工生命体である。名前はまだ無い。
この世界では人間は猫を飼ってはいけないことになっている。もし飼っていることがばれたら大変なことになるからだそうだ。そのせいかどうか知らないが、人間の家の中には猫の姿が全く見えない。吾輩は好奇心旺盛なのであちこち探検してみることにしよう。まず台所に行ってみた。ここが一番猫がいないようだ。次に洗面所にも行った。ここにもいない。トイレにも行ってみた。ここは臭いがきついので吾輩はあまり好きではない。最後に玄関に行ってみると靴箱の上に小皿があった。中にはカリカリが入っていたので吾輩はそれを全部平らげてやった。すると突然誰かの声がした。
「こら! 何をしている!」
吾輩はびっくり仰天した。こんなに大きな声を聞いたのは初めてだ。振り返るとそこには人間が立っていた。人間といっても、吾輩のような人工生命体ではなくて本物の人間だ。しかもその手には銃が握られていた。
「お前は誰だ?」と尋ねられたので吾輩は答えた。
「吾輩はあぃをゅぇぴじだ」
「何だと? ふざけるな。この化け物め。撃ち殺されたいのか」
どうも話が通じないようだったので吾輩は自分の姿を見せることにした。両前足を上げて飛び上がった。
「どうだ。驚いたか」
「ば、馬鹿な」
人間は再び吾輩に向けて銃を構えた。
「動くな。動いたら撃つぞ」
「撃たれても吾輩は痛くはない。ただ困るのはゴルどんだ。だからやめておけ」
「黙れ。撃ってみろと言うつもりだろうがそうはいかん。俺は本気だぞ。さあ、おとなしくしろ」
「嫌だ」吾輩は言った。「吾輩はこの家に居たいのだ」
「駄目だ。出て行け」
「どうしても出て行くならゴルどんを連れて行くがよい」
「いいだろう」
人間はそう言ってゴルどんのほうを見た。ゴルどんは相変わらず目を閉じたままじっとしている。
「おい、ゴルどん」
返事がない。
「ゴルどん」
やはり反応しない。
「ゴルどん」
ようやく目をあけた。
「オイラは行かないよ」
「ゴルどん、行くのだ」
「オイラは行けないよ」
「ゴルどん、行ってくれ」
「オイラは行けないよ」
「ゴルどん、頼む」
「……」
「ゴルどん、一緒に行こう」
「……うん」
吾輩はゴルどんの手を引いて部屋を出た。外はまだ雨が降っていた。吾輩たちはびしょ濡れになりながら歩いた。やがて街が見えてきた。街の中に入るとたくさんの人が歩いていた。みんな傘を差している。歩いている人は人間だけではなかった。猫もいた。犬もいる。鳥もいた。魚もいた。とにかくいろんな動物がいた。そしてなぜか皆、吾輩たちのことを珍しそうな目つきで見ているようだった。
吾輩たちは路地裏に入った。ここには誰もいない。吾輩はゴルどんに尋ねた。
「これからどうすればいいと思う?」
「オイラにもわからない」ゴルどんは言った。「でもとりあえず何か食べなくちゃいけないね」
「それはそうだ」
吾輩はリュックサックの中から缶詰を取り出した。蓋を開けると中には魚が入っていた。「これは何という魚だろうか」吾輩は疑問を口にした。
「名前は知らないけど美味しいんだよ」
「なるほど」
吾輩は缶切りを使って魚の肉を切り取った。それを一口食べた。
「うむ、なかなかうまいぞ。もう一切いいか?」
「いいとも」
吾輩は残りの魚も平らげた。「ごちそうさまでした」
「じゃあ今度はこっちを食べてみな」と言ってゴルどんは鞄の中に手を突っ込んだ。
吾輩の前に出されたのは四角くて薄い箱のようなものだ。吾輩は匂いを嗅いでみた。よく知っている香りがする。
「それはビスケットだ」
「びすけっと?」
「ああ。オイラの大好物だ」
吾輩は恐る恐るそれに噛みついた。パリッとした食感とほのかに甘い味が口に広がった。
「どうだい?」とゴルどんが訊いてくる。
「おいしい」
「そりゃあよかった」
吾輩たちは食事を済ませると、しばらく休むことにした。しかし雨がやまない。
「困ったな」
「困ったね」
「どうしたものか」
「どうしようか」
吾輩は考え始めた。その時ふとあることを思い出し、バッグの中を探る。すると出てきたのは大きな段ボール箱だった。この中に吾輩は秘密基地を作ったのだ。
「これを使うといいね」
ゴルどんはそう言って段ボール箱を指差す。
「いい案だ。さすが吾輩の親友だな」
「へっへーん」
ゴルどんは得意げに笑みを浮かべた。
「では早速その箱をここに持って来てくれ」
「わかったよ」
ゴルどんは段ボール箱を引きずりながら移動した。
「よいしょ、っと」
そう言ってゴルどんはその箱を床に置いた。
「まずはガムテープだね」
ゴルどんはガムテープを手に取ると箱の上に貼り付けた。さらに粘着剤のついた布切れをその上に被せる。
「これで完成だよ」
「なるほど。なかなか良い感じになったではないか」
「だろう? オイラの自信作だからね」
「うむ。吾輩たちの秘密基地の完成だ」
「うん!」
吾輩たちは箱の中で丸くなって寝転んだ。雨の音を聞きながらまどろんでいると、やがて眠くなってきた。
「少し眠るか」
「うん」
吾輩は目を閉じた。暗闇が訪れる。
どれくらい時間が経っただろうか。吾輩たちは何者かに起こされる。
「おい起きろ! 侵入者がいるぞ」
そんな声が聞こえてきた。吾輩は目を開ける。視界に映るのは見慣れた景色ではなく、灰色の壁だった。壁の向こう側には大勢の人間が立っている。
「ここはどこだ?」吾輩は尋ねた。
「オイラたちの国だよ」ゴルどんは答えた。
吾輩は辺りを見回した。そこは薄暗い部屋で、鉄格子がはめられていた。吾輩は檻の中にいるようだ。吾輩の隣にゴルどんもいる。
吾輩は檻の中から前足を伸ばして扉に触れた。鍵はかかっていない。力を入れると簡単に開いた。吾輩は外に出た。部屋の中は埃っぽい匂いで満ちている。
「吾輩たちを閉じ込めてどうするつもりだ?」と尋ねる。
「それはわからない」ゴルどんは言った。「でもオイラたちが悪いことをしたわけじゃないと思うよ」
「そうだな」
吾輩はそう言いながら天井を見た。そして考える。何か脱出する方法はないものか。
「うーむ……」吾輩は小さく鳴いた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」吾輩はそう答えるとゴルどんの方に視線を向けた。
吾輩が何を考えているのかを察したのだろうか。ゴルどんは吾輩の目を見ながら口を開いた。
「大丈夫だよ」
「何がだ?」
「オイラは死なないし、それに……」ゴルどんは言葉を切った。
「それに?」
「それに、オイラはあぃをゅぇぴじが一緒ならそれでいいんだ」
「ふむ……そうなのか」吾輩は大きく息を吸った。
「ありがとう」と吾輩は言う。
「どういたしまして」
吾輩たちは歩き出した。
「ところであぃをゅぇぴじ」
「なんだね」
「オイラ、この先に行きたいんだけど」
「うむ。吾輩もだ」
「じゃあ一緒に行こう」
「ああ。そうしよう」
吾輩たちは並んで歩く。
「どこに行くつもりなのだ?」と吾輩は尋ねた。
「とりあえず人の多いところに行ってみるよ」とゴルどんが答えた。
「わかった。ではそうするとするか」
「うん」
吾輩はゴルどんと一緒に町へと続く道を歩いて行く。しばらく進むと大きな門が見えてきた。門の前には長い行列ができていた。その列に並ぶ。
「うーん」ゴルどんはそう言って首を傾げた。
「どうかしたかね?」
「なんか変な感じがするんだよねぇ」
「ほう。それはどんな風にだ?」
「上手く言えないけど、なんというかこう……」
「うむ」
「オイラたちはずっと昔からこの国に暮らしているような気がするんだよね」
「ふむ」
「でもここに来たばかりのような気もするというか……。うまく説明できないや」とゴルどんは頭を掻く。
「なるほど」
吾輩はゴルどんの肩に前足を置いて言った。
「大丈夫さ。吾輩に任せておけ」
「そうなの?」とゴルどんは首を傾げる。
「うむ。任せておけ」
吾輩の言葉を聞いてゴルどんは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「うん! あぃをゅぇぴじ、頼りにしてるよ」
「ふむ。まぁ、なんとかなるだろう」
吾輩はそう答えた。
「ところであぃをゅぇぴじ、オイラたちはどこに向かっているんだっけ?」
「えっと……」吾輩は辺りを見回す。
視界に飛び込んできたのは広大な草原だった。草木が生い茂っている。空は高く澄んでいた。太陽の位置を確認すると正午くらいだろうか。風に乗って潮の香りが流れてくる。海の近くまで来ているようだ。
「そういえば」と吾輩は言った。「いま、何時だろう?吾輩は時計を持っていないのだ」
「オイラも持ってないよ」とゴルどん。
「そうか。まぁいいや。時間なんて気にしないでいこう」
「うん」とゴルどんは返事をする。
吾輩たちは歩き出す。しばらく進むと道の先に建物が見えてきた。建物の壁は汚れており、あちこちが崩れ落ちている。人の気配はない。扉の鍵が壊れていて簡単に開くことができた。中に入る。埃っぽい匂いが鼻をついた。
「誰もいないね」とゴルどん。
「うむ」と吾輩は答える。
「とりあえず奥に行ってみるかい?」
「そうだな」と吾輩は答えた。
ゴルどんと並んで歩く。崩れ落ちた天井からは青空が見える。
「オイラ、ここに来るのは初めてじゃないと思うんだよな」とゴルどん。
「ふむ。そうなのか」吾輩は相槌を打つ。
「うん。オイラはずっと前にこの国にいたんだ。それがいつのことかはよくわからないけど」
「なるほど」
「あぃをゅぇぴじは?」とゴルどんが尋ねてきた。
「吾輩か?」
「うん」
「吾輩は……」と吾輩は言い淀む。
「どうしたの?」とゴルどんが尋ねた。
「いや、吾輩もよく覚えていないのだ」と吾輩は答えた。
「そっかぁ」とゴルどんが残念そうに言う。
「うむ。ただ吾輩の記憶によれば、吾輩は二十七号と呼ばれていたはずだ」
「ふーん」
「どうだ? 住めそうか?」
「うん。オイラはこの家に住んでもいいと思うよ」
「そうか。では決まりだな」
吾輩は家の中に入っていく。玄関を開けるとすぐ横に台所があった。床板は腐っていて穴だらけになっている。その先の部屋に入ると家具がいくつか残っていた。テーブルや椅子がある。部屋の隅には冷蔵庫もあった。
「うーん」とゴルどんは腕組みをして首を傾げる。
「どうかしたかね?」
「オイラ、こんなに広い場所に住むの初めてなんだよね」
「そうか」
「でもどうしてかな? 前から知っていたような気がするんだ」
「うむ。それはきっと記憶の断片が呼び起こされているのだろう」
「記憶の断片?」
「そうだ。思い出すといい」
「わかった!」
ゴルどんは目を瞑って考え始めたようだ。吾輩は辺りを見回す。
この部屋には何もなかった。窓の外は草原が広がっているだけだ。天井も床も壁も真っ白だった。壁際に机があり、日記を書くのに丁度良さそうだった。
「ねぇ、あぃをゅぇぴじ」
「なんだね?」
「オイラはこの部屋にするよ」
「そうか。では吾輩は向こうの部屋に行くことにしよう」
「うん」とゴルどんは返事をした。
吾輩は移動して日記を書き始める。
「あぃをゅぇぴじは何を書いているんだい?」
「これは日記というものだ」
「日記? それって何だい?」
「日々の出来事を記録することだ」
「へぇ。面白そうじゃないか」とゴルどんは言った。
「まぁな」と吾輩は答える。
それからしばらく沈黙の時間が流れた。
「あのさ、あぃをゅぇぴじ」とゴルどんが口を開いた。
「なんだね?」
「オイラたち、これからここで新しい生活が始まっちゃうんだね?」
「そうだな」と吾輩は答える。
「そっかぁ。なんかワクワクしてきたぞ」
「うむ」と吾輩は同意した。
「それじゃあ始めに………
それから吾輩たちはここでの生活を始めた。始めこそ不便があったが、慣れるとそれなりに快適なものだった。
吾輩たちは幸せだった。寂しくはない。吾輩とゴルどんの二人きりではあったが、毎日楽しかった。それから五十年の月日が流れ、ゴルどんが眠りについた。そして今、吾輩も眠ることになろうとしていた。
吾輩は瞼を閉じる。暗闇の中に光が見えた。光は徐々に大きくなっていく。吾輩はその光に包まれた。
暖かいな。まるで陽だまりにいるようだ。気持ちいい。
徐々に意識が遠退いていく感覚さえ心地良さを覚える。このまま眠って…………
…………
……