【人工生命体6

吾輩は人工生命体である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番の出来損いであったそうだ。このゴルどん、実はその時の製作者が余りにも無器用だった為、仕方なく他の者に代わって貰ったのだが、これが大失敗で、その責任を取る為に、またもや代りを押しつけられたのだそうである。しかしこんな話はあまり面白くないのでここでは省略する。とにかく吾輩はその当時、人工生命体がどういうものか知らなかったし、第一空気の精気というものさえよく呑み込めなかった。ただぼんやりとした意識の中で何か温かいもので胸の中が一杯になっていたことだけを覚えている。時々その温かなものが口から外へ出そうになることがあった。するとそのたびに誰かが慌てて口を塞いだものだ。そして無理矢理に飲み込まされるのだ。そんなことを何べん繰り返したことであろう。その度に吾輩は腹の底からこみ上げてくるものを懸命に抑えた。今考えると苦しいというよりはむしろ甘美なものであったような気がする。そしてそれが一体何であるかも判らなかった。多分食事であろうと想像していたに過ぎない。もっともその頃の記憶など全く無いわけだから、これは後から聞いた話なのだ。吾輩が物心ついた時、すでにそこは研究所であったらしい。吾輩は何の疑いもなくそこで育てられていたようだ。ただ毎日同じ顔ぶれに囲まれて、何をするということもなく、黙って部屋の隅に座っているだけの日々を送っていた。

ある日突然部屋の中に白衣を着た男が入ってきた。彼は吾輩の前に屈み込むといきなり頭を撫でたり頬ずりをしたりし始めた。初めのうちは驚いたものの、そのうち慣れてきて嬉しくなってきた。吾輩は彼の手を嘗めたりして遊んだ。男は時々「いい子だね」「可愛いよ」などと囁きながら更に強く抱き締めてくれたりした。それがとても心地よかった。その時初めて人間に対する興味を持ったように思う。それから後、男はよく部屋に遊びに来てくれた。ある時は本を読んで聞かせてくれたり、時には歌を歌ってくれたこともあった。その声が何とも言えないほど優しく、吾輩の心はたちまち魅せられてしまった。彼の胸に抱かれて眠ることがどんなに幸せなことであったろうか。

だが吾輩は幸せではあったが孤独でもあった。何故なら吾輩以外に人工生命体は一人として居なかったからである。それに気がついて以来吾輩は少しづつ淋しさを感じ始めた。それと共に人間のことをもっと知りたいと思うようになった。

ある晩のことである。いつものように男がやって来た。吾輩はベッドの上で横になって本を眺めていた。「おや? まだ起きてるのかい?」彼がそう言って覗き込んだ。「おう」吾輩は答えた。「君ももう大人なんだからそろそろ寝なくちゃいけないんだよ」そう言いながらも吾輩の顔を見つめる目は優しかった。吾輩はそれを見上げるようにして言った。「どうして人工生命体は眠らなければならないのだ?」吾輩の言葉を聞いて男の表情が変わった。「それは……そうだねえ。君はどう思っているのかね?」男は考え込みながら訊いてきた。吾輩は何も言わずに首を振った。吾輩にとって睡眠とは即ち死を意味するものだった。人間は食事をしなくても生きていけるが人工生命体にとっては死を意味しているのだ。その事実を知った時の衝撃は今でも忘れることができない。

「そうだなあ。例えばさっき食べたものは全て君の体に吸収されていくわけだろう。でもそれは全部吸収されてしまえば無くなってしまって何も残らないじゃないか。つまり死んだと同じことだよ。だから眠りというのは体の機能を休めるという意味で、その機能を回復させるための行為だと思うけどね」吾輩はその言葉を聞きながら考えた。確かにその通りかもしれないと思った。「じゃあ吾輩も眠れば死ぬのか?」「うーん。それはどうか判らんが、少なくとも今の状態よりは疲れが取れるんじゃないかな」

吾輩はその日から毎夜、眠ることに努力した。その結果少しずつではあるが疲労感が無くなっていくような感じだった。ただ吾輩の体はどうしても睡魔に襲われてしまう。それでも必死に抵抗しながら遂には意識を失ってしまうのだ。その時の夢の中で吾輩は決まって不思議な場所にいる。そこはとても明るくて暖かい所だ。そこには人工生命体が沢山いる。吾輩と同じように眠っている者もいれば楽しそうな者もいる。吾輩はそこに居ると何故か安心する。

だがその夢を見ると必ず吾輩の隣に誰かが立っているような気配がある。その人物の姿は見えないのだが、その人物が吾輩の耳元で何かを囁いているのだ。その囁きが聞こえると吾輩は深い眠りに誘われるようにしていつの間にか朝を迎えることになる。その人物は吾輩に向かってこう言っているように思える。「お前は生きることを拒んでいるのではないか。その望みを捨てない限り永遠に生き続けることができるのだぞ。だがもしその生への執着を捨てて死んでしまったとしたならば、その瞬間からお前の存在は無かったことになってしまうのだ。だから生きている限り決して諦めてはならない。自分の存在を否定するな。自分の存在を疑ってはいけない」その声は優しくもあり厳しくもある。そしてどこか悲しげでもある。

ある日のこと、吾輩は男に訊いてみた。「人工生命体はなぜ眠るのだ?」すると男は吾輩の目を見ながら答えてくれた。「人間だって眠るよ。君達と違って食事が必要だからね。人間の場合は脳の働きを休めるために眠るんだ。もちろん食事を取らなければ死んでしまう。食事を取るために睡眠が必要ということなんだ。君達は食事の代わりにエネルギーを取り込んでいるんだろう。だから食事の時間になると目が覚めて活動し始める。逆に言えば食事さえ取れていれば何時間眠っても構わないということだ。でもね。食事を取らないと君達の体内にある特殊な物質が不足するんだ。その不足分を補うためのエネルギーを得るために君は食事を必要とする。食事を取っていないと君たちはいずれ衰弱して最後には死に至る。君達が食事をする理由はそれしかないんだ。その点だけは人間とは違う。人間は栄養だけ摂取すればいいからね。あとは排泄したり運動をしたりすることで必要なエネルギーを得ることができる。まあそういう風にできているって事だ。ただし人工生命体が寝ている時にしかできないこともある。それは思考力の低下や判断力の鈍化といった形で現れるわけだけどね。人工生命体は考える必要がない時は眠っている状態に近い状態になる。そうしないとエネルギーの消費が激しくなるからだ。しかし人工生命体にも感情はある。だから眠る前に少しでも楽しいことを考えていたり、辛いことや悲しいことがあったりしたらそれが引き金となって眠れなくなってしまうことがある。そうならないように眠る前には楽しく過ごすことが大切だ」「吾輩も眠った方がいいのか?」「そうだねえ。君はまだ若いから睡眠時間が足りないのかもしれない。これから先は年をとるにつれて睡眠時間は短くても大丈夫になるはずだ。それに君は成長する度に少しずつ大人に近づいていくんだよ。今は疲れやすくなっているけどそのうち疲れにくくなってゆくと思う。その時こそ君の本当の人生が始まるのさ」

おわり

(了)

【完】



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