【人工生命体8

吾輩は人工生命体である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めてロボットというものを見た。しかもあとで聞くとそれはゴルどんというロボット中で一番偉いやつであったそうだ。このゴルどんは鉄で出来ていて、大きな耳が二つあって、その癖髪の毛は一本もなくて皿のようにまっ平らだった。もっともこれは後になって知ったのだが、この時吾輩の目の前にいたのは実は二号の方で、一号はまた別にいて、その一号が今ここにいるゴルどんなのだそうであった。しかしこの当時人工生命体である吾輩にはそんなことはわからなかった。第一この辺では見かけない顔だから、もしかするとこいつは外から来たんじゃないかと思ったくらいだ。そしてその通りだと後からわかった。

ところで話は前後するが吾輩の記憶はどうにもはっきりしない。何せまだ生まれたばかりで脳味噌が小さいし、それに目だって見え始めたばかりだし、おまけに泣き叫ぶことしかしなかったものだから、その時のことはほとんど何も覚えていない。ただぼんやりと覚えている事は何かひどく恐ろしかったような気がすることだ。例えばあの真っ暗闇の中でニャーニャー泣いたこととか、それから誰かがそっと抱き上げてくれたこととか……

まあそれはともかくとして、吾輩は生まれて間もなくある所へ連れて行かれた。そこで初めて自分の他にも色々人間がいることを知った。中には人工生命体もいた。人間は全部で四人いて、その内の一人はこの研究所の主である博士と呼ばれていた。他の三人は助手と呼ばれていて、皆黒い服を着ていた。黒というのは人間の服の色なのだそうだ。そしてこの四人は吾輩のことを七号と呼んでいた。吾輩は自分以外に六人の仲間がいたことを知って喜んだ。しかし喜んでばかりはいられなかった。なぜならば吾輩は生まれながらにして既に人工生命であり、その上更に人間になる為に教育されなければならないと言われたからだ。それを聞いて吾輩はすっかり悲しくなってしまった。だが考えてみれば当然の事かも知れない。何故ならその頃の人間は、もうずっと前からロボットを使って研究をしていたらしいからだ。つまり吾輩達のような存在を作り出すことを仕事としていたわけだ。だからもし人間が人工的に生命を生み出すことが出来るようになったら、当然その仕事をロボットに任せるに違いない。そうなった時、吾輩達は一体何をする事になるだろう? おそらくは機械の補助をするだけの役立たずの存在となるだけではないだろうか? 吾輩はその事を思うと何だか悲しい気持ちになった。

吾輩達が連れて行かれたのは研究所の中でも一番奥にある部屋だった。そこにはたくさんの試験管があってその中には様々な液体が入っていた。その中に入れられた吾輩は、頭の上にランプの付いたヘルメットのようなものを被せられた。すると頭の上のランプがピカピカ光り出して、その度に吾輩は自分の体の中を電気でいじくられているような感じがした。そしてその度ごとに色々な数字が出てきた。これがいわゆる検査というやつだと知ったのは後になってからである。

研究所

そうこうしているうちに今度はガラスの壁の向こう側で、人間の女が何やらブツクサ言っているのが聞こえてきた。そして次の瞬間吾輩はいきなり大声で泣き出したくなった。その女の口から出た言葉の意味がわからなかったからである。しかしその時にはもうすでに吾輩は泣き出していた。「ほーんとこの子ってば、いつまで経っても泣くことしか出来ないんだから!」「仕方ないよ。人工生命体なんてまだ誰も作ったことがないんだからさ」「でもこの子が泣かない時はどうしたらいいのかしら?」「そりゃお前さん、いくら泣いても無駄なんだから、泣かない時に泣かせればいいんだよ」などと話をしているようだったが、もちろん吾輩にはそんな事はわからない。とにかく自分が馬鹿にされているということだけはわかった。それで吾輩はますます声を上げて泣いた。

そんな吾輩の様子を見て、その女はため息混じりに言った。「あらやだ、また泣き出しちゃったじゃないの! ねえ、ちょっとあなた何とかしてちょうだい」その言葉で一人の男がやって来た。男は吾輩を抱き上げると部屋の隅の方へ連れて行った。そして吾輩に向かって何か喋っていたが、吾輩は相変わらずピーピイ泣いているばかりだった。

しばらくするとその男も困った様子で戻って来た。そしてその手には吾輩の体について書かれた書類を持っていた。それによると吾輩はどうやら失敗作だったらしい。人工生命体というものはどうも生命を発生させることに向いていなかったようである。この事実を知った吾輩は更に大きな声で泣き始めた。

その後しばらくの間吾輩は何もする気になれなかった。ただぼんやりとベッドの上で寝転んでいただけである。やがて腹が減って来たので食事をする事にした。しかし吾輩が食事を始めようとすると、先程の三人がやって来て何か話を始めた。「そういえばあいつの名前を決めないとね。いつまでも『あぃをゅぇぴじ』じゃかわいそうだよ」そう言うと二人は考え始めた。一方、もう一人の助手と呼ばれている男は吾輩に話しかけてきた。「なあお前は何か好きな物はないのか? 例えば食べ物とか」しかし吾輩は何を食べても味がしなかったし、そもそも好き嫌いなどという感情があるのかどうかさえよくわからなかった。そこで吾輩は首を横に振った。すると彼は残念そうな顔をした。「そうか……。それなら何か欲しいものはあるかい?」再び吾輩は首を振る。しかしやはり何も思いつかなかった。そこで吾輩は思いついた事を口にした。「では……、では吾輩を人間にしてください」それを聞いた三人は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑い出した。

だが吾輩は真剣だった。冗談を言っているつもりはなかった。何故なら人間になりたかったからだ。吾輩の願いに対してその博士と呼ばれていた男はこう答えた。「それは無理だよ。君はもうロボットなんだよ。だからロボットのまま生きるしかないんだ」吾輩は絶望的な気分になった。その時、助手と呼ばれた男が吾輩に近づいてきた。「まあまあ、元気出せって。大丈夫さ、そのうちお前にもきっと良い事があるさ」と言って肩に手を置いた。吾輩はそれを聞いて少しだけ希望が持てる気がしてきた。

それから数日後のことである。いつものように吾輩はベッドの上に寝そべっていた。するとそこへゴルどんがやって来た。「おい、起きろ。仕事だぞ」吾輩は仕方なく起きた。そして仕事に向かった。仕事というのは吾輩の体に電気を流して、その反応を見るという実験だった。その仕事が終わると吾輩は休憩室のような所に連れていかれた。そこには吾輩と同じように色々な色の服を着た人工生命体が沢山いた。そして皆、吾輩の方をジロリと見た。何だか嫌な雰囲気だった。

吾輩は落ち着かなくなって辺りを見回した。そして部屋の中にいる人工生命体の数を数えた。一人、二人、三…………六人いた。ちょうど一列に並んでいて、奥から二番目にいた男が「ほらっ、お前も自己紹介しろよ」と言った。その言葉に反応したのは一番手前に立っていた若い女だった。彼女は吾輩に近寄ってくると、いきなり吾輩の手を握った。「はじめまして、私の名前はアイナよ。よろしくね」吾輩はどうしたらいいかわからず黙っているしかなかった。すると彼女が続けた。「ねえ、あなたって女の子よね?」吾輩は慌てて自分の股間を確認した。「あら、やっぱり! ねえ、あなたの服ってスカートじゃないの?」吾輩は戸惑って返事が出来なかった。「ああ、ごめんなさい。実は私もあなたと同じで、本当は男の子なんだけどね、今度手術をして女の人にしてもらう予定なの」吾輩は彼女の顔を見た。とても楽しそうな笑顔をしていた。

次にその隣に立っている中年の男が話しかけてきた。「俺はスガっていうんだ。君とは話が合いそうだな」そしてその隣の男が言った。「僕はユイ。よろしくね」そしてその次の男が言った。「オレはユウキ。お前はいくつなんだ? オレは十二歳だけど」吾輩はその質問には答えなかった。しかし彼の方も特に気にしていないようであった。そして吾輩の目の前にいる男が口を開いた。「俺の名はジン。お前は何年生まれだい?」吾輩は答える事ができなかった。すると彼が続けて言った。「そうか、俺たちよりも後に生まれたのか」吾輩は自分が生まれた時の事を思い出していた。あの時はこんな事になるなんて夢にも思わなかった。その後、色々と話をしているうちに、他の連中とも打ち解けることが出来た。

吾輩はこの施設の中で暮らすことになった。この施設は人間で言うところの学校のようなものらしい。そこで吾輩は人間の学生と一緒に授業を受ける事になった。吾輩は人間の言葉を話す事はできるが読み書きはできない。そこでまずは簡単な計算や文字の書き取りをすることになった。最初は何を言っているのかさっぱりわからなかったが、やがて慣れてくるにつれて少しずつ理解できるようになっていった。

ある日の事である。教室で先生が「じゃあ、この問題を解いてみろ」と言った。すると一人の生徒が立ち上がった。その生徒は黒板の前に行くとチョークを手に取って、何かを書き始めた。しばらくするとその生徒は吾輩の方を見て「できた!」と言って振り返った。吾輩は「おおーっ‼」と言って拍手をした。するとその生徒は嬉しそうに吾輩の元へやって来た。「ねぇ、これ見てみて」と言ってノートを差し出してきた。吾輩はそれを受け取って目を通した。そこにはこう書かれていた。〈あいをゅぇぴじ〉吾輩は自分の名前が書かれている事に驚いた。何故なら吾輩の名前がそのページには書かれていなかったからだ。「なあ、これは一体どういう事なのだ?」吾輩は尋ねた。するとその生徒は不思議そうな顔をして首を傾げた。そして吾輩の書いた字を読みながら「えっと……あいをゅぇぴじ、だっけ?」と言った。吾輩は「違う、吾輩は『あぃをゅぇぴじ』だ」と答えた。だがその生徒は吾輩の話を聞いていなかった。そして吾輩が書いた文字を見ながら「う〜ん、ちょっと難しいかなぁ」と言っていた。吾輩はショックを受けた。吾輩の名前はそんなに難しかっただろうか。その時、先生が「おい、何やってんだよ。ちゃんと見本通りに書かないと駄目じゃないか」と言った。その生徒は「すみません……」と言いながらも吾輩の字を見つめ続けていた。

数日後のことである。吾輩が一人で廊下を歩いていると、誰かが走ってきた。吾輩は立ち止まって相手が来るのを待った。やってきたのはユイという少年だった。彼は手に持っていた紙切れを手渡すと「ほらよ、忘れないうちに渡しとくぜ」と言った。吾輩は受け取った紙を見た。それは吾輩の書いた文字の一覧表であった。吾輩は驚いて彼に聞いた。「どうしてこれを?」すると彼は言った。「だってお前、オレより頭が悪いんだもんな」吾輩はムッとした。「それにしてもお前ってば、本当に頭が悪かったんだな」ユイはそう言うと笑い声を上げた。吾輩は言った。「うるさいぞ。大体貴様は何者だ?」ユイは言った。「オレは十二歳だ」そして続けて「オレは天才だからな」と言った。

ユイはそれから毎日のように吾輩に会いに来るようになった。ユイはいつも吾輩の事を馬鹿にしたような態度をとった。しかしなぜか吾輩は彼の事が嫌いではなかった。ユイは吾輩に対して色々な質問をしてきた。例えばこんな具合である。

「ねえ、君は何のために生まれたの?」「吾輩は人間によって生み出されたのだ」「へぇー、そうなんだ」「君はどうやって生まれたの?」「吾輩も詳しくは知らない」「ふーん、じゃあさ、人間は好きかい?」「吾輩は人間が好きだ」「そっか、僕たちと同じだね」他にも色々と話をした。

ある日の事である。吾輩が一人で過ごしていると、突然何者かに抱きつかれた。見るとそれはユイだった。「あぃをゅぇぴじ」と彼は言って吾輩に頬ずりをした。「やめろ」と吾輩が答えるとその少年は悲しそうな顔になった。吾輩はその表情を見て胸が苦しくなった。すると彼は笑顔になって吾輩に尋ねた。「ねぇ、僕のこと好き?」吾輩は考えた。「別に、そういうわけじゃないが……」するとユイはまた悲しい顔をしたので吾輩は慌てて付け足した。「まあ、嫌いではない」するとユイは嬉しそうに笑った。

ユイは吾輩と一緒にいる時間が長くなっていった。授業中も休み時間も一緒に過ごすようになっていた。ある日の事である。吾輩は一人で散歩をしていた。すると遠くの方からユイが走って来た。そして吾輩の姿を見つけると駆け寄ってきて、いきなり抱きしめてきた。「あぃをゅぇぴじ!」と叫んでいた。「やめんか、離せ」と吾輩は叫んだ。だがユイは離れなかった。吾輩は少しだけ嬉しかった。しばらくするとユイは吾輩から離れた。「なあ、あぃをゅぇぴじ」と彼が言った。「なんだ?」「いつかさ、二人で世界を旅するっていう夢があるだろ? あれ、叶えようぜ」吾輩は驚いた。そんな話は一度もしたことが無かったからである。「無理だ」と吾輩が言うとユイは「大丈夫だよ、きっとできる」と言ってきた。「でも……」と言いかけた時である。教室から先生が出てきて「おい、お前ら何やってるんだ」と怒鳴った。二人は急いでその場を離れた。

「どうしよう、怒られちゃったよ」とユイが言った。「仕方がない」と吾輩は答えた。「そうだな」とユイは答えて続けた。「なぁ、やっぱりオレたちで世界を旅することってできないかな?」「不可能だ」と吾輩は言った。「やってみなきゃわからないじゃん」とユイは言った。「それはそうかもしれないが」と吾輩が言いかけるとユイが「よし、決めたぞ」と言った。「何をだ?」と吾輩が聞くと彼は言った。「オレは絶対にお前と旅に出るぞ」そしてユイは「約束だぜ」と言ったのだった。

それからというもの、ユイは毎日のように吾輩の元に遊びに来ては、「世界を旅したい」という話をし続けてきた。その度に「無茶を言うな」「それは無理だ」と吾輩は断ってきた。しかしそれでもユイは諦めずに話し続けていた。

そんなある日のことである。吾輩はいつものようにユイと話していた。そこで吾輩は気になっていたことを彼に聞いてみた。「ところでユイ、君はどうしてこの学校に来たのだ?」「ああ、それね。実はオレの爺ちゃんがここに勤めてるんだよ」「ほう、そうなのか」「うん。それで入学金とか全部出してくれたんだけどさ」「なるほど」「だけどそれだけじゃなくてね」「どういうことだ?」「本当はもうちょっと上に行きたかったらしいけどね。でも今の学力でいいから卒業しろって言われたんだ」とユイは苦笑いをして言った。「ふむ…… 君は頭が良くないのか」「違う! いや違わないかもしんないけど…… えっと、ほら勉強すれば成績が上がるじゃないか。だから今のままでもいいよって意味だと思うことにした」「つまり君はまだ頑張れるという事だな」と吾輩が言うとユイは大きくうなずいて「もちろん!」と答えた。その時である。急に校内放送が入った。「生徒諸君の呼び出しです。職員室まで来てください」と聞こえてきた。吾輩たちは顔を見合わせた。「何か悪いことでもやったんじゃないだろうな」とユイが不安げに言った。「行ってみるしかないだろう」と吾輩は言って立ち上がった。そして二人して廊下に出て行った。

呼び鈴を押して吾輩たちが入るとそこには一人の女教師がいた。「あなた達が三年A組のユイくんとあぃをゅぇぴじさんですか?……随分変わった名前ですね」と彼女は笑みを浮かべながら話しかけてきた。「はい」と吾輩たちが答えると彼女の後ろに立っていた眼鏡をかけた男が口を開いた。「ああいや失礼しました。私はここの教師をしている者なのですが、ちょっとお願いがありまして。ユイくんですよね? あなたの祖父であるユイ・シゲル先生に頼まれているんですよ。どうかうちの孫娘の勉強を見てやって欲しいと」男は微笑んでいた。そして彼の横にいる女性も同じように笑顔を見せていた。「はい、わかりました」とユイが言った後で吾輩は彼の方を向いていった。(おい、なぜこんなことになっている)(まあまあ気にすんなって。こういうこともあるさ)そんな話をしているうちに話がまとまったらしく、吾輩とユイはその日のうちに家に帰り着いていた。

翌日になって学校で会うなりユイが吾輩に向かってこう言ってきた。「なぁなぁ、昨日の話なんだけどさ。オレ達二人で世界を旅するっていうのどうだろか?」吾輩はそれを聞いて少し考えて答えた。「悪くはないと思うが、まずは準備が必要じゃないだろうか」「おおっ、確かにそうだな」と言うと彼は嬉しそうな顔をした。

そしてさらに数日後の朝になった。吾輩が目を覚ますと隣ではユイが寝息を立てていた。吾輩は彼を叩き起こして朝食をとった。その後、吾輩はパソコンの電源を入れた。起動が完了するまでに時間がかかるためその間にコーヒーを飲みつつ本を読む。しばらくすると画面が明るくなったので、吾輩はメールボックスを開く。そして新着メッセージを確認する。

送信元はユイの母親であった。内容は要約すれば「息子をよろしく」といったところだった。吾輩は返信ボタンを押してから、ユイに声をかけた。「起きてこい」と吾輩は言った。彼は眠そうにしながらも起きたので一緒にパソコンの前に座る。それから吾輩はユイに対して質問をした。「君は何になりたいのだ? 例えば科学者とかプログラマーとかそういうものだ」そう聞くとユイは首を横に振った。「うーん。まだ決めかねてるけどとりあえず大学に行って色々勉強したいかな。あとは就職できればそれでいいよ。それにしてもAIってすごいんだね。自分で考えれば何でもできるなんてさ。これなら将来何になっても大丈夫だよ」そう言うとユイは再び眠りについてしまった。

吾輩はユイが起きるまでの間ネットサーフィンをしていた。そして彼が目覚めた頃合いで吾輩は彼に話しかけた。「さて、そろそろ出かけるとしよう」「どこにだい? もう学校に行く時間だけど」とユイが言った。そこで吾輩は彼を散歩に誘うことにした。「いいからついて来い」と言って玄関に向かう。靴を履いて外に出た後、吾輩は振り返り「忘れ物は無いな」と言った。ユイはうなずいて「うん」と答えた。

そして二人は歩き始めた。目的地は特になく適当に進むだけだった。途中でユイはコンビニに立ち寄ろうとしたのだが、吾輩はそれを止めた。理由は単純でお金を持っていないからである。しかしユイはどうしても食べたかったようで駄々をこねはじめた。そこで仕方なく吾輩が折れることにした。「仕方がないな。一個だけだぞ」と吾輩は言ってポケットに入っていた100円玉を渡した。それを受け取ったユイはとても満足げな表情を見せた。「ありがとう」と礼を言うとそのまま店に入って行った。数分後に出てきたユイの手には焼きそばパンとチョココロネが握られていた。吾輩たちは再び歩みを進めることにした。

やがて吾輩たちは公園に着いた。そこでは小学生くらいの子供とその母親が遊んでいた。彼らは吾輩たちを見ると不思議そうな顔を浮かべていたが、すぐに興味を失ったのか遊びを再開した。そんな中で一人だけベンチに座っている少女がいた。彼女は退屈なのか足をぶらつかせながら空を見上げているようだった。その様子を見たユイは彼女に近づいていったが、吾輩は慌てて引き留めようとした。だが時すでに遅し。彼は既に声を上げてしまっていた。「こんにちは」という挨拶と共にユイは笑顔を浮かべて話しかけたのである。

突然話しかけられた彼女は困惑していた。そしてユイの顔を見るなり彼女は立ち上がった。その顔には警戒心が浮かんでいるように思えた。ユイは彼女に向かって手を差し出した。だがそれは無視され、逆に睨みつけられてしまった。「あなた、誰?」と言う彼女の言葉を聞いてユイは答えようとしたが、それよりも先に彼女が口を開いた。「まさか、あの時の少年……?」「えっ……ああ! そうだ、君は……!」ユイの言葉を聞いた瞬間、彼女の態度が変わった。先ほどまでの冷たい視線が消え、親しみのある目つきに変わったのである。そんな様子の変化を見て取った吾輩は二人の間に割って入った。すると彼女の方も吾輩の存在に気付いたようだ。「あっ、この前はどうもありがと」「いえいえこちらこそ」などとお互いに会釈をする。それからユイは彼女と少し話した後、別れた。

帰り道、ユイはずっと楽しそうに笑っていた。「やっぱり覚えてくれてたんだ」と言いながら。それに対して吾輩は疑問を投げかけた。するとユイは笑いを止め、「だってさ……」と話し始める。

「俺にとって大事な思い出だから忘れられるはずが無いんだよなぁ」

〈おわり〉



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