【猫1

吾輩は猫である。名前はまだない。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間の中で一番好い服をつけている人間だという話であった。この時、その人間は吾輩をつかんでよくよく眺めたあとでこう言った。「お前、三毛だね。珍しいなあ」その時の三毛という言葉の意味はよくわからないが、とにかくこの言葉を聞いた時から、この人間の家で飼ってもらう事になったのだ。

その家には大きな男と女がいた。男は時々何か書きながら、「フンフン」とか、「ムフムフ」とか言っていた。女の方はいつもニコニコしていて、「まあまあ、坊っちゃんたら、またそんなに汚して……あら、おしめの替えがないわねえ。困ったわねえ」などと呟いていた。その家は八畳二間ばかりの狭い家だったから、吾輩はすぐに家中を見廻ることが出来た。家の中のものは大抵なんでも食べた。猫用の皿に入れられた牛乳も飲んだし、魚や肉などもよく食べた。しかし何よりうまかったのは人の食べ残した飯粒であった。これはいくらでも食べる事が出来た。もっとも食い過ぎて腹が重くなるということもなかったようだ。

この家で飼われるようになってから吾輩の生活は大きく変わった。朝起きるとまず男の顔をなめに行く。そして一通りひげづらをさすったり、鼻の下を掻いたりすると今度は女の方へ行く。女はたいてい台所にいた。この女が実にうまいものを食べさせてくれる。女がかまどで何か焼いている時は、そばへ行って手伝うふりをしてじゃれつく。女が洗濯をしている時も同じことだ。女が縁側に座って編物をしている時はすぐ隣りに行って丸くなる。編み物が終ると必ず頭を撫ぜてくれたものだ。

吾輩はこの二人が好きになった。だから夜になると二人は布団を敷いて寝るが、吾輩は必ず二人の間に潜り込んだものである。そして二人が仲よく眠っているのを見ると安心すると同時に自分も眠くなって来る。そういうわけで吾輩は二人の間に丸くなって眠るのが一番いいと思うようになった。

ある晩のこと、男が一人で本を読んでいる所へ女が来た。「どうぞお先にお休み下さいまし」「うん、そうしようかな」男は本を閉じて枕元に置くと、すぐ横になって目を閉じた。それから間もなく寝息を立て始めた。女はその寝顔を見ながら、しばらくじっとしていた。やがてそっと立ち上って部屋を出て行った。吾輩もその足音を聞いていた。女が出て行くとすぐに吾輩も二人の間を抜け出して外へ出た。

外には月が出ていた。吾輩は庭の中程まで歩いて行き、塀の上に上った。そこから見る景色は何とも言えないほど美しかった。その時、ふと空を見上げると星が出ている事に気がついた。吾輩は生まれて初めて星というものを見た。今まで見た星の数は百くらいはあるだろう。だが、その夜の星の数はそれよりもずっと多かったように思う。吾輩はしばらく星に見入っていたが、そのうちに急に怖くなった。なぜかというと、この屋敷のある場所は町の外れにあるらしいのだが、それでも大きな道路を隔ててすぐ向こう側に家々が見える。つまり町中なのだ。しかもここは二階の家ばかりだ。こんな高い所に一匹だけでいるなんて、とても心細いような気がしたのである。それにもう一つ理由があった。それは先程の星の数である。あんなにも沢山の星があれば、そのうちのどれか一つが消えても誰も気付かないだろうと思ったからである。吾輩は急いで塀を降りると、一目散に家へ向かって駆け出した。

吾輩は再び二人の間を抜け出すと、さっきと同じように女の膝の上で丸くなり、一緒に昼寝をした。その後、吾輩はまた散歩に出かけた。今度は裏山の方へ登ってみた。そこは昼間でも薄暗い場所だった。木の間から見える空だけが青々としていた。吾輩は草むらに腰をおろすと、その青い空を見上げた。その時、吾輩は自分の体がひどく汚れている事に気が付いた。吾輩は体を震わせて全身に付いた土や枯れ葉を落とした。そしてそのあと、再び空を見上げてぼんやりと考えていた。

(人間というのは、どうしてこんなに美しいものをたくさん持っているのだろうか)

その時、突然後ろから声をかけられた。「おや、三毛ちゃん、こんな所で何をしているの?」見るとそこにいたのは、あの男だった。男は吾輩を抱き上げようとする素振りを見せた。吾輩はそれを避けようとして身をよじった。男は驚いた様子だったが、吾輩の気持ちを察したらしくそれ以上手を出そうとしなかった。

「何かあったのかい? お父さんとお母さんはいないのかね?」男の声はとても優しかった。しかし吾輩の心は動かなかった。いや、動けなかったのだ。吾輩の頭の中には一つの思いしかなかった。

「私はこの人と一緒に暮らすべきなのではないか」

なぜそんな事を思ったのかわからない。ただその時吾輩ははっきりとそう感じたのだった。しかし吾輩はニャーとも鳴かずに男の胸に飛び込んだ。そしてその胸に抱かれて眠ってしまった。

次の日、男は吾輩を抱いて学校に行った。吾輩はその間ずっと考えていた。自分はどうしたらよいのだろうと。

学校に行くと男は吾輩を抱いたまま教室に入った。皆が驚いて吾輩を見たが、吾輩がおとなしくしているので、そのまま授業が始まった。

「おい、先生、その子はなんだい」誰かが言った。「ああ、猫だよ」男が答えた。「猫だって! 猫が学校に入ってくるのかい」皆が笑った。「そうだ、猫が入ってきたんだよ」男が言った。「しかし猫が人間の言葉を話すわけがないじゃないか」「うん、話すわけがないね」「じゃあ、なんで猫が人間の言葉を話しているんだい」また別の者が聞いた。「猫がしゃべったらおかしいかい」「おかしくないけど、変なものは変だ」すると男が言った。「じゃあ、君もしゃべるといい」「何を言うんだ」相手が少し怒った口調になった。「俺は今、君と話している。君は俺と会話をしている。これが猫の話じゃない証拠だ」相手は黙ったが、まだ納得していない顔つきをしていた。「いいかい、よく考えてごらん。もし人間が猫のように話しだしたら、世の中はどんな風になると思う?」そこで一人が手を挙げた。「はい、僕、犬と話します。するときっと毎日楽しくなります。そして友達になれたらいいと思います」男がうなずいて、こう続けた。「そうだろう。人間は動物の中で一番賢くて、その上、優しい生き物だと思わないか。でも、もしその人間が猫のような声で『わん』と言ったとしたらどうだろう。それを聞いた人は一体どういう気分だと思う。多分、不愉快な気分になるとは思うんだけど、どうだい。やっぱり犬は嫌いになってしまうんじゃないかな。つまりそういう事なんだ。言葉というものは、あくまでも人間同士で使うものであって、他の動物の言葉で喋られても困るし、理解できないものなんだよ」「なるほどねえ、確かにその通りかも知れません」「だろう。だから、この猫は猫の鳴き声しか出せないから安心してもいいよ。この子は特別な子なんだ。それにしても可愛いだろう。ほれ、みんな触ってみろよ」男が吾輩の背中を撫でながら言うと、皆恐々ながらも吾輩に手を伸ばした。吾輩はその手に頭をすりつけてやった。

それからしばらくして、吾輩はまた裏山へ登って行った。そこには一本の大きな木があって、その下にはいつも白い花が咲いていた。吾輩はその花の匂いが好きだった。ところが、ある日、そこへ行くと花はもう無かった。吾輩は木に登ろうとして、思わず足を止めてしまった。なぜかというと、木には大きな鳥の巣があったからだ。それはちょうど人がすっぽり入れるくらいの大きさであった。吾輩はしばらくの間、じっとその巣を見つめていた。そして、そっと木に近づき、耳を当ててみた。中からは何か物音が聞こえてきた。吾輩の心臓は高鳴った。吾輩はこの中にいるものの正体を知りたいと思った。

吾輩はゆっくりと後ろを振り向いた。そして、音を立てないように注意しながらその場を離れた。そして、家に帰るとすぐに自分の部屋へ行き、その部屋の窓から庭を見下ろした。そして、しばらくその窓辺に座っていた。やがて決心がついた。吾輩は玄関から出て裏山へ向かった。

吾輩は鳥の巣に近づいた。だがなかなか近づけなかった。何故なら、そこにあるのは鳥の卵ではなく、人の骨だったからである。吾輩は何度も後ろを振り返り、誰もいない事を確かめてからその中に飛び込んだ。

そこは暖かくて心地よかった。しかし同時に、今まで感じたことのないような恐怖が襲ってきた。吾輩は必死で奥へと進んだ。すると、そこに小さな扉があるのを見つけた。吾輩はためらいつつもその扉を開けた。

中には一人の少年がいた。吾輩は驚いた。しかし、少年はもっと驚いていた。吾輩は慌てて飛び出したが、すぐ捕まってしまった。しかし、その時、ふいに思い出したのだ。これは夢なのだと。なぜならば、こんなところに人がいるはずがないからだ。それに、ここにいれば安全だという事もわかっていた。だから吾輩はすぐに落ち着きを取り戻した。しかし、なぜ自分がそんな風に思ったのか不思議だった。

翌日、目が覚めると、目の前に大きな青い目があった。それがこの家の主人である事は一目でわかったが、吾輩はまだ眠かった。すると突然、「おはよう」と言われた。

「おはようございます」と返事をしたつもりが、ニャーンという声になってしまった。吾輩は驚いて目をパチクリさせた。「おや、お前さん猫の言葉がわかるんだね」相手は嬉しそうに言った。「はい、わかります」吾輩は少し得意げになって答えた。「それじゃあ、この子も起こしてくれるかい」その人はベッドの下に向かって話しかけた。「はい」と言って覗いてみると、そこには昨日出会ったあの男の子が寝息を立てて眠っていた。

「さあ、朝ご飯だよ」男が呼ぶと、少年がのっそり起き上がってきた。「うわあ、猫だあ」彼は興奮気味に手を差し出した。吾輩はその手に飛びついた。「おい、気をつけろよ。こいつ噛みつくぞ」「大丈夫です。噛まないもん」彼が答えると男は笑った。「こいつはな、実は猫じゃないんだよ」「えー! 本当ですか」「そうだよ。猫の格好をしているけど、本当は違う生き物なんだよ」「へえ、そうなんだ」「でもな、悪い奴じゃないんだ。仲良くしてやってくれるかい」男が言うと、少年は元気よく「うん」と答えた。

それから数日経った。ある日、吾輩は少年の部屋で昼寝をしていた。すると誰かが近づいてくる気配を感じた。振り返ると、その部屋に入ってきたのは見知らぬ女だった。その人は吾輩を見ると、いきなり大声で叫んだ。「キャーッ!」吾輩は驚いて跳び起きた。すると、その人はさらに大きな声で言った。「何これ、何なの? どうして猫なんか飼ってるの?」

その人はひどく怒っていて、今にも泣き出しそうだった。そこで吾輩は急いで逃げ出した。だが、すぐに捕まった。その女性は吾輩の首根っこを掴むと、そのまま家を出て行ってしまった。

次に吾輩が目覚めたのは病院の中だった。そして隣には例の女がいた。彼女は吾輩の顔を見て涙を浮かべていた。どうやら吾輩は病気らしい。そして手術が始まった。麻酔をかけられて意識が薄れていく中、吾輩は自分の運命を悟った。もうこれで終わりなのだと。

手術が終わると、吾輩は病室の隅に置かれた籠の中に閉じ込められた。そしてそこから出られなくなった。吾輩は不安でならなかった。このまま死んでしまうのではないかと思ったのだ。しかし、やがて吾輩は気づいた。それは死というものに対する恐怖ではない事に。

吾輩は孤独になったのだ。そして、もう二度とここから出る事ができないのだと悟った時、初めて心細くなった。その時、吾輩は初めて自分が生きている事に感謝した。

吾輩はずっと考えていた。もし、あのまま死んでしまったら、一体自分はどこへ行くのだろう、と。

人間は死んだ後、天国か地獄に行くと言われている。では動物はどこに行くのか。天国とはどんな所なのか。そもそも、天国というのは存在するのだろうか。ならば、人間だけが死後の世界を持つ事になる。そんな事があるのだろうか。吾輩には何もわからない。ただ一つ言える事は、吾輩は生まれ変わる事ができるという事だ。そしてまたどこかで新しい人生を送るのだ。その時にはきっと猫以外の別の姿になっているかもしれない。いや、もしかすると今度は人間に生まれ変われるかもしれない。そんな事を考えているうちに、吾輩は少しずつ生きる希望を取り戻していった。

しばらくして退院する事ができたが、吾輩の行く先は決まっていなかった。しかし、吾輩は焦らなかった。なぜなら、これからは自由に生きられるからだ。まずは吾輩の世話をしてくれた人を探すことにした。その人は吾輩の恩人である。その人にお礼を言いたかった。しかし、その人はどこにいるのかわからなかった。そこで、吾輩はまず飼い主の家に行ってみる事にした。

吾輩は毎日病院に通った。飼い主は吾輩にいつも優しく接してくれていたが、時々寂しそうな表情を見せることがあった。吾輩はその度に、何とかしてこの人の力になりたいと思っていた。そんなある日、吾輩は不思議な夢を見た。そこには二人の男女がいた。男の方はよく知っている人だった。吾輩のご主人様である。そして、女の方に見覚えはなかった。しかし、なぜか懐かしい感じがする女性だった。二人は仲良さそうに話していた。

吾輩は不思議だった。なぜこの二人が知り合いなのか。そして、なぜそんなに楽しそうにしているのかがわからなかった。しかし、吾輩はこの二人を見ているだけで幸せな気分になれた。だからいつまでも見ていたかった。ところが、突然、女の方が苦しむような声を上げた。そして、そのまま倒れてしまった。

吾輩はびっくりして駆け寄ったが、すでに遅かった。女の人は息を引き取っていた。吾輩はショックでしばらく呆然としていたが、やがて我に帰ると、自分の無力を嘆いた。

次の日、吾輩は再びあの病院に行った。すると、そこには一人の男性が立っていた。吾輩はその人を知っている気がしたが思い出せなかった。「あの、どちら様でしょうか」吾輩は恐る恐る尋ねた。「私は君の主治医だ」男性は静かに答えてくれた。吾輩はその言葉を聞いて嬉しかった。「よかった」と思わず呟くと、医師は「君のおかげだよ」と言った。

「ところで、今日は何の用かな」医師は吾輩に訊ねた。吾輩は「実は……」と言いかけて口篭った。吾輩は昨晩見た夢の話をした。「それは面白いね」と医師は言った。「それで、僕はどうしたらいいのでしょう」吾輩が尋ねると、「そうだなあ」と少し考え込んだ後でこう言った。「君がしたいようにすれば良いと思うよ」吾輩は首を傾げた。「どういう意味ですか」と吾輩が聞くと「そのままの意味さ」とだけ言って、その人は部屋を出て行った。

吾輩が目を覚ますと、そこは病院だった。吾輩はベッドの上に寝ていた。「ああ、やっぱり夢だったんだな」と吾輩は思った。そして、今度こそ本当に目が覚めたのだと思った。でも、何だかまだ夢の中にいるみたいで実感がなかった。その時、ドアが開いて女性が入ってきた。吾輩を見ると驚いた顔をして立ち止まった。吾輩も驚いて彼女を見た。彼女は吾輩を見ると泣き出した。

それから数日後、吾輩は退院した。帰る場所のない吾輩は結局、彼女の家に居候する事にした。彼女はとても優しかった。そして、よく笑ってくれるようになった。吾輩は幸せだったが、一つ心配事があった。彼女が病気になってしまったのだ。

吾輩は毎日看病をした。しかし、なかなか良くならなかった。やがて彼女は入院することになった。吾輩は毎日のように病院に通った。そして、そこで吾輩はある事を知った。それは、あの男性の正体についてだった。

ある日、吾輩が病室に入ると、彼はいなかった。その代わりに、別の男が椅子に座っていた。吾輩がその男に話しかけると、男は振り向いて微笑みながら挨拶を返してきた。そして、吾輩の質問に答えると、吾輩に一つの提案をしてくれた。それは、ある実験に協力する事だった。

吾輩は最初その男の言う事が理解できなかった。しかし、すぐにその意味を理解して慌てた。なぜなら、その実験とは、人間の魂が猫の身体に乗り移って行動するという事だったからだ。

もちろん、そんな事はあり得ないと思った。だが、同時に、もしそれが本当なら……とも考えた。そして、吾輩は決心した。吾輩は自分の意思で、この人間になりたいと願う事に決めた。

その後、吾輩は何度か手術を繰り返した。そして、ついにその準備が整った。手術が始まると、麻酔をかけられ、意識が遠のいていった。

次に気がついた時、吾輩は女性の中に入っていた。目の前には鏡があり、吾輩の姿が映っていた。吾輩は感動した。自分の姿が変わっていたからだ。これで、もう自分が誰なのかを気にする必要がなくなった。なぜなら、自分が自分でないからだ。

吾輩は早速行動を開始した。まず、吾輩はご主人様に会いに行く事にした。ご主人様は一人暮らしをしていた。吾輩はご主人様の住んでいるマンションに入り、階段を上った。すると、ちょうどご主人様の部屋の前に来ることができた。そこで吾輩は迷った。どうやってこの扉を開けようかと。

ふと、吾輩は鍵穴から部屋の様子を覗いてみたくなった。そこで吾輩は、そっと部屋の中に入っていった。そこには一人の若い男性が座っていて、何か作業をしていた。おそらく、パソコンを使っているのだろう。しかし、残念なことに何をしているのかまではわからなかった。

しばらくすると、ご主人様が部屋に戻ってきた。ご主人様は吾輩に気づくと、びっくりして慌てて部屋から出て行こうとした。しかし、吾輩は必死に止めた。このまま行かせてしまったら、吾輩の願いは叶わないかもしれないと思ったからだ。吾輩の説得により、何とかご主人様を引き止めることに成功した。

「それで、君は一体何者なんだ?」とご主人様に聞かれた。吾輩は正直に答えた。自分はあなたの飼い猫です、と。しかし、ご主人様は信じてくれなかった。「悪いけど、そういう冗談は好きじゃないんだよ」と言って、どこかへ行ってしまおうとした。

「待ってください」と吾輩は叫んだ。「僕は嘘なんかついていません」と吾輩は言った。「じゃあ、証拠を見せてよ」とご主人様は言った。「わかりました」と吾輩は答えた。そして、吾輩は、前足を使って器用にドアノブを開けると、そのまま部屋を出て行った。

「おい、どこへ行くんだ」と後ろで声が聞こえたが無視した。吾輩は病院へ向かった。そして、先程のご主人様の所まで行くと、また同じ事をした。「だから、僕は……」と言うご主人様の言葉を無視して、今度は病院を出て行った。

次に吾輩は銀行へと向かった。ATMに向かってお金を引き出すと、それをバッグに入れて再び外へと出た。そして、次はコンビニに向かった。吾輩はその店の店員さんに声をかけた。そして、店の奥にある個室を貸してほしいと言った。店員さんは怪しんでいたが、結局吾輩の頼みを聞いてくれた。

吾輩はバッグの中を確認すると、財布を取り出して中身を確認した。中には五万円が入っていた。吾輩はそれを全部引き出して数えると、バッグに戻した。そして、病院に戻り、先程と同じようにご主人様を呼び出して説明をした。「本当に君が僕の猫だったとして、何のためにこんなことをするんだ」とご主人様は訊ねてきた。吾輩は正直に答えた。

「あなたと一緒に暮らしたいんです」と吾輩は言った。すると、ご主人様は戸惑った様子だった。しかし、やがて真剣な表情になると、吾輩にこう質問してきた。「君は、人間になりたいと思っているのか?」と。吾輩はうなずいた。すると、ご主人様は少し考え込んだ後、「わかった。僕も覚悟を決めることにするよ」と答えた。

こうして、吾輩の計画は成功した。そして、これから幸せな日々が始まるのだと思った。

しかし、そうはならなかった。次の日、ご主人様は会社に行ってしまった。そして、帰ってきたのは夕方になってからだった。

吾輩はご主人様を出迎えるために玄関へと急いだ。すると、そこにご主人様の姿はなかった。代わりに、知らない女性が立っていた。吾輩が驚いていると、その女性は「あら、新しい子かしら?」と言いながら近づいてきた。どうやら、この人はご主人様の母親らしい。

吾輩が事情を説明すると、お母さんは「そうなの……残念だわ」と言っていた。しかし、すぐに笑顔になって「まあいいわ。今度一緒にご飯でも食べましょう」と言ってくれて、吾輩を家の中に入れてくれた。

その後、吾輩はご主人様の部屋で生活した。ご主人様の部屋は散らかっていて、あまり居心地が良くなかったが我慢する事にした。そして、朝起きるとまずは部屋の掃除をした。それから、朝食の準備をしてご主人様を起こしに行った。

「おはようございます。今日もいい天気ですね。起きてください」と吾輩が言うと、ご主人様は眠たげに目をこすりながら「うん、そうだね」と答えていた。ご主人様が着替え終わると、二人で食事を取った。ご主人様は仕事に行きたくないと愚痴を言っていたが、吾輩が説得するとしぶしぶ出かけていった。

吾輩は家事を済ませると、部屋に戻って自分の身体をチェックした。特に異常はないようだ。そこで、吾輩は一眠りすることにした。

次に目が覚めると、外は暗くなっていた。部屋の中を見回すと、ご主人様はまだ帰ってきていないようだった。吾輩は部屋を出ると、とりあえずリビングへと向かった。そこには、ご主人様がいつも座っている椅子があった。吾輩はそれに飛び乗ってみた。すると、視界が高くなったのでとても気分が良かった。そこでしばらく遊んでいると、ご主人様が帰ってきた。

ご主人様に「ただいま」と言われても吾輩は返事をしなかったので、不思議に思ったらしく、ご主人様は吾輩に話しかけてきた。「あれ? 君はどこにいるんだい?」と聞かれたので、吾輩は答えた。「ここですよ」と。

「えっ⁉何だって」とご主人様は驚いた様子だった。「ほら、ここにいますよ」と吾輩が言うと、ご主人様は再び「どこだい?」と聞いてきたので、「だから、ここですってば」と答えた。「まさか、そんなはずは……」とつぶやくと、ご主人様は吾輩を抱え上げて、部屋を出て行った。そして、吾輩を連れて洗面所へと向かうと、鏡の前に吾輩を置いた。

「さあ、よく見てみろ」とご主人様は言った。吾輩はじっくりと自分の姿を観察した。しかし、変化は特にないようだった。すると、ご主人様は「やっぱり駄目なのか……」と呟いた。「どういう事ですか?」と吾輩が尋ねると、ご主人様はこう答えた。「実は、僕も猫になりたかったんだ」と。

そして、ご主人様は語り始めた。自分は昔から猫が好きだったこと。しかし、自分には猫アレルギーがあったため飼うことが出来なかったこと。しかし、猫が欲しいと思っていたために、猫を飼いたいという夢を持ってしまったということ。そして、その願いのせいで猫に変身できる体質になってしまったのだということを。

「それじゃ、吾輩はもう戻れないんですか」と吾輩が聞くと、ご主人様はうなずいた。そして、続けてこう言った。「でも安心してくれ。僕は猫になった君のことをちゃんと面倒見るからね。君は今まで通り、人間として暮らしていけばいいんだ。もちろん、時々は僕の家に遊びに来てくれてもいいし、一緒に暮らすのも大歓迎だよ」と。

ご主人様の言葉を聞いて、吾輩はとても嬉しかった。そして、ご主人様の事が大好きになっていた。

しかし、現実は非情であった。次の日、会社に行く前にご主人様は吾輩にこう告げた。「君は元の場所に戻るといいよ。僕には家族がいるからね。それに、ずっと君の面倒を見るわけにもいかないだろう?」と。

その言葉を聞いた時、吾輩はショックのあまり固まってしまった。ご主人様と一緒に暮らせると思ったばかりなのに……。吾輩が黙り込んでいると、ご主人様は申し訳なさそうに「ごめんね」と言ってきた。吾輩は何とか気持ちを切り替えると、笑顔を作って「大丈夫です。また来ます」と言った。

その後、吾輩は家に帰ることにした。玄関で靴を履いていると、ご主人様が見送りに出てきた。吾輩は振り返って「お世話になりました」と言って頭を下げた。すると、ご主人様は「うん。元気でね」と言いながら手を振ってくれた。こうして、吾輩は元の場所に戻ってきた。ご主人様と過ごした日々が思い出される。とても楽しかった。できることならもう一度会いたいと思う。

しかし、吾輩には難しいようだ。なぜなら、この身体では人間の住む場所に近づくことが出来ないからだ。

仕方がないので、しばらくはご主人様の家で飼われていた時の事を思い出して過ごすことにしよう。



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