【猫10

吾輩は猫である。名前はまだない。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番えらい人間であったそうだ。この人間はたびたび我々の所へ遊びに来て、我々に菓子など呉れる。我々はこの人間が大好きだ。この人間の来る日も来る日も読んでいる書物の傍に行って一緒に読んでやる。するとその書物には世界の歴史とかなんとかいろいろ書いてあるようだ。しかしてこの書物は決して絵のない絵本のように、我々の語って聞かせる物語とは違っている。この書物の中には時々猫や犬や鳥が出てくる。また草花や木なども出て来る。しかしただそれだけだ。話はないのだ。ただこの人間と一緒にそれらの絵を見て、それについて語り合うだけだ。けれどもこの人間はあまり我々の語る物語を好まないようで、めったに聞いてくれない。ところがある日の事この書斎に例の書生が来て我々に向かって言った。「お前達、こっちへおいで」そして彼は我々を抱き上げて自分の膝の上に載せた。我々はおとなしく彼の膝の上に乗って彼の読む本を一緒に読んだ。本の中に「鼠捕り男」という話があった。それはこんな話だった。

むかし、ある国に鼠取り名人というのがあって、いつも大きな鼠を取っていましたが、ある日のこと王様からお礼として一年分のお金を貰いました。そこで早速家に帰るとそのお金で買物に行きました。さあ帰ろうと思って大通りに出ますと、一人の乞食が立っていて、「どうか私にも一口食べさせて下さい。私はもう二週間何も食べていません。このままでは死んでしまいます」と言いました。鼠取り男は可哀そうになって、持っていたパンを一切れ差し出してやりました。すると見る間にその乞食は大きな鼠になりました。そしてあっという間もなく鼠取り男の喉笛を食いちぎってしまいました。鼠取り男が目を覚ましてみるとそこは天国でした。なぜならば今までの一生の苦労はすべて消えてしまい、一文無しになった代わりに金持になっていたのです。その後鼠取り男は毎日金持ち暮らしをして楽しく暮しました。めでたし、めでたし。(完)

吾輩は猫である。名前はまだない。

吾輩は今朝早く目が醒めた時、何とはなしに庭に出てみたくなった。吾輩は時々こうして気まぐれに外へ出て行く事がある。大抵は雨降りが多いのだが、今日のような晴天の時は外に出ずにはいられない。そこで吾輩は玄関の戸を押し開けると、そっと外に出た。あたりを見回すと、ちょうど隣の家の縁の下に一匹の子猫がいるのを見つけた。それは灰色の小さな子猫であった。吾輩はその子猫に近づいて行って「ニャーオ」と言ってみた。すると向こうも「ニャアアーウ」と返事をした。どうやら言葉が通じるらしい。しばらく二人で話をした後、吾輩はその小さな友達を連れて近所の公園に行った。吾輩と友は砂場で山を作った。それからブランコに乗った。そのあとは鉄棒に上った。次にすべり台に上った。最後にジャングルジムの上で寝転んだ。するとだんだん眠くなって来た。そのまま吾輩は眠り込んでしまった。やがて夕方になって目が覚めると、そこにはもうあの子の姿はなかった。(了)

吾輩は猫である。名前はまだない。

吾輩は昨夜遅くまで主人の書斎にいて、いろいろな本を読んでいた。するとそこへ突然睡魔が襲って来た。吾輩はふだんならそんな事は滅多にないので、少し驚いた。しかし吾輩は元来怠け者なので、こういう事もたまにはあるだろうと諦めて、机の下で丸くなっていた。しかしなかなか睡魔は去らない。とうとう我慢が出来なくなって、吾輩は書斎から出て行った。廊下に出るとすぐそばの居間からは灯がついている。誰か起きているのかと思いながら、吾輩はそのまままっすぐ台所へ向かった。台所には誰もいなかった。しかし何かいい匂いがしている。吾輩は思わずクンクン鼻を鳴らして嗅いでみた。これはカレーライスだなと思った。なぜだかわからないけれど、急に腹が減って来た。しかしその時吾輩はハッとした。ここにいると必ずやつが来るにちがいない。あいつが来たら大変だ。吾輩はすぐに逃げ出そうと思った。ところが逃げる前に奴の方が先にやって来た。

「おや、お前こんな所に紛れ込んでいたのかい」

そう言って奴はニヤリと笑った。そして吾輩の首根っこを掴んで、吾輩を持ち上げようとした。吾輩は必死に抵抗したが、結局負けてしまった。そして吾輩はまたもや奴に連れられて風呂場へ連れて行かれた。そして今度は湯舟の中に放り込まれた。「こら、じっとしてろよ」という声がして、次の瞬間いきなりザブーンとお湯をかけられて、吾輩は危うく溺れるところだった。

「よし、これで大丈夫だ」

奴の声を聞きながら吾輩がぶるぶる震えていると、突然目の前にシャンプーの泡が飛んできた。「わっ」と思っているうちに、またもやざぶんとお湯の中に落とされた。「こいつ、生意気に歯なんか立てて」という声とともに、顔にもお湯がかけられた。「うーむ、なかなか手ごわいなあ」と言うなり、奴は再び吾輩を持ち上げて、お湯の中へ投げ込んだ。

やっとお許しが出た時には、吾輩はすっかり疲れ果てていた。しかし奴はまだ満足しないらしく、吾輩を抱き上げると、タオルでわしわし拭き始めた。「お、こいつはふかふかで気持ちいいぞ」と言いながら、奴は吾輩の毛をいじくり回した。そのうちに吾輩はなんだか眠たくなってきた。

「おや、お前、こんな所で寝ちゃ駄目だよ。風邪引くじゃないか」

そう言いながらも、奴の手つきはとても優しかった。吾輩は夢の中で奴の膝の上に乗っていた。(了)

吾輩は猫である。名前はまだない。

吾輩は時々夜中に目が醒める事がある。そういう時吾輩はたいてい縁側に出て外を眺める事にしている。今日も吾輩はいつものように縁側に出てみた。すると庭には一匹の大きな犬がいた。その大きな黒い犬は吾輩を見ると、うれしそうな声でワンと言った。吾輩はちょっと警戒しながら、恐る恐る近寄って行った。すると相手も吾輩の方へ近づいて来た。どうしようかなと思いながら、吾輩がじりじり後退っていると、向こうはいきなり飛びかかって来た。吾輩は驚いて逃げ出したが、相手も追いかけて来る。吾輩は走り回って逃げたが、とうとう追い詰められてしまった。その時どこからともなく女がやって来て、その犬を追い払ってくれた。(了)

吾輩は猫である。名前はまだない。

吾輩が物心ついた時から、主人と母親はいつも喧嘩をしていた。だから吾輩は毎日その仲裁をするはめになった。ある時などは主人に殴られたり蹴られたりした。またある時は母親に叱られて泣いたりした。だが吾輩は決して家出をしなかった。なぜならば吾輩には帰る所があったからである。吾輩には一匹の友達がいるのだ。それは白い猫で、名前はシロといった。この白猫とは生まれた時からの知り合いなのだ。

ある日の事であった。その日は朝から雨降りだった。吾輩は退屈だったので、シロと一緒に散歩に出かけた。すると途中で雨宿りをしている若い女の人と出会った。「こんにちは」と言って、彼女はにっこりと微笑んだ。「あらまあ可愛い子ね」とシロを見て言った。「おいで」と彼女が言うと、シロは喜んで彼女の傍に行った。「じゃあ私は行くけど、あまり遠くまで行っちゃだめよ」そう言って彼女は去って行った。それから吾輩たちはしばらく一緒に遊んでいたのだが、やがて雨が強くなって来たので、仕方なく家に帰って行った。

夕方になって吾輩たちが帰ってくると、母親が出迎えてくれた。「お帰りなさい」と言って、吾輩たちを抱きしめて頬ずりする母親の横には、なぜか父親がいた。「おとうさんもいたの?」と吾輩は聞いた。「うん、そうだよ」父親は答えたが、少し元気がなかった。

その夜、吾輩たち家族は居間に集まって話をした。「ねえ、おとうさん、どうしてきょうはいやなかおしてたの?」と吾輩が聞くと、父親は難しい顔をして黙ってしまった。「きっとお仕事がうまくいかなかったんだよ」と母親が代わりに教えてくれた。「おかあさん、おとうちちげんなおせる?」と吾輩は聞いてみた。「さあ、どうかしら」と母親は首を傾げた。「だって、けんかしてるとかわいそうだよ」「大丈夫、すぐに仲直りするわ」と母親は言った。しかし吾輩はその晩、なかなか寝付けなかった。

翌日、吾輩が起きた時にはもう父親はいなかった。「おとうさん、おしごと?」と吾輩は母親に尋ねた。「ええ、昨日の続きの仕事があるんですって」と母親は答えた。「ふーん」吾輩は何だかつまらなかった。しかしシロは相変わらず吾輩に甘えて来ていた。「おや、今日はお兄ちゃんは一緒じゃないのか」と父親がやって来た。「おとうさん、おとうちっちげんなおせたの?」と吾輩は父親に尋ねてみた。「うーむ、まだちょっと無理かなあ」と父親は困ったように頭を掻いていた。

吾輩は時々思う事がある。もしも自分が人間だったらどんなだろう? と。そして吾輩はいつも考えるのだ。もし吾輩が人間の子供なら、父親と仲良くする事ができるだろうか、と。人間は犬と違って嘘をつく事があり、それを吾輩は知っている。だから吾輩は人間が嫌いである。(了)

吾輩は猫である。名前はまだない。

吾輩が生まれて間もない頃、母親は吾輩に名前を付けようとしてくれたらしい。ところが父親はそれに反対したという。なぜなのかは分からないが、吾輩はこの名前が気に入らない。だから吾輩は未だに自分の名前を知らずにいる。

ある日の事であった。その日は朝から小雨が降っていた。吾輩は暇だったので、散歩に出かけてみようと思った。だが玄関を開けようとした時、ちょうど父親が通りかかったので、「おいていくな」と抗議した。すると父親は吾輩を抱き上げてこう言った。「お前には首輪がないから迷子になっちゃいけないと思ってね」確かに吾輩には首輪はなかった。だが吾輩はそんな事を心配されたくはない。吾輩は自分の意志で行動しているのだ。だから吾輩は父親の腕の中で暴れてやった。「こらっ! おとなしくしなさい!」と父親は怒鳴ったが、吾輩は負けずに抵抗を続けた。やがて吾輩は外に放り出されてしまった。

雨の中を歩いているうちに吾輩はだんだん腹が立って来た。こんなに寒いのに吾輩を置いて行くなんてひどいではないか、と思う。だから吾輩は家に帰るのをやめた。そのまましばらく歩いて行くと、目の前に大きな川が現れた。吾輩は川を眺めながら考えた。

(このままずっと雨の中にいるのも悪くないか)

だがその時、向こう岸に見覚えのある顔を見つけた。それは主人だった。彼は傘を差して吾輩の方に向かって手を振っている。どうやら吾輩を探しているようだ。

吾輩は少し考えて、再び歩き出した。

吾輩が家に帰ってみると、すでに母親は帰宅していた。彼女は吾輩を見ると「あらまあ、どこに行っていたの?」と言った。「べつに」と答えると、彼女は微笑んで吾輩の体を撫でてくれた。

その日の夕食後、吾輩は父親に文句を言いに行った。「おとうちちげんはなおったの?」と吾輩は尋ねた。「いや、まだ駄目だ」と父親は答えた。「じゃあなんでぼくをおっぽっていったの?」と聞くと、父親は黙ってしまった。それから少し経って母親が口を開いた。「お父さんにもいろいろあるのよ」と母親は答えた。「ふーん」吾輩はまだ納得がいかなかった。

次の日の朝、吾輩は母親と一緒に庭に出た。そこには父親がいた。「おはよう」と挨拶をしたのだが、なぜか父親は吾輩の方をチラリとも見なかった。吾輩が近寄っても無視した。「おとうさん、おとうちちげんなおった?」と吾輩が尋ねると、今度は父親が「うるさい」と言ってきた。「え?」と吾輩は驚いた。「もう話しかけるな」と父親は言った。「おとうさん、どうして?」と吾輩は聞いた。しかし父親は答えてくれなかった。

吾輩は毎日のように父親に話しかけた。しかし父親はまったく相手にしてくれなかった。それでも吾輩はめげなかった。そんなある日、吾輩は母親に聞いてみた。「おかあさん、おとうさんとおはなししないの?」すると母親は悲しげな顔をして言った。「もういいのよ」

それから数日経ったある日、吾輩が居間で遊んでいると、父親がやって来た。「おう、何だか楽しそうだな」と父親は吾輩に声を掛けてきた。吾輩は嬉しくなって父親に駆け寄り、「おとうちちげんはなおったの?」と質問した。しかし父親は困ったような表情を浮かべて言った。「まだ治らないんだ。ごめんな」吾輩はそれを聞いてガッカリしてしまった。父親は吾輩に謝ってから部屋を出て行った。

数日後、また父親は吾輩に話しかけて来た。「今日はお前の誕生日なんだぞ。プレゼントを買って来てやったぞ」そう言って父親は吾輩にリボンをくれた。吾輩は大喜びである。早速そのリボンを首に巻いてみた。なかなか似合っている。父親は吾輩の写真を撮ってくれた。とても良い写真だった。

その日から吾輩は父親と会話をするようになった。

吾輩は時々考える事がある。もしも自分が人間ならどんなだろう? と。そして吾輩はいつも考えるのだ。もし吾輩が人間の子供なら、父親を尊敬できるだろうか、と。人間は嘘をつく生き物であり、それを吾輩は知っている。だから吾輩は人間が嫌いである。(了)



inserted by FC2 system