【猫12

吾輩は猫である。名前はまだない。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番利口な人間だそうであった。この人間は時々吾輩をつれて散歩する。吾輩はこの人間のことが大好きである。なぜならばこの人間はめったに怒らないからだ。吾輩のいたずらにも、こりずにニコニコ笑っている。吾輩の言葉もだいぶ通じてきたようである。しきりに「ハイ」とか「イイエ」とかいって感心している。

ところでこの頃妙なものを見るようになった。なんでも書庫の中や往来で大きな声を出して議論をしている人間がある。その議論の声を聞くたびに吾輩の胸はむかつく。なぜだかわからんが腹が立つのだ。ある時など我慢できなくて飛びかかって行ったら、すぐ下僕に取り押さえられた。それからというもの吾輩はこの家の主人の書斎にはいられなくなった。あそこはどうも気に入らない。なぜかわからんが厭な気分になるのだ。しかし吾輩は元来冒険好きだから、こんな所にいるより外に出る方がよいと思って、よく戸棚の上などに上って外の景色を見る。ここから見ると人間どもが何やらひどく小さく見える。たいていの奴は足の下に踏みつぶせそうだ。ただ一ばん小さい奴でも、四尺六寸はあるだろう。そんなことを考えながら見ていると、時々小さな人間が吾輩の方を見て何か言っていることがある。何を言ってるかわからないが、大体次のようなことらしい。「おい、猫がいるぞ」「ほんとだ。珍しいな。」「あれはきっと化け猫だよ。」「馬鹿いえ。あんな可愛い猫が化け物なんかなもんか。」「じゃあお前はあの猫見たことがないのか。」「ああ、一度もないね。」「それ見ろ。お前の目は節穴だ。」「何だとこの野郎。喧嘩売ろうっていうのか。」こんな具合だ。一体あいつらは何を争っているんだろうと、吾輩はいささか興味を持った。

ある日のこと例の大きな書庫の前を通りかかった時、ふとその扉が開いているのに気付いた。中には誰もいないようだ。よし、ちょっとばかり探検してやれと、吾輩はその中へはいってみた。中は思ったよりも広い。壁一面ぎっしりと書物が並んでいる。奥の壁には大きな黒板のような物が掛かっている。なるほどここには書庫があったのかと思った時、いきなり背後でガチャッという音がした。あわてて振り向くとそこに一人の女がいた。手に大きな本を持っているところを見ると、今の音はこれを床に置いた音だったに違いない。吾輩は思わずうしろに飛び退った。するとそいつは言った。「あらまあ、ごめんなさいね。びっくりさせちゃって。あなたおなかすいてるんでしょう? これあげるわよ。さっき買ってきたばかりだからまだあったかいはずよ。ほら食べていいわよ。」そう言うとそいつは大きな肉の塊を吾輩の前においた。こいつは驚いた。吾輩は生まれてこのかたこれほどうまい物を食べたことはない。もう夢中で食ってしまった。「あらあら、きれいに食べるのねえ。いい子ね。もっと欲しい?」こっちは答えるひまもなく二切れ目が来た。それもうまかった。とうとう三切れ目が来て吾輩は少し困った。食い過ぎはよくないといつも主人が言っていたからである。だがこの女は何とも思っていないらしくどんどん運んでくる。結局吾輩は七切れも平らげてしまった。

「あんたなかなか賢いのねえ。私の言いたいことがわかったみたいね。」と、女は吾輩の顔を見ながら微笑した。その時吾輩は急にあることを思い出した。これは主人が話してくれたことだが、ある人間どもの中には、我々猫語を理解する人間がいるということであった。それは猫語の方言を聞き取る能力のある人間だということであったが、まさかそれが今目の前にいる人間だというわけではあるまい。

そんなことを考えているうちに、女はまた新しい本を持ってきた。今度は何やら分厚い本である。それを吾輩の前で開くと、何やら奇妙な絵を描いて説明を始めた。「これが猫で、これが鼠で……」と言って、一つ一つ指差している。吾輩には何がなんだかさっぱりわからない。それでも吾輩は一応聞いているふりをしてやった。「それで、これが犬で、これが鳥で、これが牛で、これが馬で、そしてこれが人間です。」と、そこまで聞いたところで吾輩は思わず叫んだ。「おい! 待てよ!」「えっ、どうしたの?」「お前は人間の言葉を話すのか。」「ええ、私は話せるわよ。あなただって人語を話してるじゃないの。」「いや、吾輩は人間の言葉を喋ることは出来ん。しかし人間は吾輩の話すことがわかるのだな。」女は不思議そうな顔をしたが、やがてこう答えた。「それは違うわ。人間と猫とはお互いに相手の言葉がわからず、理解できないだけなの。でも私たち猫は、相手が何を考えているかわかるし、その言葉も理解できるの。」吾輩はしばらく考えていたが、そのうち妙なことに気付いた。つまり人間どもは、我々がどんなに努力しても人間どもの考えていることだけはわかりっこない。ところが人間どもは、我々の考えを理解し、我々の言葉で話しかけてくるのだ。吾輩がそのことを言うと、女は笑って言った。「そりゃあ当たり前だわ。人間と猫とは違うもの。人間と人間の間には、何の連絡もないのよ。」なるほどそう言われれば確かにそうだと吾輩は思った。

それから吾輩はいろいろ質問をした。例えば、どこから来たとか、今まで何をしていたかなどだ。すると女は、自分は東京に住んでいると言った。「それじゃあお前は、吾輩たちと同じだな。」「あら、あなたも東京に住んでるの? 私、実はね、今日ここに引っ越してきたばっかりなの。」吾輩は驚いた。こいつも自分と同じように、この家へ住み着いたばかりなのかと思ったからだ。「お前はいつここに来たんだい?」「昨日よ。」「ほう、たった一日しか経っとらんのに、もうここに住むことに決めたのか。」「ええ、ここのご主人のお宅が気に入ったの。それにこの書庫がとても気に入って、どうしても住んでみたかったの。」吾輩は驚いた。こんな大きな家に一人で住むのが好きな奴があるだろうかと思ったからである。だが考えてみれば、この女はまだ若いようだ。もしこの家が気に入ったというなら、一人暮らしをしたい年頃なのかもしれない。

「ところであなたの名前はなんていうのかしら? 名前を教えてくれないの。」と、突然女が尋ねた。「吾輩の名は猫である。」するとそいつはびっくりして、「まあっ、あなたって猫だったのね。」と答えた。吾輩はまた驚いた。こいつは人間が猫を猫だとわからぬように、猫も人間を人間と見分けることができないと思っているらしい。だがよく考えると、それは当然のことのように思われた。人間だって同じ動物だということさえ忘れてしまうことがあるくらいなのだから。「おい、お前は一体何者だい。」と吾輩が尋ねると、そいつも同じように驚いて、「あなたこそ一体誰なの?」と聞き返した。そこで吾輩たちはお互いのことを話し始めた。

まず吾輩はこの家の主人の娘だということを教えた。「あなたは娘さんなのね、どおりで立派なおうちに住んでらっしゃるものねえ。」と、そいつは感心したような声を出した。「ところでお前は何者なんだ?」と、吾輩がもう一度尋ねてみると、そいつはこう答えた。「私はただの書生ですわ。」どうやらこいつも学生のようである。「お前のような年寄りがどうして学校なんかに行ってるんだい?」「失礼ね! 私はまだ十五歳よ。」と、そいつは少し怒った。「お前、そんなに若かったのか。」と、吾輩は驚いた。「ところでお前は、ここで何をしているのだ?」「私は、先生のところに住み込みで勉強させていただくことになったのです。」「ふーん、そうか。しかしお前は本当に学問が好きなんだな。」「ええ、大好きですわ。でも、私は学校の成績はあまり良くないのよ。だからもっと頑張らなくちゃいけないの。」吾輩は妙なことを聞いたと思った。「ではお前は学校で何か教えているのか?」「いいえ、私は算数の教師になるつもりですの。」吾輩はますますわけがわからなくなった。「数学とはなんだい?」「あら、知らないの? 数学というのは、世の中のいろんなことを数字を使って表わす学問なの。」と言って、そいつは説明を始めた。「例えば、ある人が百円玉を持って銀行に行ったとするわよね。するとその人は銀行の窓口に座っている人に、『お金を貸してください』と言うでしょう。すると銀行員はその人の持っている百円玉を見て、十万円貸してくれます。そしてその人が出て行った後で、その百円玉を数えてみる。するとその人は九千円持っていました。これはどういうことかというと、百円玉一枚は一万円の価値があるということを表しているの。つまりこの世界には、百枚で一万円の硬貨が一つと、千枚で一万円の硬貨が二つあるということでしょう。」吾輩はすっかり感心してしまった。

「それで、お前は今いったような計算ができるのか。」「もちろんできません。」吾輩はあきれた。「それじゃあ、何のために学校へ行ってるんだよ。」するとそいつは笑って言った。「別に何のためってことはないの。ただ毎日楽しく暮らしたいだけなの。」吾輩はまたしてもあきれてしまった。

「お前は馬鹿だな。」と吾輩が言うと、そいつも笑った。「あなたもずいぶん失礼なことを言うのね。ところであなたの名前は何というの?」「吾輩の名は猫である。」するとそいつはまたびっくりして、「まあっ、あなたって猫だったのね。」と言った。どうやらこの女は、人間が猫だということさえわからないらしい。

「ところであなたは何をしているの?」「吾輩か? 吾輩は書庫にいる猫である。」「へえっ、あなたは書庫に住んでいるの? どうして?」「それはな、ここのご主人は大の本好きでな、暇があればずっと書斎に閉じこもりっきりなのである。それにしてもあの男はよく読むものだ。吾輩はここに来てもう半年になるが、一日だって外に出たことがないぞ。」「まあ、そうなの。ところであなたのお名前は?」「吾輩の名は猫である。」と、吾輩が答えると、そいつはしばらく考え込んでいたが、やがてこう尋ねた。「あなたは、もし私が先生のお宅から出て行くといったら、私について来てくれるかしら?」吾輩はちょっと考えたが、結局こう答えた。「ああ、ついて行こう。だが、どうして出て行きたいんだ?」「それは……。」と言いかけて、そいつは黙ってしまった。吾輩は何事かと思ってそいつの顔を見た。そいつも吾輩を見つめていた。その時突然、吾輩の頭にひらめくものがあった。「お前、もしかして恋をしてるんじゃないか?」吾輩が尋ねると、そいつは顔を真っ赤にして、下を向いてしまった。どうやら図星のようである。吾輩は思わず吹き出しそうになったが、ぐっと我慢した。「お前、相手は誰なんだ?」と聞くと、そいつは恥ずかしそうに答えた。「私の好きな人は、この家の息子さんなのよ。」吾輩は驚いた。この家の主人は、まだ三十そこそこにしか見えないのである。

「お前、いくつなんだ?」「十五歳よ。」吾輩はますます驚いた。どう見ても二十歳くらいにしか見えなかったからである。「お前、年下の男の子が好きなのか?」と吾輩が尋ねると、そいつは少し怒ったように言った。「私だって、こんな気持ちになったのは初めてよ。でも、どうしても好きになってしまったんだもの。」「ふうん、お前もなかなか難しい年頃なんだな。」「ねえ、あなたは恋の経験はある?」と聞かれたので、吾輩は正直に言った。「いいや、ない。」「あら、意外ね。あなたみたいな立派な猫なのに。」「そんなことは関係ないさ。吾輩はまだ生まれて間もないのだ。」「うーん、私は今までに五回失恋しているわ。」と、そいつが言った時、玄関の方から声が聞こえてきた。「ただいま。」と言うなり足音が近づいてきて、いきなり扉が開いた。そこには一人の男が立っていた。

「あら、あなた! お帰りなさい!」と、そいつが叫んだ。男は微笑んで言った。「やあ、今日も元気そうだね。」と、吾輩はその男の足元にすり寄って行った。男は吾輩を抱き上げると、優しく撫でてくれた。「君は相変わらず可愛いね。」吾輩はこの男のことをよく知っていた。彼はこの屋敷の主で、吾輩の名付け親でもある。そしてそいつの恋人なのだ。

「ところで君に話があるんだけど、今時間あるかい?」と言って、主が吾輩を床に置いた。吾輩はそいつの膝の上に乗って、その顔を見上げた。そいつは吾輩に向かって軽くウィンクすると、主に向き直った。「何の話?」「実は、今度の日曜日のことで相談があってね。ほら、君のお母さんの誕生日だから、二人で食事に行く約束をしただろう。それで、どこへ行こうかと思ったんだが、何か希望はないかな?」「そうねえ、先生は何を食べたいの?」「僕は何でもかまわないよ。」するとそいつは少し考えてから、こう言った。「じゃあ、私の友達がやってるレストランなんかどうかしら? そこならきっと気に入ると思うわ。」「ほう、それはどんな店だい?」「それはね……。」そこで二人は吾輩にはわからない話をしはじめた。吾輩はそいつの膝の上で丸くなった。吾輩は二人の会話を聞きながら、何だかひどく安心するのだった。



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