【猫18

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番利口な人間だそうだ。その人間はいつもノートとかいうものに書き物をしていた。時々、「うーむ」とか言って考え込んでいた。吾輩はこの人間が大嫌いであった。この人間の考えていることは何一つわからなかったからだ。しかしてその人間のそばには必ず一疋の小犬がいた。小犬はいつでもその人間のひざの上に乗っていて、何かもらえると思うのか時々「くれ」というような声を出す。すると人間はしっしっと追い払うような手つきをする。それでもしつこく膝に乗ると人間はとうとう根負けをして菓子のようなものをくれる。小犬はそれをもらうと、さもうれしそうに尻尾を振りながらどこかへ行ってしまうのだ。吾輩はその小犬の後について行ってみたことがある。そこは日当たりの良い広い庭のある家で、裏には柿の木があった。小犬はいつものように門の所まで来てちょこんとお座なりの挨拶をして帰って行った。門から家までは三十メートル程あった。その間、小犬は一度も振り向かなかった。吾輩はその時ふと思った。⸺あの犬は何のためにあそこまで行くのであろう? 吾輩の親兄弟かも知れないが、それにしてもあんなところに行く必要はないはずだ。もしやしてあれは主人の家ではないか? 主人とはあの書生のことだ。吾輩は今まで一度も見たことがないが、多分主人に違いない。そう考えると腹立たしいことおびただしい。吾輩は主人の所に行って抗議しようと思い立った。ちょうどそこへ一人の女が来た。この女はたびたびここを通りかかって、吾輩を見るといつも餌をくれた。吾輩はこの時ばかりはわざとそっぽを向いてやった。女はちょっと笑って言った。「おやまあ、ご機嫌が悪いね。どうしたんだい?」吾輩は黙って横目で見ていた。女はしゃがみ込んで吾輩を抱き上げた。そして首筋を撫ぜたり背中をさすったりするうちにだんだん涙ぐんできた。そのうち女の手が吾輩の首にかかる。女は涙を流して言う。「お前さんはいい子だからねえ……。あたしと一緒においでよ……」吾輩は思わず女の手に頬ずりをした。すると女は吾輩を抱いたまま立ち上がって歩き出した。もうどこへ行くとも言わなかった。ただ一言だけこう言っただけだ。「うちの子になるかい?」吾輩はすぐに答えた。「なる! 吾輩は今日からあなたの子です!」こうして吾輩の新しい生活が始まった。

新しい家は今度こそ本当に快適だった。まず第一に風通しが良い。外では小鳥たちがさえずる。雨戸を閉める必要がないくらいだ。第二に居心地が良い。玄関も台所も広々としていて清潔だ。床の間に置かれた猫用の寝棚は吾輩専用である。毎日きれいな毛布を敷いてもらえる。第三においしい食事が出る。第四にいつでも好きな時に外に出られる。第五に遊び道具がある。第六に人間がいない。第七に静かだ。第八に誰もいない。第九に何もない。第十に何にも知らない。第十一に誰からも見られていない。第十二に誰にも邪魔されない。第十三に自由である。第十四に安全である。第十五に幸福である。第十六に平和である。第十七に退屈しない。第十八に気楽である。第十九に寂しくない。第二十に安心できる。二百七十年生きてきてこんなに楽しいことは未だかつてなかった。この先どんなことが待っているのかと思うと胸がわくわくしてくる。吾輩は早く明日にならないかなと思いながら眠りについた。

(終)



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