【猫19

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番下等な生物であったそうだ。この人間はひどく弱って、頭から布団をかぶっていた。そのまわりに三人の人間が立って、何かしゃべったり笑ったりしていた。そのうちの一人が時々こっちへ来て「おなかすかないかい」とか、「寒くないか」とかきく。腹はすいたが寒いことは寒かった。何せ裸だったからだ。しかしそんな事はどうでもよかった。ただもう泣くことしか考えつかなかった。するとそいつはふろしきの中から何かとり出して食べさせてくれた。ほかほかの飯に味噌汁がかかったやつだ。実にうまかった。吾輩は夢中で食った。その食いっぷりを見て安心したのか、その人間はまたどこかへ行ってしまった。あとに残った二人も帰ったようだ。部屋の中にはその人間だけが残った。しばらくすると電気がついた。明るい所へ出たので目がくらんだ。ようやく見えるようになった時その人間の顔をよく見ると年は三十五六でなかなかの男前であることがわかった。しかしこの男には欠点があった。毎日毎日朝から晩まで机に向かって本ばかり読んでいるのだ。それでも食事の時間になるとちゃんと降りて来る。そして例のごとく読書をしながら食事をする。吾輩はこの男がいつも自分の方を見ないのが気に入らない。そこでちょっと驚かしてやろうと思った。男はちょうど本を伏せたところだったので、吾輩はその本の上に飛び乗ってやった。ところが驚いた事にこの男はちっとも怒らない。それどころかニコニコ笑って「お前はおりこうさんだねえ」と言うではないか。こんな馬鹿な事があるものかと思って吾輩は男のひざの上に乗ってみた。すると今度は「おいでおいで」と言って抱いてくれる。これには吾輩の方が驚いた。今まで自分に近寄って来た者は誰一人いなかったからである。

ほかほかの飯に味噌汁がかかったやつ

それから二日ほどたったある日の午後、例の書斎へ行くと本が一冊床に落ちていた。これは珍しいと思い拾おうとして見ると本の上に見馴れない字が書いてある。一体何だろうと思っているうちに急に眠くなったのであくびをして目をあけると目の前に大きな黒い犬がいた。吾輩はあわてて逃げようとしたが間に合わなかった。たちまち首筋をくわえられてしまった。その時ふと見ると本の上の字と同じものである事がわかった。吾輩は何とも言えない恐ろしさに身をふるわせた。しかしよく考えると別に痛くも痒くもないような気がしたのでそのままじっとしていたらその大きな黒犬はだんだん力を弱めた。吾輩はここぞとばかり思いきり暴れ出した。犬の方も負けずに噛みつく。とうとう大喧嘩になった。

吾輩は疲れたので寝る事にした。しかしどうしてもあの本が気になる。さっきの字はこの本の中に書かれているものに違いない。しかし読んでみたいと思うのだが、今さら鳴いても始まらない。仕方がないから明日読ませてくれと頼んでみよう。そう思って吾輩は眠りについた。

翌朝早く起きてみるとまだその犬はいる。おまけに昨夜よりひどくなっているようだ。これでは仕事にならないと困っているところへ当の本人がやって来た。書生は吾輩を抱き上げるなり「何を騒いでいるんだね」と言ったが、吾輩は返事をしない。「あれ? どうした?」と言って首をひねる。「何だか知らないけど、今日一日おとなしくしているんだよ」と言い残し部屋を出て行った。しかしそんな事で吾輩が言う事を聞くわけはない。吾輩は書生の後をつけて行って、階段を上る所で足を思い切り引っ掻いてやった。書生は驚いて振り向く。「こりゃあ参ったな」と言って笑った。吾輩は得意になってニャーンとひと声鳴いた。

書生は吾輩を抱っこしたまま部屋に入った。吾輩は机の上にぴょんと飛び移った。「おやおや、いたずらっ子だな。ほれっ!」と言って書生は吾輩をつかまえようとした。吾輩も必死に抵抗する。ついに吾輩は机の下に逃げ込んだ。「出ておいでよ。ごはんあげないよ」という声がした。吾輩は腹が減っていたので仕方なく出てきた。するといきなり何か口に押し込まれた。吾輩はびっくりしたが、その味があまりにもうまいものだからつい夢中になってしまった。その間にも書生はどんどん食べ物を入れる。やがて吾輩は満腹して、また眠くなってきた。しかし書生はかまわず話を始める。吾輩は退屈なのでまた外に出ることにした。

吾輩は玄関の所まで来た。するとその前に例の大きな犬がうずくまっている。吾輩は立ちどまって様子をうかがった。犬は少しも動かない。吾輩はそっと近づいてみる。するとかすかに息をしている。どうやら死んではいないらしい。それなら大丈夫だろうと、吾輩は外へ出ようとする。すると犬は突然立ち上がり吠え始めた。その恐ろしいことといったら今までの比ではない。吾輩は夢中で逃げ出した。

吾輩は町の中を走る。あちこちで人々が吾輩を見る。みんなびっくりする。中には追いかけてくる者もある。吾輩は一生懸命走る。しかし犬の足の速さにはかなわない。とうとう吾輩は捕えられてしまった。その時、吾輩の目にふと何か動くものが見えた。それは白い着物を着た若い男であった。男は吾輩を見ると、驚いたように言った。「猫が捕まったぞ! 大変だ」吾輩はその言葉がわかったような気がしたので、思わずニャアと鳴いてしまう。それを聞いた犬はますます興奮して、今にも噛みつかんばかりに吾輩に近寄る。その時、男が叫んだ。「待ちなさい!」そして吾輩にこう言い聞かせた。「この犬は君を助けようとしているのだ。だから安心おし」吾輩はそれを聞いてやっと落ち着いた。そこで吾輩はじっとしていた。すると犬の方も落ちついて吾輩を放してくれた。

吾輩はしばらくそこにいたが、そのうちに腹がすいてきたので帰ろうと思って歩き出す。その時ふと見ると、さっきの男がいない。吾輩はあたりを見回した。しかしどこにもいない。一体どこへ行ってしまったのかと思っていると、急に後ろで「おいで」と呼ぶ声がした。振り返るとあの男が立っている。吾輩は喜んで駆けて行く。「よし、いい子だ」と言って抱き上げて頬ずりする。吾輩はすっかり嬉しくなってゴロゴロ喉を鳴らす。「お前はなんていう名前だい?」と聞く。吾輩は答えられないので困っていると、男は笑って言った。「そうか。じゃあ、ポチにしよう」吾輩はそれでもいいと思ったので、ニャーと答えた。

こうして吾輩の生活が始まった。

(終)



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