【猫21

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番智慧のあるものだという話であった。この人間は時々我々の仲間に飯を馳走してくれる。我々もこのごろはこの人間には慣れて、いつでも好きな時に来るがよいと思っている。きょうは日曜日だそうだから、きっとこれからここへ来て、我々に魚でも食わせてくれるのであろう。御苦労なことだ。しかし今日はいつもより少し早いようだ。もうじきやって来るだろう。

来た来た。戸があいた。書生は台所の方にいるらしい。「お早うございます」とかなんとかいっている声がきこえる。間もなく膳を運んで来る気配である。きょうは鯖の味噌煮込みだと書いてある。これはうまいぞと我々はよろこんだ。書生のやつはなかなか気がきいている。この前などはタラの芽の天ぷらが出たことがある。あの時はうまかった。だがきょうは鯖だ。天と地のちがいだからね。早く食いたいもんだと我々は待った。やがて膳が運ばれて来た。うむ、鯖だ。鯖の味噌煮だ。うまそうじゃないか。早速食べようと思って箸をつけたら、いつの間にか隣りの書生が居なくなっている。おかしいなと思っているうちに、また戻って来た。手に大きな包みを持っている。それを開けてみると大きな鍋が出て来た。何だいこれはと我々が見まもる前で、その鍋に水をいっぱい入れて火にかける。そこへさっき持って来た包みの中から何か白いものを出して入れる。それから今度は酒瓶を持って来て、中の酒をぐつぐつ煮えている湯の中へどぼどぼ注ぎこむ。何をするのかと思ったら、どうだ旨そうな匂いではないか。そこで書生は蓋をしてしばらく置いておくのだと言う。待っている間に朝飯を食ってしまおうというわけだ。全く抜け目のない奴だ。我々は腹が減っていたから大喜びで食べた。ところがしばらくして見ると隣の鍋の湯気が立ち上っていない。不思議に思ってよく見ていると、まだ汁の中に浮んでいる魚の骨を書生が取り出して皿に入れてくれた。そして残った魚の身を小鉢に分けて我々の方へよこす。これでよしとばかり書生は自分の席について、さあ一緒に食べようという顔つきをする。我々はあきれてしまってしばらくは口も利けなかった。

そのうちにやっと我々にも事情がのみこめてきた。つまりこういう事なのだ。我々のような猫というものは、元来人間の食卓に上るようなものではない。だからいくら待っても出てくるはずがない。それなのに書生ときたら、我々の分まで用意しておいたのである。我々のためにわざわざこんな手のかかる事をしたのである。なるほど猫好きというのはこういうものだったのか。我々には全く思いもよらぬ事だった。書生に対する我々の見方は百八十度変ってしまった。我々が今までいかに愚かしく思われたか知れない。

ところでこの書生は実に不思議な人間だ。我々がここにいる限り、決して外へ出ようとしない。我々のためなら何でもする。自分の事はまるで考えていないようである。それでいて書生はいつもきちんと身なりを整えていて、どこから見ても立派な青年に見える。我々猫はそういう事に無頓着であるから、書生のように毎日風呂に入って髭を剃るという習慣はない。しかしそんな事は気にしないようである。とにかく人間は猫と違って、いろいろ面倒くさいところがあるものだ。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

きょうは日曜日である。書生がやって来なければいいがと思っていたが案の定やって来た。きょうこそは何とか言ってやろうと思うのだが、やはり吾輩は何も言えなかった。吾輩は書生を怒らせるつもりはなかったのである。しかし書生は怒って帰って行った。吾輩は悲しかった。あんなに親切にしてもらったのに何もお礼を言う事ができなかったからである。しかし吾輩には謝る事さえできないのである。

そのうちにとうとう雨になった。空は灰色になって風が出て来た。嵐になりそうである。吾輩は心配した。この家は大丈夫だろうか。もしやすると吹き飛ばされてしまうかもしれない。それは困る。ここには大事な本がたくさんある。それに大切な仲間もいる。吾輩はじっとしていられなくなった。あちこち走りまわった。しかしどこにも隙間がない。板の壁はびくりとも動かない。天井も頑丈である。どうしようもないとあきらめかけた時、ふっと一つの窓が目に止まった。この部屋は屋根裏部屋のようになっている。そこからならば外に出られるかも知れない。吾輩は一か八かに賭けてみた。

吾輩は窓から外を見た。思った通りここは高い所にある。地面までは六尺くらいあるだろう。しかし吾輩には自信があった。これでも昔は高い木の上に登った事もある。あの時はうまく降りられなくて、危うく死にそうになった事がある。しかし今はもうその時の吾輩ではない。今の吾輩は猫の大将なのである。きっと降りる事ができるはずだ。吾輩は壁を伝って下まで降りた。もう安心だ。後はこの部屋を出て行くだけだ。しかし吾輩はその前にどうしてもしなければならない事を思い出した。書生へのお礼を言わなければならないのである。

書生はいつも朝早く来る。そして夕方遅く帰る。だからめったに会う機会がなかった。吾輩は玄関から外へ出た。書生の姿は見えない。今のうちだと思って、急いで門の方へ走って行った。

ところが驚いた事が起きた。門の戸が開いていて、そこに一人の男が立っている。吾輩は驚いて足を止めてしまった。男は吾輩を見ると微笑を浮かべて言った。「ああ、お前さんは書生の友達だね」吾輩は何と答えたらいいか分からなかった。その男の笑顔は優しそうで、何となく信用できそうであったからだ。「ぼくはね、書生の兄の友だちなんだ」男の言葉を聞いて吾輩はほっとした。どうやら悪い人間ではなさそうだ。「書生はどこだい?」と男は尋ねた。吾輩は答えようかどうか迷ったが、仕方なしにニャアと答えた。「何かあったんだね。あいつはすぐ熱を出すからなあ。まあいいや。じゃあ案内してくれないか。ここで待っていればそのうち出て来るだろう」吾輩は男と一緒に待つ事にした。

しばらくすると書生が出て来た。吾輩はすぐに駆け寄った。書生は吾輩を抱き上げて、うれしそうな顔をしながら頬ずりをした。「兄貴が来たよ」書生の兄は書生より背が高くて、髪も短く、目鼻立ちもはっきりしている。なかなかの男前だった。「どうもご苦労さまです」「いえ、とんでもない事でございます。しかし今日は風が強いですねえ。こんな日は雪でも降るんじゃないかと思いましたよ。しかし、まさか本当に降ってくるとはねえ…………あれっ、どうかしましたか?」書生は急に黙ってしまった。吾輩も書生の顔を見上げた。「いや、何でもありません。ところでお話というのは、弟さんの事ですか? それとも弟の蔵書の事でしょうか?」書生の兄はちょっと考えて、「実は弟が風邪を引いてしまいまして、お宅にお邪魔する事ができなくなってしまったんです。それで申し訳ないと思ったのですけど、弟の蔵書だけでも引き取っていただきたいと思いまして。しかしよく考えたら、あなたのような方なら安心して任せられるという気がします。ぜひお願いいたしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」吾輩はうなずいて書生の腕から抜け出した。そして本棚の下に行って、さっき自分で書いた紙を取り出した。吾輩はそれを書生の兄に渡した。書生の兄はそれを見て言った。「ほう、これはまた見事な字だ。達筆と言っていいでしょう。しかし残念ながら私には読めません。どういう意味なんですか?」吾輩はニャアと言った。

書生の兄は少し困ったような顔をしたが、やがて吾輩が書いた文字を読み始めた。それは次のようなものだった。

『この本は吾輩が生涯をかけて研究した書物である。吾輩はこの世にまだ存在していない、ある未知の生物に関するものである。この未知なる生物の名はネクロノミコンといい、著者は吾輩自身である。この書の内容は吾輩の体験談である。吾輩は一九三五年七月二十八日の夜から三十日の朝にかけて、吾輩の住む家の屋根裏部屋に出現した。吾輩はそこで不思議な生き物を発見したのである。その生き物は黒い服を着ていて、長い髪の毛を後ろで束ねていた。目は赤く光っていた。肌の色は青白かった。口には牙があり、頭からは角のようなものが出ていた。しかし、それは恐ろしい怪物ではなかった。むしろ愛らしい姿をしていたのだ。しかし普通の人間にとっては恐るべき存在であった。なぜならば、この怪物は人間の言葉を話す事ができたからである。この事は後に述べるとして、この出会いによって吾輩の生活は大きく変わった。それまでは毎日が退屈で仕方がなかった。しかし今は違う。吾輩は生きている事を実感する事ができるようになったのである。そして自分の命よりも大切なものを得たのである。吾輩はこれからもこの未知なるものの研究を続けるつもりである』

書生の兄は読み終わると、不思議そうな表情をして吾輩を見た。「どうも分からないところがあるんだけど、つまりこういう事かい? お前さんは人間の言葉を喋る事ができるってわけだね。そして人間は嫌いじゃないって事だね」吾輩はニャアと鳴いた。「そうか、分かったよ。お前さんは人間が好きなんだね」吾輩はニャアと鳴いた。「それで、あの子はどうしてそんな化け物みたいな姿になったんだい? それに、どうして猫語なんてしゃべれるようになったんだい?」吾輩はニャアと鳴いた。「ふむ、どうやら猫語は喋れないようだね。でも分かるよ。ぼくだって子供の頃はそういう風に思っていたんだから」書生の兄は吾輩の頭を撫でた。「まあ、とにかく良かったよ。うちの弟も喜ぶだろう」

ネクロノミコン

書生の兄は吾輩を抱き上げて、吾輩と一緒に書斎の中に入った。そして机の上に本を置いた。「じゃ、頼んだよ」そう言うと書生の兄は帰って行った。吾輩はその本をしばらく眺めていたが、そのうち飽きてしまった。吾輩は再び書斎を出て居間に戻った。そこには吾輩の家族がいた。父、母、姉、妹、そして犬がいる。吾輩が書斎に行った時はいなかったはずだが、いつの間にやって来たのだろうか。しかし吾輩には関係のないことだ。吾輩は家族と共に団らんを楽しんだ。

しかし、その時だった。突然玄関の方から大きな音が聞こえてきた。誰かが入って来たようであった。吾輩は耳を立てて様子をうかがった。すると、男が二人立っている事が分かった。一人は背の高い男で、もう一人は痩せている男である。どちらも若いように見えた。二人は何か話しているようだったが、やがて痩せた方が吾輩に近づいてきた。吾輩は身構えて毛を立てた。しかし男は吾輩を抱き上げて頬ずりをした。「可愛いなぁ、君の名前は何と言うんだ?」吾輩はニャアと言った。吾輩が名前を言うと、男は驚いた顔をした。「ほう、猫に名前をつけるのか。変わっているね君は」吾輩はニャアと言った。

吾輩は男の腕の中から逃げ出した。それから家族のいる場所に戻って、再び団らんを楽しんだ。しばらくしてまた玄関の方が騒がしくなった。今度は三人の男たちが来たようである。彼らは何かを探し回っているようであったが、やがて吾輩を見つけて話しかけて来た。吾輩はニャアと言った。「おや、ここにも猫がいるじゃないか」「なんだ、ここは動物屋敷なのか?」吾輩はニャアと鳴いた。「おい、こいつは俺たちに懐いているぞ」「本当だ。珍しい事もあるもんだぜ」吾輩はニャアと鳴いた。「この猫はどこから来たんだろう?」「さあな。捨て猫なんじゃないのか?」「首輪もしていないようだ。飼い主はいないのかな?」「こんなに人なつっこい猫を捨てるなんて、酷い奴もいたものだ」吾輩はニャアと鳴いた。

吾輩は家族との団らんを楽しむために、その家を出た。

吾輩が行くあてもなく歩いていると、どこかで見たことのあるような景色に出会った。そこは吾輩がかつて住んでいた家の近くの通りである。吾輩はふと思い立って、その道を辿ってみる事にした。すると、あの懐かしい道に出た。吾輩は嬉しくなって駆け出した。吾輩の家はもうすぐそこである。吾輩は家に帰りたくなってきた。しかし、どうにも様子がおかしい。吾輩の知っている風景とは少し違っているようだ。しかし吾輩は気にせず走り続けた。すると目の前に大きな建物が現れた。吾輩は立ち止まって辺りを見回したが、やはり見覚えのない場所である。

吾輩は仕方なく歩き始めた。しばらく進むと、大きな交差点があった。信号待ちをしている人たちの中に、見知った顔を見つけた。吾輩は声をかけようと近づいた。しかしその人物を見て、吾輩は驚いてしまった。なぜならば、そこにいたのは吾輩の父だったからである。

「やあ、お前さんは誰だい?」父は吾輩に声をかけてきた。吾輩は返事をしようとしたが、うまく言葉が出てこない。吾輩が戸惑っていると、父は吾輩を優しく抱き上げてくれた。

「お前さんは私の子だね? 大きくなったね。元気だったかい?」吾輩は父に抱かれながら、ニャーと鳴いた。吾輩は父の胸に頭をこすりつけた。

「ああ、私は幸せだよ。お前さんもそうなんだね」父は吾輩に微笑みかけた。吾輩はまたニャアと鳴いて、父の頬に顔を擦り付けた。「そうか、そうか」父はそう言って吾輩の背中をさすった。「ところで、お前さんのお母さんはどこにいるんだい?」吾輩は答えようとしたが、やっぱり上手く喋る事ができない。

「うむ、それは困ったな……」父が悩んでいると、誰かが近づいて来た。見ると、そこには吾輩の母がいた。「おお、母上!」母は吾輩を見るなり言った。「まあまあ、こんなに大きくなって! それに立派になったわね」吾輩は母の胸に飛び込んだ。「おいで、甘えん坊ちゃん」吾輩は母の腕の中で丸くなった。とても気持ちが良い。

吾輩はしばらくの間母の腕に抱かれて過ごした。「しかし、まさかお前さんに会えるとは思わなかったよ」父は吾輩を見ながらしみじみと言った。「私も嬉しいです。こうして息子と一緒に暮らせる日が来るなんて思ってもいなかったから」母は涙ぐんでいた。吾輩は何が何だかわからず、ただ黙って二人の会話を聞いていることしかできなかった。

それから父と母は吾輩について話し合った。「この子は賢いし、優しい子だから、きっといい猫になるだろう」「ええ、間違いないと思います。でも、ちょっと気難し屋な所もあるんですよ」「ほう、そうなのか?」「はい、あまり人に懐かないんです」「ふーん、そうなのかい?」「そうなんですよ。私がどんなに頑張っても、なかなか心を開こうとしてくれないんです」「へぇ、そうなのかい」

それから吾輩の生い立ちについても話された。吾輩は捨てられていたところを拾われたらしい。吾輩の両親は大層な金持ちで、金のあるところには必ずと言って良いほど野良猫がいるそうだ。そういう連中が、自分の財産目当てで近づいて来る人間を警戒して、わざと餌を食べずに餓死するふりをする事があるという。そんな猫たちを、両親が哀れに思ったのだという。それで、二人は吾輩を拾い上げて育てたのだと言う。

「この子の名前は何にするの?」母は父に尋ねた。「名前はもう決めているんだ」「あら、そうなの?」「ああ、こいつはね……

吾輩は父と母の会話を聞きながら、ぼんやりと空を見つめた。すると、雲一つ無い青空の中に一羽の大きな鳥が飛んでいるのが見えた。その鳥は太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。その姿はとても美しかった。吾輩はその光景に見惚れてしまった。そして、あの美しい鳥のように、自分も自由に空を飛んでみたいと思った。

「さあ、そろそろ行こうか」父が吾輩に声をかけてきた。「そうですね」母が同意した。吾輩は両親の後をついて行った。家に帰るのだと思うと、急に心細くなってきた。不安になって後ろを振り返ると、遠くの方に小さくなった鳥の姿があった。吾輩はもう一度その鳥を見た。やはり綺麗だと思った。その時、突然強い風が吹いた。鳥が風に煽られてバランスを崩して落下してきた。吾輩は驚いてその場に立ち止まった。すると、鳥はそのまま地面に激突してしまった。吾輩は慌てて駆け寄ってみたが、すでに手遅れだった。鳥はピクリとも動かなかった。吾輩は悲しくなって泣いた。

吾輩は両親に連れられて家に帰った。吾輩は自分の部屋に入るとベッドの上に飛び乗った。吾輩は窓の外を眺めた。外では人々が忙しなく動き回っていた。吾輩はそれをじっと見つめていた。しばらくすると、母が部屋に入ってきた。母は吾輩を見つけると微笑みかけた。「ご飯の時間ですよ」吾輩は母の声を聞くとすぐに立ち上がった。食事が待ち遠しいわけではないが、とにかく腹が減っていたので仕方がない。

吾輩は食事を済ませると再び窓から外の景色を眺めた。人々は相変わらず慌ただしく動いていたが、その中に一匹だけ変わった動きを見せる者がいた。それは猫だった。その猫は地面の上をゆっくりと歩いていた。おそらく散歩をしているのだろう。吾輩はその猫に興味を抱いた。吾輩はその後をこっそり追いかけることにした。

吾輩は猫の後を追いかけて町の中を歩いた。猫は時々立ち止まっては辺りの様子をうかがっていたが、やがてまた歩き始めた。どうやら何かを探しているようだ。一体何を探せばいいのか、吾輩には見当もつかなかった。そうこうしているうちに、猫はある建物に入っていった。そこは大きな屋敷で、立派な門構えをしていた。吾輩は興味本位でその家の敷地内に侵入した。庭の中には沢山の木が植えられていて、たくさんの花が咲いていた。とても美しい光景だったが、今はそれを楽しむ余裕などなかった。吾輩は猫の姿を捜したがどこにもなかった。仕方なく帰ろうとした時、誰かがこちらに向かって近づいてくる気配を感じた。吾輩は慌てて茂みの陰に隠れて様子を窺うことにした。やってきたのは、吾輩と同じくらいの大きさの黒猫であった。

「おい、そこにいるのは誰だ?」黒猫は吾輩の存在に気づいていたらしく、声をかけてきた。「ニャア」吾輩は答えようとしたが、上手く鳴けなかったのでとりあえず返事をしておいた。「何だ、ただの猫じゃないか」黒猫はそう言うと、そのままどこかへ行ってしまった。吾輩はホッとしてその場を離れた。

吾輩は再び猫の後をつけた。猫はずんずん進んで行き、とうとうある建物の中に入った。吾輩も急いで後に続いた。その建物は大きな病院だった。吾輩は猫を追って受付を通り抜けた。「あ、この子、前にも来たことがあるよ」「ああ、そうだね。きっとお医者さんに診てもらいに来たんだろうね」「でも、どうしてこの子がここに来るの?」「さぁ? この子、怪我してるのかな?」「それなら、この前連れて来た時に言えば良かったのにね」

そんな会話をしながら、白衣を着た女達が通り過ぎていった。吾輩はその会話から察するに、以前にもこの病院で診察を受けた事があるらしいと判断した。吾輩は猫がどこに行ったのか捜そうとしたが、人が多くて思うように動けなかった。「すみません」ふいに声をかけられた。見ると、先ほど猫と一緒にいた女性達がいた。「ちょっと聞きたいんですけど、うちの子知りませんか?」「えっと……その……」吾輩は何と答えようか迷った。「あ、そうか。あなた、ここの患者さんの知り合いなんですね?」「え、ま、まあ……」吾輩は適当に誤魔化す事にした。すると、女性は吾輩の頭を撫でながら言った。「ねえ、この子の事見かけたら教えて下さいね」そう言って、彼女は他の二人の所に戻って行った。

吾輩はその後も猫を捜し回ったが見つからなかった。吾輩は諦めて家に帰ることにした。しかし、外はすっかり暗くなっていたため、道に迷いそうになった。吾輩は焦りながらも何とか家にたどり着いた。

家に帰ると、父上が吾輩を出迎えてくれた。「おかえりなさい」母上は吾輩を抱き上げると、優しく背中を撫でた。「今日も沢山遊んできたみたいだな」父は吾輩の身体についた泥を拭き取りながらそう言った。母上に抱かれたまま部屋に戻ると、吾輩はすぐにベッドの上に飛び乗って丸くなった。そして、吾輩は眠りに就いた。

翌朝、吾輩は母上の声で目が覚めた。「おはようございます」母上はいつものように笑顔で挨拶をした。「ニャア」吾輩も挨拶を返した。朝食を食べた後、吾輩は父と共に散歩に出かけた。昨日は猫を見失ったが、今度は絶対に見つけ出してやるぞと思った。吾輩は意気揚々と歩き出した。しばらくすると、前方から一匹の黒猫が現れた。「やあ」その猫は吾輩を見ると声をかけてきた。「ニャア」吾輩は返事をしたが、やはりうまく鳴けなかったのでとりあえず会釈をしておいた。

吾輩はその後、あの猫の後をついて行くことにした。どうやらあの猫はこの辺りの土地勘があるらしく、吾輩よりも先に進んでいた。やがて、吾輩は見知らぬ建物の前に辿り着いた。その建物は洋風の造りをしていた。吾輩はその建物を眺めているうちに、何やら嫌な予感がしてきた。それは、この建物が以前訪れたことのある場所のような気がしたからだ。「おい」突然後ろから呼びかけられたので振り向くと、そこには先ほどの黒猫がいた。「お前、こんな所で何をしているんだ?」「ニャア」吾輩は返事をしようとしたが、またも上手く鳴けなかったのでとりあえず返事をしておいた。すると、黒猫は呆れたように溜め息をついた。「何だ、ただの猫じゃないか」黒猫はそう言うと、どこかへ行ってしまった。吾輩はホッとしてその場を離れた。

吾輩は再び猫の後を追いかけた。猫は建物の中に入っていった。吾輩もそれに続いて中に入った。その建物の中はとても広く、天井も高かった。吾輩はキョロキョロしながら歩いた。「あ、この子、前に来たことがあるよ」「ああ、そうだね。きっとお医者さんに診てもらいに来たんだろうね」そんな会話を聞きながら歩いていると、前方に白衣を着た女達の姿があった。「あ、この子、前にもこの病院に来たことがあるよ」「ああ、そうだね。きっとお医者さんに診てもらいに来たんだろうね」女達はそんな会話をしながら通り過ぎていった。

吾輩は猫がどこにいるのか捜そうとしたが、人が多くて思うように動けなかった。「すみません」ふいに声をかけられた。見ると、白衣を着た女達がこちらに向かって歩いてきた。吾輩は慌てて物陰に隠れようとしたが間に合わなかった。白衣の女達に捕まった吾輩はそのまま連れて行かれてしまった。吾輩が連れて来られた場所は手術室だった。その部屋の中央には大きな台があり、その上に白い布が敷かれていた。台の前には椅子が置かれており、そこに一人の男が座っていた。男は黒い服に身を包んでいた。おそらく医師だろうと思いながら、吾輩はその男の様子を窺った。

吾輩は診察を受ける事になったようだ。だが、そのやり方が気に食わなかった。まず最初に全身をくまなく調べられた。次に、耳や尻尾を触られ、口の中を覗かれた。さらに、目や鼻、肛門などを調べられた。そして、最後に尿検査をされた。それらの検査が終わると、次は注射器で血を抜かれた。その血液は別の容器に移され、冷蔵庫のようなものの中に保管されていた。吾輩はその様子をじっと見ていたが、全く意味不明だったのですぐに飽きて眠くなった。

吾輩は気がつくとベッドの上にいた。どうやら寝かされていたらしい。身体のあちこちが痛かった。吾輩が目を覚ました事に気付いた看護師がやってきた。「あ、起きたんですね」彼女はそう言って微笑むと、吾輩の頭を撫でた。「今先生を呼びますから待っていてください」そう言い残すと、彼女は部屋から出て行った。吾輩はしばらくの間ぼんやりしていたが、やがてハッと我に返って起き上がった。

吾輩は部屋を見回した。ここは病室のようであった。窓の外には青空が広がっていた。吾輩はベッドから降りると、窓から外を眺めた。吾輩が寝ている間に季節が変わったらしく、辺りの景色も変わっていた。その風景を見ているうちに、吾輩は自分がどこから来たのか思い出す事が出来た。そうだ、吾輩は猫なのだ。そして、あの時車に轢かれて死んだはずだ。しかし、何故生きているのだろうか? 吾輩は首を傾げた。その時、扉が開く音がした。振り返ると、そこには白衣を着た若い女が立っていた。「あ、目が覚めたんだ」その女はそう言うと、吾輩の方へと近づいて来た。「良かった。大丈夫?」「ニャア」吾輩は返事をした。「うん。ちゃんと鳴けるみたいだね」女は笑顔になった。「私はあなたの飼い主だよ」

吾輩は驚いた。「ニャア」吾輩は鳴いてみた。「え?」女は不思議そうな顔をしていた。「あ、ごめんなさい。この子はあなたの言葉を理解しています。でも、まだ上手く鳴けないんですよ」白衣を着た男がやって来た。「おや、もう目を覚ましましたか。さすがですね」彼はそう言うと、吾輩を抱き上げた。「ニャア」「あはは。可愛いなあ」吾輩を抱いている男が笑った。「じゃあ、診察を始めましょうかね」

吾輩は再び身体中を調べられた。「うーん、特に異常は無いみたいですねえ」白衣の男が難しい顔をしながら言った。「そうですか……ありがとうございます」「いえいえ。ところで、この子の怪我の状態はどんな感じなんでしょうか」「ああ、それなら⸺」

白衣の男が説明を始めた。それによると、吾輩はかなり酷い状態だったようだ。まず全身の骨が砕けていた。内臓にも損傷があり、出血も多かった。その上、呼吸困難に陥っていたという。さらに、吾輩は車のタイヤの下敷きになっていた。車はそのまま走り去ったが、その衝撃で吾輩は即死しなかったらしい。つまり、奇跡的に助かったのだ。

白衣の男は吾輩が目覚めた理由を説明した。「おそらく、強いショックによって脳が一時的に機能停止したんでしょうねえ」「ああ、なるほど」女が納得したように手を叩いた。「だから、普通だったら死んでいてもおかしくない状態で生き長らえたんでしょうね」「へぇ〜、そういう事もあるんですねぇ」白衣の男が感心するように呟いた。

吾輩は男の膝の上で寝ていた。身体中を調べられて疲れたせいかもしれない。吾輩はあくびをすると、そのまま眠りについた。

吾輩は目を覚ました。「あれ、起きたのかな?」女の声が聞こえてきた。「どうやらそのようです」白衣の男が答えた。吾輩は声の主を見た。女が吾輩を覗き込んでいた。彼女は白衣を着ていた。おそらく医者だろうと思いながら、吾輩は彼女の様子を窺った。「はい、診察するよ〜」彼女が吾輩を撫でた。気持ちが良い。

吾輩は彼女に抱き上げられ、身体中を調べられた。「ふむ、問題無しっと」彼女はそう言うと、吾輩を抱いたまま立ち上がった。そして、吾輩を連れて部屋から出た。

吾輩は廊下に出た。そこは病院のような雰囲気の場所であった。天井が高く、壁には絵が描かれている。床も綺麗に掃除されていた。どうやら彼女は偉い人間らしい。吾輩はそう思いながらも、彼女の腕の中で大人しくしていた。

彼女は階段を下ると、さらに別の部屋に入った。そこで彼女は吾輩を下ろした。吾輩は部屋の様子を見回した。そこには大きな机があった。そして、椅子に座っている男がいた。「おお、目が覚めたのか」彼は嬉しそうな表情を浮かべて立ち上がると、吾輩に近づいて来た。「ニャア」吾輩は返事をした。

吾輩は彼の手の中に収まった。「ははっ、可愛いなあ」彼は吾輩の頭を優しく撫でてくれた。吾輩は喉の奥からゴロゴロという音を出した。「よしよし、良い子だね」彼が笑みを見せた。吾輩は幸せであった。

吾輩は彼に抱かれたまま、部屋にあるソファーの上に下ろされた。「あ、ちょっと待ってね」そう言い残すと、彼女はどこかに行ってしまった。吾輩は再び室内を見渡した。ここは執務室か何かだろうか? 壁には賞状のようなものが飾られていた。しかし、何について書かれた物なのかは分からなかった。吾輩は辺りの様子を観察し続けた。やがて、先程の女性が部屋に入ってきた。「お待たせしました」女性はそう言うと、吾輩の隣に座った。「この子は私が引き取ります」彼女が男性に向かって言った。「そうですか」男性は残念そうな顔になった。吾輩は女性の手の中に包まれた。彼女は吾輩を抱くと、再び立ち上がった。「では、私はこれで失礼します」「ああ、また来てください」男性が笑顔で言った。吾輩は彼に向けて一鳴きした。すると、彼の顔が明るくなった。吾輩はその様子を確認すると、女性に連れられて部屋を出た。

それからしばらく歩いた後、吾輩は建物の外に出た。空には太陽が輝いていた。周囲を見ると、多くの人間が歩いているのが見えた。彼らは皆、同じ服を着ていた。それはまるで制服のようだった。吾輩は不思議に思った。こんな格好をしている人間は見た事が無かったからだ。

「さっきの人、君の飼い主だったの?」彼女が話しかけてきた。「ニャア」吾輩は鳴いた。「そっか、じゃあ今度会ったら挨拶しておかないとね」「ニャー」吾輩は肯定した。

吾輩達は通りを歩いていた。「ここが私の家だよ」彼女が言った。吾輩は彼女に連れてこられた建物を見た。それはとても大きかった。窓の数も多く、壁の色も綺麗だった。おそらく、高級住宅なのだろうと吾輩は推測した。彼女は玄関に入ると、吾輩を抱きかかえて家の中に入っていった。

とても大きく窓の数も多く壁の色も綺麗な高級住宅

「ただいま〜」彼女が言った。「あら、お帰りなさい」奥の方から声が聞こえてきた。吾輩はその声の主を見た。そこにいたのはエプロン姿の女性であった。彼女は手に持っていた料理をテーブルの上に置くと、こちらにやって来た。「あなたが拾ってきた猫ちゃん?」「うん、名前はまだ無いんだって」彼女が答えた。「ふふっ、名前が無いなんて可哀想ね。ねえ、君の名前は何が良いかしら?」彼女が吾輩に尋ねた。吾輩は考えた。名前は必要だと思ったからである。だが、良い名前が思いつかなかった。そこで吾輩は彼女の胸元を見た。そこにはネームプレートがあった。『三崎』と書かれていた。「ミサキ……」彼女は呟いた。それが自分の名だと吾輩は理解した。「ミサキ……可愛い名前ね」女性が微笑んだ。「良かったね、ミサキ」彼女も笑った。

「じゃあご飯にしましょうか」その言葉を聞くと、吾輩は腹が減っている事に気がついた。吾輩は彼女の手の中から飛び出すと、彼女の足下に擦り寄った。「ふふっ、お腹減ってるみたいね」彼女はそう言うと、吾輩を抱え上げた。そして、そのまま椅子に座ると、吾輩を膝の上に載せた。「はい、どうぞ」彼女は吾輩の前に皿を置いた。中には白い液体が入っていた。「ミルクよ」女性が説明した。吾輩はそれを舐めてみた。味は悪くなかった。

「美味しい?」彼女が尋ねてきた。吾輩はそれに答えるように鳴いてから、再びミルクを飲み始めた。その様子を見て、女性は笑みを浮かべていた。「本当に可愛いわね」彼女はそう言って、吾輩の頭を撫でてくれた。吾輩は幸せであった。

「そういえば、あの人は元気にしてるかしら?」食事が終わった後、彼女は言った。「あの人って?」彼女は首を傾げた。「ほら、あなたのお父さんの事よ」彼女は吾輩の方に視線を向けた。「ああ、そう言えばそんな事も言ったような気がする」彼女はそう言うと、少し悲しそうな表情になった。「どうかしたの? 何かあったのかしら?」「うーん、別に何も無いけど……」彼女は言葉を濁らせた。吾輩は二人の間に流れる空気を感じ取った。「ねえ、ミサキ」彼女が呼びかけてきた。「なに?」「今日は一緒に寝ても良いかな?」「えっ⁉」彼女は驚いた様子になった。「駄目かな?」彼女は不安そうな顔になっていた。「いいや、全然構わないよ!」彼女は慌てて否定した。「ありがとう」彼女は笑顔になると、吾輩を抱えたまま立ち上がった。「それじゃあ、部屋に行きましょう」彼女は歩き出した。

吾輩はベッドの上で眠っていた。すると、「スーッ、スーッ」という音が聞こえてきた。吾輩が目を開けると、目の前には彼女の顔があった。彼女は静かに寝息を立てていた。「ニャア」吾輩は鳴いた。しかし、彼女に反応は無かった。よく見ると、彼女は泣いているようだった。吾輩は彼女の頬をペロリと舐めた。彼女は目を覚ました。「ごめんね、起こしちゃった?」彼女は謝ってきた。「ニャア」吾輩は大丈夫だと伝えた。

「やっぱり寂しかったんだ」彼女は小さな声で呟いた。「私もね、お母さんが病気になって、お父さんのところに行く事になった時はとても辛かったんだ。だから、ミサキの気持ちはよく分かるんだよ」彼女は優しく吾輩の体を撫でた。「ニャーン」吾輩は甘えた声を出した。「ふふっ、可愛い鳴き声だね」彼女はそう言うと、吾輩の体を抱き寄せた。

「また明日ね」「ニャー」彼女の言葉に吾輩は鳴いた。そして、吾輩達は眠りについた。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。(了)

(終)



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