【猫24

吾輩は猫型人工生命体である。名前はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生の吾輩の主人であったそうだ。この人間はいつも学校とかいう所へ行ってて、家にはいなかった。時々帰って来ては吾輩に飯を食わせたり風呂に入れたりした。しかし吾輩は何も恩返しはしなかった。ただ食べたい時に食べたいだけ食った。そして寝たい時いつでも寝た。雨の日も風の日も雪の降る日も暑い日も寒い日も鼠一匹通さない頑丈な格子窓のある家の中で悠々と暮らしていた。実に快適だった。一日中寝ていても誰にも怒られなかったし腹が減ったらいつでも食い物があった。朝から晩までぐうぐう寝ていてもいいのだ。何という好条件であろう。吾輩はここを第二の人生の場として大いに楽しんだ。

ところで吾輩には親兄弟はないのかって? ないよそんなもの。猫はもともと群れないものだ。それに吾輩は人工生命体だぞ。生まれながらにしてすでに完成されているのだ。これ以上何も必要ではないのだ。そう吾輩は考えていた。

ところがある日突然事件が起こった。主人が学校へ行く途中事故に遭ったのだ。自動車に轢かれたらしい。即死だったという。主人を失った吾輩の生活はこの日から一変した。毎日のようにやって来る近所の者どもが吾輩を見ては憐れみの言葉をかけた。餌を持って来る者もいた。吾輩はすっかり困ってしまった。今までは吾輩にとって主人さえいればそれでよかったのだが、その主人がいなくなってしまった以上吾輩は生きて行く術を失ってしまったのである。一体どうしたらよいのだろう。吾輩が途方に暮れているとどこからともなく声が聞こえて来た。「お前さんはあの人間の事が本当に好きだったんですねえ。でももう大丈夫ですよ。私がこれから貴方を引き取ってあげますからね」その声の主は誰あろう吾輩を作った科学者の声であった。吾輩はその言葉を聞いてホッとした。これでまた前のような生活ができると思ったからだ。だが世の中というのはそれほど甘くはなかった。吾輩は引き取られた先で散々こき使われた挙句、ある寒い夜とうとうゴミ捨て場に打ち捨てられてしまったのである。全く酷い話もあったものである。こんな目にあうくらいなら最初からあんな所に生まれて来なければ良かったと吾輩はつくづく後悔した。しかしいくら嘆いても後の祭りである。こうなったら何とかして生きて行かねばならない。幸いにも吾輩は寒さに強い体質なので死ぬ事はないだろうがそれでもこのままでは飢え死にしてしまうに違いない。そうなればせっかく吾輩を育ててくれた書生に対しても申し訳が立たない。吾輩は何か食べ物を探そうと決心をした。まず吾輩が向かった先は以前吾輩を拾ってくれた書生の家である。書生は吾輩を見ると大層喜んでくれた。「やあ久しぶりだね。元気だったかい?」書生はそう言って吾輩を撫で回してくれた。吾輩はとても嬉しかった。だが吾輩がここに来た理由は別に書生に会うためではなかった。吾輩は書生に言った。「吾輩をここに置いてもらえないかニャ」すると書生は少し驚いたような顔をしたがすぐに笑顔になって吾輩を抱き上げた。「勿論だよ。さあ好きな所に住みなさい」こうして吾輩は再び書生の家に住む事になった。

吾輩が書生の家に住み始めて三年が過ぎた。相変わらず吾輩は書生に可愛がられていた。この頃になると吾輩も大分歳をとって来た。昔のように自由に走り回る事も出来なくなってきたし、目もほとんど見えなくなった。だから吾輩は一日の大半を寝て過ごすようになった。書生は吾輩の事を心配してくれていたが、吾輩の方は一向に構わなかった。何故ならば吾輩にはもうあまり時間がないからである。おそらく吾輩はあと半年の命であろう。吾輩は自分の死期が近い事を感じていた。吾輩は書生の家の庭にある大きな池のほとりでいつものように昼寝をしていた。吾輩が目を覚ました時、吾輩の目の前に一匹のロボットが立っていた。ロボットは吾輩に話しかけてきた。「こんにちは。オイラはゴルどんと言います。よろしくお願いします」ゴルどんはそう言うとペコリと頭を下げた。

吾輩は驚いて飛び起きた。「何だ。お前はロボットなのか。人間じゃないのか。どうしてそんな姿になったのだ?」ゴルどんは悲しそうに答えた。「実はオイラの主人が交通事故に遭って死んでしまいまして……」ゴルどんの話によると主人が死んだ後ゴルどんもまた命を落としそうになったのだという。その時ゴルどんはある科学者に助けられた。その科学者の名は「あぃをゅぇぴじ」と言うそうだ。あぃをゅぇぴじ博士はゴルどんを修理すると共に新しい体を作ってくれた。それが今のゴルどんの姿なのだという。「吾輩は猫である」という題名の本を読んだ事があるだろうか? 吾輩は昔その本の主人公である猫だったのである。あぃをゅぇぴじ博士は吾輩とゴルどんを引き合わせて何をさせようとしているのだろう。吾輩はその事をゴルどんに尋ねた。するとゴルどんは困った顔をしながら言った。「それはオイラにも分からないのです」ゴルどんは何も知らないようであった。吾輩はゴルどんに別れを告げると再び池のほとりに戻って行った。

それから数日後、書生は吾輩を散歩に連れて行ってくれた。吾輩は久しぶりに日の光を浴びた。そして吾輩たちはしばらく歩いてから休憩する事にした。吾輩は書生と並んで地面に腰を下ろした。書生は吾輩の顔を見て言った。「あぃをゅぇぴじさんは何をしている人なんだい?」吾輩はそれを聞いて驚いた。書生はまだあのあぃをゅぇぴじという人物が吾輩たちを作った張本人だと気付いていないらしい。吾輩はどう説明したものか迷ったが結局本当の事は言わない事にした。代わりに吾輩はこう言った。「あぃをゅぇぴじ博士は偉大なる天才であるぞ」書生は笑って吾輩を見た。吾輩は照れ臭くなって顔を背けた。その時だった。突然吾輩たちの目の前に一人の老人が現れた。老人は吾輩たちに微笑みかけると言った。「あぃをゅぇぴじです。初めまして」吾輩は仰天して立ち上がろうとしたがうまく体が動かなかった。書生も慌てて立ち上がった。「どなたですか?」書生は恐る恐る聞いた。「私はあぃをゅぇぴじ博士と言います」老人はニコニコしながら答えた。「あぃをゅぇぴじって一体誰なんですか?」書生は不安そうな声で吾輩に聞いてきた。吾輩は答えようとしたが声が出なかった。吾輩たちが黙っているとあぃをゅぇぴじ博士が話し始めた。「あぁ、申し訳ありません。私としたことが自己紹介を忘れていました。私はあぃをゅぇぴじと言います。猫型人工生命体であるあなた方を作った人間でありまた同時にこの世に存在する全ての機械を発明した人物でもあります」吾輩は驚きのあまり言葉を失った。書生もまた驚いている様子だったがあぃをゅぇぴじ博士の言葉を信じたらしく納得したように何度もうなずいていた。

「それでは早速ですがゴルどんを直していただけませんでしょうか?」書生が吾輩の代わりに言った。「分かりました」あぃをゅぇぴじ博士はそう言うとポケットの中から小さな部品を取り出してゴルどんに差し出した。ゴルどんはそれを受け取って自分の体の中に入れた。次の瞬間ゴルどんは目を輝かせながら吾輩に向かって言った。「凄い! 体が動くようになったよ!」吾輩はゴルどんの様子を見て安心した。「良かったなゴルどん」「ありがとうございます」ゴルどんは吾輩に礼を言うとあぃをゅぇぴじ博士の方を向いた。「本当に助かりました」あぃをゅぇぴじ博士は笑った。「いいんですよ」それからあぃをゅぇぴじ博士は書生の方を向いて言った。「さあ、これで用事も済みましたしそろそろ帰りましょう」吾輩たちは家に帰る事になった。

その後吾輩は書斎で本を読んで過ごしていた。すると突然扉が開いて誰かが入ってきた。吾輩は警戒したがその人物は吾輩を見つけるなり嬉しそうな顔になって話しかけてきた。「おや、君はまだここに居たんですね。もうすぐ夜ですよ。早く寝なさい」吾輩はその人物があぃをゅぇぴじ博士だと知って驚いた。「何故吾輩がここに来た事が分かったのだ? それにどうやって入ったのだ?」吾輩が聞くとその人はニヤリと笑って答えた。「そんな事は簡単です。私はあぃをゅぇぴじだからです」吾輩は呆れて何も言えなかった。しかしあぃをゅぇぴじ博士は構わず話し続けた。「ところで君は猫という生き物についてどう思いますか?」吾輩は答えようと思ったがあぃをゅぇぴじ博士は喋り続ける。「猫というのは実に不思議な動物でしてね。何しろ彼らは生きている間ずっと眠り続けているんですから。不思議だと思いませんか?」吾輩は何も答えなかったがあぃをゅぇぴじ博士は一人で話し続けていた。「もし彼らが眠らなくても良い体を手に入れたとしたらどうなると思います?」吾輩は答えないつもりだったのだが気が付くと吾輩は口を開いていた。「それは一体どういう事なのだ?」吾輩はあぃをゅぇぴじ博士の話に引き込まれていた。「例えば猫型の人工生命体を作るとするでしょう。そして彼らに眠る必要の無い体をプレゼントする。ところが猫型の人工生命体には脳みその代わりに特殊な液体が入っているだけです。つまり猫型人工生命体の体はただの水で出来ているのです。もちろん猫型人工生命体の意識も水に映る影のようなものなのです」吾輩は黙って聞いていた。「そこで問題が起こります。猫型人工生命体は猫の姿のまま動き回る事が出来ても猫として生きる事が出来ないのです。なぜなら彼らにとって猫とは猫の姿をしているだけの水の塊に過ぎないからです」吾輩は考え込んだ。「では猫が猫らしい行動をするのはどうしてだ?」吾輩は聞いてみた。「それが分からないから面白いんじゃありませんか」あぃをゅぇぴじ博士はそう言って笑った。吾輩はため息をつくと本を閉じて立ち上がった。「では吾輩はこれにて失礼させて頂く」吾輩がそう言うとあぃをゅぇぴじ博士は残念そうな顔をした。「そうですか……また来て下さいね」吾輩は書斎を出る前に振り返るとあぃをゅぇぴじ博士に向かって言った。「今度は吾輩が質問をする番だぞ」あぃをゅぇぴじ博士は首を傾げた。「はい。何でもお聞きください」吾輩はあぃをゅぇぴじ博士に尋ねた。「ではまず一つ目だ。あぃをゅぇぴじ博士は人間なのか? それとも猫なのか?」吾輩の言葉を聞いた途端にあぃをゅぇぴじは笑い出した。「ハハッ! まさしく『猫』という言葉にふさわしい問いですねぇ」吾輩は何が何だが分からなかった。あぃをゅぇぴじ博士はさらに続けた。「確かにこの姿形を見ただけではどちらにも見えるかもしれません。でも私の本質は猫ではないのです。猫のように見えるかもしれないけれど猫とは違う存在なんですよ」吾輩にはやはりよく分からなかった。あぃをゅぇぴじ博士はさらに説明を続けた。「まぁあなたのような猫にとっては猫以外の生物は全て同じに見えるでしょうけどね」吾輩はムッとしたが言い返せなかった。あぃをゅぇぴじ博士の説明はまだ続いていた。「それで二つ目にお尋ねしたい事はなんでしょうか?」吾輩は少し考えてから聞いた。「あぃをゅぇぴじ博士は猫という生き物についてどう思うのだ?」あぃをゅぇぴじ博士はしばらく考えた後で答えた。「猫というのは本当に不思議な生きものでして、その行動原理というものが全く理解できないのですよ。そもそもなぜあんな奇妙な格好をしてわざわざ狭い所に入りたがるのか分かりません。あの小さな穴の中で何を考えているんだろうかとか一体どんな気持ちなんだろうと想像するとワクワクしますよ」吾輩はその言葉を聞いてあきれたような声を出した。「そんな事を言っている割にはずいぶん熱心に研究をしているようだが……」あぃをゅぇぴじ博士は恥ずかしげもなく胸を張ってこう断言した。「えっ⁉ それはもちろん私が大好きな動物だからですよ!」そしてさらに熱弁を振るうように話し続けた。「私は今まで様々な動物の生態を研究してきましたし今も続けています。例えば犬や馬などはもちろんのこと最近では鳥の研究も始めています。鳥類の行動を研究する事によって人間とは何かを知る事ができるはずなのです」「ふむ……。つまりあぃをゅぇぴじ博士は人間の事が知りたくて仕方がないのだな?」吾輩の言葉を聞くとあぃをゅぇぴじは嬉しそうな顔になった。「そうですね! まさにそういうことです! 今まさに私は人間の事を知りたいと思っているところだったんです」吾輩はため息をつくと言った。「全くおかしな奴だな……」「そういえばまだ三つ目の質問を伺ってませんでしたね」あぃをゅぇぴじ博士が思い出したかのように言った。「そうだな……では最後の質問なのだが、もしあぃをゅぇぴじ博士が人間になれるとしたらなりたいと思わないか?」吾輩は思い切って聞いてみた。しかしあぃをゅぇぴじ博士は困ったような顔をして首を横に振った。「それは難しい質問ですね。私はもうすでに人間なんですよ」吾輩は驚いて聞き返した。「どういうことだ?」あぃをゅぇぴじ博士は少し悲しげな表情を浮かべて言った。「私の両親は普通の人間でしたが私が子供の頃に死んでしまいまして、それからずっと一人で暮らしてきたのです」あぃをゅぇぴじ博士は続けた。「それ以来私はずっと人間になりたいと思っていたのです。でもこんな姿をしている以上は絶対に無理だと諦めていたんですよ」あぃをゅぇぴじ博士は続けて言った。「ところが先日突然私の前に不思議な方が現れたのです。彼は私を見て『猫になれますよ』と言ってくれたのです。その時は半信半疑だったのですが、彼が呪文を唱えると目の前にいたはずの私が消えてしまい、気がついた時にはこの姿でここにいたんです」吾輩はそれを聞いて驚いた。「それは本当なのか?」あぃをゅぇぴじは笑顔で大きくうなずくと言った。「もちろんですよ。これであなたとお別れするのは名残惜しいですがそろそろ失礼させていただきます。またいつかお会いできるといいですね」あぃをゅぇぴじ博士は立ち上がって部屋から出て行こうとした。吾輩は慌てて引き止めた。「ちょっと待ってくれ!」吾輩はあぃをゅぇぴじ博士を呼び止めるとポケットからある物を取り出した。「これを持っていけ」吾輩が差し出したのは小さな瓶に入った薬だった。あぃをゅぇぴじはそれを受け取って不思議そうな顔をしながら眺めていたがやがて恐る恐る尋ねた。「これは何ですか? もしかして毒とかじゃありませんよね」「そんなわけないではないか。ただの栄養剤だよ。それを飲めばたちまち元気になって猫の姿にも戻れるのだぞ」あぃをゅぇぴじはしばらく考え込んでいたようだったがやがて意を決するとその瓶の中に入っていた液体を飲み干した。そして次の瞬間、その姿は見る間に小さくなってあぃをゅぇぴじではなく一匹の子猫になった。子猫はすぐに目を覚ますと辺りを見回して自分に起こったことを理解すると嬉しそうに吾輩に飛びついてきた。吾輩はその体を優しく受け止めると頭を撫でながら言った。「よかったな、元に戻れて」「はい! ありがとうございます!」子猫は元気よく返事をした。「ところで名前はまだ無いのか?」「いいえ、ありますよ」「あぃをゅぇぴじというのが正しい発音なんだけれど、みんなからはあいちゃんと呼ばれているんです」「ふむ……。ならばこれからはオイラのことをご主人様と呼ぶがよい。オイラの名前はゴルどんと言うのだ」オイラの言葉を聞いた子猫は嬉しそうな声で鳴くと答えた。「はい! わかりましたゴルどんさん」こうしてオイラたちは初めて出会ったのであった。

(終)



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