【猫9】
吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中でいちばん悪い種類の人間で、毎日ほかの小猫をいじめて楽しんでいるという話であった。この人間は吾輩を抱き上げて「かわいいやつだ」と言った。その時人間の顔がちょうど日当たりのいい窓際に置いた時計ほどに明るくなったように思った心地がして胸がドキドキした。なぜってその笑い方がまるで教会の天井にあるマリア様のお顔のようにやさしかったからだ。ところでお前さん達、『吾輩は猫である』という小説を知っているかね? あれは今から五十年も前に書かれた小説だが、なかなか面白いよ。主人公の猫がいろいろな冒険をするんだ。その冒険談を書いたものを『冒険記』と言うが、その中でも一番有名な話がある。
「三尺の高みより飛び下りる猫の話」
という題がついている。これは一八七六年に書かれたものだそうだ。ここに出てくる猫というのはもちろん吾輩のことではないよ。『三尺の高みより飛び下りた猫』というのは、つまり高い所から飛び降りると大層気持ちがいいだろうと思うのだが、いざやってみると足の下が空っぽなのでひどく心細い思いがする。そして下を見るとそこらじゅうまっくらで何も見えないのだ。そんな時、もし運よく木の上にでもおりたら、きっとほっとするにちがいないと思った。そこで吾輩は三尺ばかりの高さのある塀に飛び上がって、そこからすべり降りた。ところがどっこい。着地したのは何と瓦の上だった。それだから怪我こそしなかったけれど、痛くてたまらんかった。
しかし考えてみれば、こんな無茶をしたのも、すべてこの世に生まれて間もない赤子の時に母上に抱かれたままどこかへ連れて行かれそうになった時の恐怖心がまだ残っているためだと気がついた。そう思うと急にしんみりした気分になって来た。……どうだい、お前さん方、少しはこの猫の身にもなってごらん。まあもっとも、猫だって同じことをしたらやっぱり死ぬほどの目に会うかも知れんがね。……いや、冗談だよ。とにかく吾輩はこうして無事に生まれたわけなんだから。
えっ? 吾輩はどこで生まれたのかって? そりゃもちろん、あの小さな箱の中さ。……おい、何を笑うことがある? お前さん方はみな、生まれて来た時はみんなあんなちっちゃな箱の中に居たんだよ。覚えているかい? 思い出せないなら教えてあげようか。まず大きな布でくるまれていてね、それから何か柔らかいもので体を包まれるんだ。ほれ、こうやって両手両足を動かすとちゃんと動くだろう?……どうだい、これでもまだ疑うかね? じゃ今度は証拠を見せよう。ちょっと待っててごらん……」
吾輩はしばらく自分の寝床の中でジタバタしていたが、そのうちに腹が減ったので台所に行ってミルクを飲んだ。するとそこへ主人が帰って来た。主人は吾輩を見るなり言った。
「おっ、またミルクなんか飲んでいる!……こいつには困ったもんですね。いくら何でも飲みすぎですよ」
「ニャア!」
吾輩は抗議の声を上げた。
「なんですか?」
「ニャーオ(いいじゃないか)」
「良くないですってば。あんまり飲むと体に毒なんですからね」
「ニャンだ⁉(何だ⁉)」
吾輩は目をむいて怒った。
「何だじゃないでしょう。いい加減にしなさいよ。まったくもう……。牛乳は体に悪いんですよ。お乳を出さない牛のしぼりたてなんて特にいけないんですからね。そんなものを飲むんじゃありませんよ」
主人の言葉を聞いて吾輩は悟った。
「ニャッハッハ‼(分かったぞ)ニャオッ!(そういうことか!)」
吾輩は満足して笑い声を立てた。
「分かりましたかね。分かればね、猫君。さ、お仕置きだ。来い‼」
吾輩は主人に捕まった。
「ニャッ、ニャアー‼(やめてーっ‼)」
吾輩は必死で抵抗した。しかし主人は吾輩の鼻面を押さえて、そのままズルズルと引きずって行く。
「ニャウー‼(やめろーっ‼)」……と、その時である。
ドサッ。
吾輩は主人の手を逃れて畳の上に転げ落ちた。見るとそこには、吾輩と同じ黒猫が一匹、ちょこんと座っていた。それは吾輩の遊び仲間だった。
「やあ、猫君。久しぶりだね」
その猫が挨拶した。
「ニャウ?(君は誰?)」
「ぼく? ぼくは君の友達の黒猫さ」
「ニャウ?(友達?)」
「そうさ。いつも一緒に遊んでいただろう」
「ニャーン」
「さあ、今日は何をして遊ぶ?」
「ニャオン」
「よしきた」
「ニャオーン」
「よおし、負けないぞ」
「ニャオー」
「いくよ、猫君」
「ニャーオ」
「よっと」
「ニャー」
「えい」
「フギャ」
「やったあ、勝った」
「ニャオ」
「さあて、もう一回」
「ニャオウ」
「よーし。勝負」
「ニャオ」……こうして吾輩とこの猫とは、一日じゅう碁を打って過ごした。ところが、次の日も、また次の日も同じ猫がやって来た。そして毎日のように吾輩たち二人は碁を打った。この黒猫が来てからというもの、吾輩の生活は一変した。それまでは、飯を食い終わったら、すぐに寝床に入ってゴロゴロしていたのだが、今はこの黒猫と碁を打つために夜遅くまで起きているようになった。おかげで朝起きる時間も早くなった。
「どうだい、猫君。そろそろ帰ろうか」
「ニャオ」(うん)
吾輩たちは家に帰ると、また碁を打ち始めた。しかし、だんだん飽きて来た。そこで今度はトランプを始めた。吾輩とこの猫との頭脳戦が始まった。
「どうだい。猫君。次はこれでいこうか」
「ニャオ」(そうだな)
「じゃあね、まずはポーカーから行こうか」
「ニャオ」(よし来た)
吾輩はカードを配りながら考えた。
(こいつ、なかなかやりよるわい。だが吾輩とてそう簡単にはやられんぞ。せいぜい頑張ることじゃな。ニャハハハ……)
「さて、カードをオープンするけど、いいかな?……はい。ぼくの勝ちだね」
「ニャッ⁉(えっ?)」
「残念でした。やっぱりぼくの勝だね」
「ニャオ!(ずるい!)」
「何言ってるんだよ。先に決めたルールじゃないか」
「ニャア!(そんなこと決めていないもんね)」
「決めたってば」
「ニャー‼(嘘つけーっ‼)」
「本当だよ。君だって承知しただろう」
「ニャーオ……(う〜ん)」
「まあいいや。もう一度しよう」
「ニャウン……」
「じゃあね、次はこれだ」
「ニャッ⁉(何だ⁉)」
「君が決めるかい?」
「ニャウ……(いや、吾輩が)」
「決まった?」
「ニャア‼(よし‼)」
吾輩は配られたカードを見た。するとそこにあったのは『ジョーカー』であった。
「ニャッ⁉(何だと‼)」
思わず目が点になった。
「どうしたんだい? 早く出してごらんよ」
「ニャウ!(いいのか?)」
「ああ、かまわないよ」
「ニャッ‼(では遠慮なく)」
吾輩は一枚のカードを出した。
「おお、スペードのエースか。すごいじゃないか」
「ニャウッ‼(やったぞ‼)」
吾輩はそのカードを誇らしく掲げた。
「でもね、君」
「ニャ?(なんだ?)」
「まだゲームは終わっていないよ。ほら、次の札を出す番だろ?」
「ニャッ!(そうだった)」
吾輩は慌ててカードの山から一枚のカードを引き抜いた。
「ニャアッ‼(さあ、こい‼)」
「はい、これだね」
「ニャウゥ〜(くそぉーっ‼)」
「ははははは。ぼくの勝ちだね」
「ニャウ……(負けてしまったぁ)」
「じゃあ、約束通り罰ゲームをしてもらおうか」
「ニャウ……(仕方ない。何でも言ってくれ)」
「うん。じゃあ、まずはお座りして」
「ニャッ?(何?)」
「いいから座る」
「ニャウ……。ニャオッ‼」
吾輩は主人の命令に従った。すると、主人は吾輩の尻に顔を近づけてきた。
「ニャッ⁉(何をする気だ⁉)」
「シッ!」主人が鋭く言った。その瞬間、吾輩の肛門を主人の鼻先がかすめた。吾輩はあまりのことに硬直してしまった。そしてそのままの状態でじっとしていると、やがて主人は吾輩から離れていった。
「よし、もういいぞ。よく我慢したな」
「ニャア……(ひどい)」
吾輩は抗議の意味を込めて鳴いた。しかし、主人は涼しい顔でこう答えた。
「馬鹿者め。これは立派な治療なのだ」
「ニャウ?(どういうことだ?)」
「お前、ここ最近下痢気味だろう?」
「ニャッ⁉(なぜそれを⁉)」
吾輩は驚いた。確かに吾輩はここ数日下痢に悩まされていたのだ。しかし、それは誰にも話していないはずなのに、どうしてこの人間は知っているのであろうか。
「やはりな。だから、これから毎日俺と一緒に風呂に入るぞ」
「ニャウ⁉(何だって⁉)」
「どうせ糞尿まみれになるんだから一緒だろう。それに俺は医者だぞ。自分の患者を放っておくわけにはいかない。分かったな?」
「ニャウ……(うむぅ)」
吾輩はしぶしぶ承諾した。そして、その後しばらくの間、この人間と吾輩は一緒に入浴することになった。もちろん、主人はこの男だけが入っている時に吾輩も連れて行こうとするのだが、そこは断固拒否させて頂いた。
「ニャア!(何しやがる!)」
「いいじゃないか。減るもんじゃないし」
「ニャウ!(嫌なものは嫌だ‼)」
「まったくわがままだなお前は」
「ニャア……(あんたが変なことしようとするからだろ)」
吾輩はため息をついた。しかしこの男はあきらめなかった。ある日のこと、吾輩はとうとう観念した。
「ニャウ……(いいだろう)」
吾輩がそう言うと、男は目を輝かせた。
「よしよし。やっと素直になったか」
「ニャウ……(だが条件がある)」
「何だ?」
「ニャア(今度、吾輩にうまい飯を食わせてくれ)」
「はあ?……そんなことでいいのか?」
「ニャッ!(それが一番重要だ)」
「まあいいけどさ」
こうして吾輩はようやく食事にありつくことができたのであった。